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第2話 内なる邪悪

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 神官は最期の願いを込めながら自分の意思で閉ざした眼を、開眼せざるを得なかった。
 
 そうして開いたその眼に映る光景は、先程まで居た森の中とは明らかに一変していた。
 周囲は、完全な闇に包まれている。光源などは一切なく、更には音すら全く聞こえない。
 まさにそこは闇に包まれた『無』の世界。
 常人であれば数分と持たずに自我が完全に崩壊してしまうであろう場所である。
 
 だが、この闇を投影したような神官の黒い瞳からは動揺は感じられない。それどころか、瞳は一切の光を失っており、まるで感情そのものが消失したようであった。
 
 神官はその瞳を眼の中心に真っ直ぐ固定したまま、仰向けになった身体をむくりと起こして立ち上がる。
 その瞬間――。
 
 『――ふっ、あの程度で壊れてしまったとは、これはとんだ見込み違いであったかな?』
 
 突如、神官の背後から男の声や女の声、しわがれた老人のような声が、何重にも重なり一つの音として響いてきた。
 神官は驚いた様子もなく、声の聞こえた方向を振り向く。
 
 見るとそこには、闇の中で白に淡く輝いている光の玉がポツンと浮かんでいた。
 
 『貴様はその生涯をかけて尽くした神に見捨てられ、そして人間に殺されて生命の終焉を迎えた。……しかし、今の貴様には2つの選択肢がある。このまま何もせずに魂の消失が来る時を待つか、我々と契約を交わし新たな魂の根源を得るか。選べ』
 
 聞こえてくる声は、その光の玉から発せられているようだった。神官はそれを受けて、迷わずそれに手を伸ばす。
 光の玉は、神官のその動作を『契約を交わす意思がある』と捉えたのだろう。
 
 『――契約成立だ。では、手始めに貴様に我々の能力の一欠片を与えよう――』
 
 そう言った直後、神官は伸ばした手で光の玉を躊躇なく握り潰そうとした。
 しかし、光の玉は神官の手をすり抜けており、目の前から消えることはなかった。
 神官は、光の玉に触れる事すらできなかった。
 
 『――元神官というわりには随分と暴力的なのだな?だが生憎、今の貴様では我々に触れる事すら出来ぬ。本来であれば、我々に楯突くような不敬極まりない者には裁きを下すのだが、その度胸と憎悪には利用価値がある。今回は見逃すが、次はないぞ。……それよりも今、貴様には怒りや憎しみなどさまざまな負の感情を、力に変換できる能力を授けた。貴様の内に抱いた負の感情が強ければ強いほど、それに比例して貴様の力が強化される。……フッ、今の憎悪にまみれた貴様に相応しい力であろう?』
 
 酷く蔑んだような声が響く。光の玉は続ける。
 
 『だが、ただで力を与えるわけではない。――我々が与えた力を以て、世界に恐怖と絶望を与えよ。我々は人間を含めた全ての生命の恐怖、絶望の感情を力の源としている。喜べ、貴様は我々の手足として働くことを許され、新たな魂の根源を得たのだ。貴様は永遠に世界を絶望に陥れ続けるのだよ。もし、我々を裏切るようなことがあれば、貴様の肉体には耐え難い痛みと苦しみが永遠に刻み込まれるだろう』 
 
 光の玉は気味の悪い笑い声を響かせながら、神官に冷徹に言い放った。だが、それを受けても尚、神官の表情はまったく変わらない。
 まるで無の感情を無造作に顔に貼り付けただけのような、そんな得体の知れぬ不気味さがある。
 
 しかし、それだけではない。
 
 その無表情の中に取り付けられた瞳、そこに映るもの全てが彼の内でのたうち、猛り狂う憎悪によって黒々と染め上げられていく。
 
 ――そしてそれは、今、真っ直ぐに光の玉を捉えている。
 
 次の瞬間、神官は右手のひらを光の玉へ向けた。そしてそこに現れる禍々しい赤い渦。
 その渦は周辺の空間を歪めながら飲み込み、さらには光の玉をも徐々に飲み込もうとしている。
 
 『――貴様、我々を吸収しようとしているのか……そこまで愚かだったとは。身の程を知れ、人間風情が』
 
 光の玉は自分の周りの空中に、次々と魔法陣を展開していく。その数は100は下らない。
 そして、それらの魔法陣全てから超高密度エネルギーの光線を神官へ向けて一斉に放出した。
 
 このひとつの魔法陣から放たれたエネルギー量は、神官の仲間だった『魔法使い』の繰り出す攻撃魔法と同等かそれ以上の殺傷能力がある。 
 生前の神官であれば、その攻撃に対抗する術を持っていないため、まず直撃は免れないだろう。そして、直撃すれば確実に助からなかったはずだ。
  
 ……だが、神官は赤い渦を発生させている手で軽く払うような動作を行った。
 神官が唯一取った回避行動はそれだけだ。
 その動作だけで光の玉の攻撃は神官に当たる直前で急激に軌道を変え、とうとう全ての攻撃が掠りもせずに神官の位置から大きく外れた場所に着弾し、同時に爆ぜた。
 
 「――ッ!」
 
 光の玉から、ここで初めて驚きの声が漏れる。
 
 神官は発生させた赤い渦によって自分の周囲の空間を吸収、そして光の玉が発する攻撃が逸れるように空間を捻じ曲げていたのだ。
 
 『……おかしい、当初の計算と合わない。先ほどまでの貴様の憎悪程度では、これほどの力を出せるわけがない。それに今、貴様の全身には耐え難い痛みと苦しみが襲っているはず。……我々がどこかで計算過程を間違えたというのか?』
 
 これに神官は何も答えない。無尽蔵に溢れ出る憎悪を、瞳を通してただひたすらに真っ直ぐにぶつけ続けるのみである。
 
 ……もはや、言葉で憎悪を吐き出せるような段階には既にない。
 
 光の玉はその瞳を見て、すぐにそれを察した。と、同時にその憎悪の正体にも気が付いた。
 
  『そうか、分かった。先程までの貴様の憎悪に加えて、我々に対する憎悪が上乗せされ、それらが掛け合わされたことで貴様の内で憎悪が変異を起こし際限なく増殖を始めた、というわけか……。ははははは!これは思わぬところでつまずいたものだ。まさか一度は失ったはずの命を与えてやった我々に、憎悪を向ける者がいるとは!さらにそれだけでは飽き足らず、憎悪の暴走を引き起こすなどと……!』
 
 『愉快だ、実に愉快である。気が変わった、我々を吸収するが良い。我々――いや、私たち『エリニュエス』は貴様の内から、貴様の末路を眺めさせてもらうとしよう――』
 
 ――その言葉を最後に、光の玉――エリニュエスは神官の手のひらで禍々しい光を放つ赤い渦に吸い込まれていった。
 
 やがて、この空間と光の玉を全て飲み込み、神官は闇すら残されていない完全なる無に、ただ一人佇むのみとなった。
 
 しばらくすると、神官は無に向かって左の腕を上から下へと振り下ろした。その動作だけで、無の空間に大きな亀裂が入る。
 その亀裂の向こうに映る景色は、死の直前まで見えていたあの森の中、そして――
 
 ――原型すら留めぬほどに変わり果てた、自分の亡骸であった。
 
 神官はその亡骸を一瞥した後、その亀裂を通って自分が生まれて、殺された元の世界へとゆっくりと足を踏み入れた。

 ――踏み入れてしまった。
 
 地面を踏みしめたその音が、世界終焉の最初の跫音となることを、この世界の人間達は当然ながらまだ誰も知らない。
 
 
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