氷は存外簡単に溶ける

皿うどん

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不運ヒーロー

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「……これからはアンナと呼ばせてもらう。どこか見たい場所はあるか?」
「では、庭をお願いします」

 ヴィクターを先頭に、フィリップにエスコートされたアンナは、失礼にならない程度に屋敷を観察した。魔獣に襲われたときの籠城先としても設計されている屋敷は、豪奢ではないがさりげないセンスが光る、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
 庭は華やかを装っているが迷路のようになっていて、魔獣が直進できないよう設計されている。

「もし逃げるのなら、ここが良さそうですね」
「ごく僅かな侍女に隠し通路を教えてある。アンナにつけるから、そこから逃げればいい」

 誉れあるフィアラーク家に来て真っ先に確認したのが、逃げ場所。
 ヴィクターの中で、アンナの変人指数がどんどん上がっていく。フィリップはフォローしようとしたが何も思い浮かばなかった。それでもなんとか言葉を絞り出そうとしているうちに、執事がやってきてフィリップに告げる。

「当主様から連絡が来ております」
「……わかった。アンナ、何かあれば呼んでくれ」
「はい」

 名残惜しそうに、しかし足早に去らなければならないフィリップの姿が見えなくなると、ヴィクターはアンナをまっすぐに見つめた。

「……悪いが、まだ心の整理ができていない。アンナのことを完全に受け入れられない」
「そうでしょうね」

 何気ない返事に、ヴィクターは戦慄した。
 アンナの言葉には、なんの感情もこもっていなかった。哀れみを誘うでもなく、媚をはらむでもない。アンナは言葉以上のなにも発していない。フィアラークの名に向けられるものが、いっさい含まれていなかった。

 契約通り、時が経ち無事に婚約解消できればいい。だが、フィリップのあの視線。何事もなく、すんなりと他人になるとは思えなかった。

「フィリップ兄上のことは嫌いか?」
「好き嫌いでいえば嫌いですが、前ほど嫌いではありません」
「……それ、嫌いじゃないか」

 ヴィクターは、ぐっと手を握りしめた。アンナに戸惑っているとはいえ、何も知らないのに嫌うのはよくない。
 ヴィクターはいい子だった。

「アンナも気づいているかもしれないが……」

 ヴィクターはくちびるを噛んだ。

「フィリップ兄上は、女運がまっったくないんだ!!」
「でしょうね」

 グラツィアーナと接するうちに、アンナの貴族観が変わっていった。
 いままでアンナと主に接したのは元家族と元婚約者やエレナ、流された悪い噂を信じ込んで嫌味を言ってくる生徒たちだった。けれどグラツィアーナは違った。
 自分の理想のために、アルベルトの目指すもののために努力は惜しまず、人としても淑女としても素晴らしい。そのグラツィアーナと親しくしている令嬢も、彼女と懇意になるのに相応しいと聞く。

 グラツィアーナのようにきちんとした令嬢にはきちんとした婚約者がおり、きちんと婚約者以外の異性に近づかないようにしていた。フィリップが女嫌いなのは有名だったため、心情を慮って話しかけなかったのである。
 つまりフィリップに近づいてくるのは、フィリップの事情や心情を知らない無知な者か、知ってなお近づく者だ。フィリップが今まで接したのは、厚かましい女性か、フィアラークの勇ましすぎる女性。あまりに両極端だった。

(僕だってフィリップ兄上の恋は応援したい。きっと初恋だ。でも惚れたのが、兄上にまっっったく興味がないフィアラーク寄りのアンナ……男を毛嫌いしていそうなアンナ……)

「だから、アンナのことを警戒してしまうんだ。アンナも婚約したくてしたわけじゃないのに、すまない」
「わたしは自分で婚約を選択しました。わたしの人生に、そのように謝罪する必要はありません」
「……うん。先に聞いておきたいんだけど、フィリップ兄上と結婚したい?」
「嫌です」

 即答だった。フィリップを憐れむほどの早さに、ヴィクターはちょっぴり涙が出そうだった。

(兄上がフラれたら慰めてあげよう。初恋は実らないものだし)

「これからアンナは、星辰の儀までに最低限の動きと受け答えが出来るように、マナーを叩き込まれると思う。父様と母様はそれぞれ社交があるから、常に一緒にいることは難しいだろう。ふたりがいない時は僕が一緒にいて、できるだけ手助けするよ」

 アンナを認めないと言ったのに、やけに優しい言葉だった。

「ヴィクター様は、フィリップ様を慕っているのですね」
「ヴィクターでいい。……フィリップ兄上は星辰の儀で勝ち続けるほど強く、賢くて頭の回転も速い。家族ではないけど、どこかで血の繋がりがあると言って、兄上と呼ぶことを許してくれている」
「わたしにとってララが大事なように、ヴィクターもフィリップ様が大切なのですね」

 自然と会話が途切れ、穏やかで静謐な散歩を堪能していると、フィリップがやや慌てた様子でやってきた。

「アンナ、急にすまないが、明日本家に行くことになった」
「早まったのですか?」
「アンナを大変気に入ったとバルドヴィーノ殿が話したところ、当主ができるだけ早く会いたいとおっしゃった。明日の昼過ぎには出る予定だ」
「わかりました。フィアラークではこれほど早く手紙のやり取りが出来るのですか?」
「王城でも出来るが、どうやってするかは秘密なので話すことは出来ない」
「そうですか」

 ヴィクターは久々に会えたフィリップが去ってしまうことにシュンとしたが、すぐに笑顔を作った。健気な少年だ。

「ディナーは豪華になるでしょうから、たくさん食べてくださいね。フィリップ兄上、また手紙を書きます」
「ああ。王城や学院ではアンナを頼む」
「任せてください!」

 アンナを助けるとヴィクターの意思が固まった瞬間だった。

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