僕と君の図書室で。

彩芭つづり

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第2章 保健室での秘事

第8話 全部、演技

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「さあ、始めようか」

 あのときと同じだ。
 まるで始まりの合図のようなせりふに、恐怖から咽頭がヒクリと震える。

「羽村さんが悪いんだよ。おとなしく言うことを聞いていればいいのに、僕に生意気な口を聞くから」

 すべて自分の言うことを聞けと言う彼は、ひどく攻撃的で高圧的だ。あまりに当然のように話すから、こちらが悪いのだと錯覚を起こしそうになる。
 その考えを振り払うように、頭をふるふると横に振った。違う。どう考えてもおかしいのは藍達くんのほうのだ。
 わたしは藍達くんの奴隷でもなければ彼女でもない。ましてや、友達とだって呼べるかどうかわからないギリギリのラインに立っているのだ。言うことを聞く義理なんてなにひとつとしてない。
 ……そうは思ったけれど、こんな状態では反論などできるわけがなかった。口応えをすれば、またきっとひどいことをされるに決まっている。そうなるのが目に見えてしまっている。
 わたしは思った言葉すべてを、ぐっと飲み込んだ。
 くちびるを引き結ぶわたしを見て、藍達くんは楽しげに笑う。

「あれ、急にしおらしくなったね。さっきはあんなにぴーぴー騒いでたのに。少しは立場をわきまえたのかな。ま、今さら気づいたって遅いけど」
「……っ」
「なにその目、反抗的だね。そんな顔ができるのも今だけだよ」

 そう言うと、彼はスマホのカメラをわたしに向けた。ピコン、と場に似つかわしくない、かわいらしい電子音が鳴る。

「今日も動画を回しておこうね」

 慌てて顔をそむけた。
 こんなところを記録に残されたくない。

「や、やだ、撮らないで……っ」
「ああ、だめだよ。ちゃんとこっちを見て」

 おとがいを掴まれ、無理矢理スマホに顔を向かせられる。抵抗したくても、両腕を拘束する硬いベルトがそれを許さない。
 どうしてこんな辱めを受けなければならないのだろうか。強い羞恥から、瞳にじわりと涙が滲む。それから、つうっと頬を伝い落ちた。

「羽村さんの涙は本当に綺麗だなぁ……」

 熱を孕んだ恍惚とした声。吹きかかる吐息が熱い。
 涙にすら欲情する彼を止めることはできない。

「羽村さんの泣いてる姿……すごくそそる」

 言いながら彼はわたしの頤を掴む手を放し、代わりにベルトの先端を握った。そして、それを強く引く。両手首が一気に締め上げられる痛さに、短く悲鳴をあげた。ベルトの皮同士が擦られギチギチと音を立てて軋む。
 怖くて、痛くて、わたしは首を強く振った。

「あァァッ……! い、痛い……痛いよお……っ!」

 ぽろぽろと涙を流せば、藍達くんは熱い吐息を溢し嬉しそうに口の端を上げる。
 眼鏡の奥にある瞳を細めると、甘く掠れた声で、そっとささめいた。

「あー……最高」

 信じられなかった。痛みと恐怖に打ち震えるわたしを見て、満足そうに笑う彼の気持ちがまったくわからなかった。
 藍達くんはわたしを見つめ、獲物を狙いすました肉食獣のようにぺろりと舌なめずりをする。

「……羽村さんを見てるだけで、僕イッちゃいそう」

 ぞくりと背筋が震えた。
 瞬間、噛みつくようにくちびるを奪われる。
 突然のキスに目を瞠った。
 彼の熱い舌がぬっとりと口腔内に入り込み、わたしの舌に吸いつき引きずり出そうとする。
 喋りたくても喋れない。抵抗したくてもできない。
 粘膜を執拗にこすられて、舌先がじんと痺れだす。

「あ、ふ……ッ! ン……はあっ……ァ」
「……羽村さん……」

 口腔内を手荒く探るように弄られれば、熱にうなされてしまったかのように頭がクラクラする。
 このキスには優しさなど一片も感じられない。
 図書室でされたものよりも、さらに激しく、さらに濃厚な口づけだ。

「あ……たち、く……っ」
「……ん、羽村さん……もっと僕を求めて……」

 嫌なのに――嫌なはずなのに。
 最初こそ必死に彼の舌を押し出そうとしていたわたしの舌は、いつの間にか相手を求めるように舌尖ぜっせんにしゃぶりつき絡みついていた。
 藍達くんのキスには、今を夢中にさせて、すべてを忘れさせる力がある。
 長い時間、熱くとろけるようなキスに溺れる。なにも考えられないくらいに、脳内をとろとろに溶かされる。

 そして、キスに夢中になっているのは、わたしだけではなかった。
 先ほどまでわたしの淫猥な醜態を撮っていたスマホは、もうこちらを向いていない。気づけばスマホは藍達くんの手から滑り落ち、ベッドの下に落ちてしまっている。それを知ってか知らずか、藍達くんはスマホを拾い上げることなく、ただ目の前のわたしとの口づけに耽溺しているようだった。

「あ……ンン……っ、……は、あ……」
「ああ……かわいい。かわいいよ、羽村さん。……もう誰にも渡したくない、僕の、羽村さん……」
 
 まるで想い人に捧ぐようなせりふだった。
 前からわたしに好意を寄せていたと思わせるような言葉を紡ぐ。そして、わたしがまた誰かのものになることを恐れているみたいに聞こえる。

 愛おしげに髪を撫でられ、愛の告白に似たせりふを耳もとで囁かれる。
 そんなことをされたら、わたしは――いや、だめだ。昨日も同じことで地獄に突き落とされた。勘違いしてはいけないと、強く自分に言い聞かせる。

 ……だけど、不思議に思う。
 どうして藍達くんはこんなにもわたしに固執するのだろう。
 こんなにもキスがうまいということは、経験豊富なのだと思う。
 それなら、わたしでなくてもいいはずだ。
 性欲の捌け口にするのなら、こうして無理矢理するではなく、合意のうえでできる相手が他にも絶対にいる。
 ……それなのに、藍達くんはわたしを玩具おもちゃにしたがる。なぜなのかわからない。
 偶然か。必然か。都合がよかったからか。気に入らないのか。単純に火遊びなのか。不憫だから相手をしてやろうと思ったのか。わたしが誰よりも傷ついていたから、つけ込めると思ったのだろうか。
 それとも。
 本音を隠しているだけで、あるいは本当にわたしのことを――。

「ン……っ。あ……藍達く……ん」
「…………」
「ね……待っ、は、ふ……ひとつ、ンンッ……聞きたいことが、ある、の……っ」

 口づけが緩まった瞬間を見計らい、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。わかっているはずなのに、藍達くんは口づけを止めない。何度も「ねえ」「待って」と言い続けていると、煩わしげに眉根を寄せてようやくくちびるを離してくれた。

「……なに?」

 せっかくの時間を邪魔するなとでも言うような表情で彼が言う。
 聞いてもいいだろうか。彼の本心を。どういったつもりで、わたしにこんなことをし続けるのかを。きっとまたはぐらかされてしまうかもしれないけれど……。

 熱い口づけを中断したにも関わらず、なかなか話を切り出さないわたしにいらついたのか、藍達くんは不快そうに眉を顰め、こちらをねめつけるように見た。その視線に気づき、慌てて話し出す。

「あの……藍達くんは、どうしてこんなことをするのかなって……」
「なにそれ。聞きたいことってそれ? たまたまだって言ったでしょ、しつこいなぁ。続き始めていい?」
「ち、ちょっと待って……! でも、ちゃんと聞いておきたくて……」

 藍達くんが目を細める。なにが言いたいんだというような顔だ。
 言い出しにくい雰囲気だけど、聞いておかないと気が治まらない。
 小さな声で話し始めた。

「気になってることがあって……。さっきのあれ、本気なの……?」
「さっきのって?」
「だから、その……わたしのことを、す、好きって……」

 おずおずと言う。ベルトで拘束されたままの手を、ぐっと握り締める。緊張や恐怖から、てのひらは汗でじっとりと湿っていた。
 返事はすぐには返ってこなかった。
 彼は、少しの間を置いてから口を開いた。

「……さあ、どうかな。まあ、羽村さんが言う『好き』の感情には当てはまったわけだし、本気なんじゃない?」

 胸がずきりと痛んだ。
 まるで他人事だ。心が読めない。……考えていることがわからない。

「そもそもさ、僕が君を本気で好きだったらどうなるの?」

 聞かれ、わたしはくちびるを引き結ぶ。
 ……藍達くんが、本気でわたしを好きでいてくれていたら。もし、そうならば。

「……もう、こんなことはやめようって言いたくて」
「どういう意味?」
「だって、こんなことをしても、なににもならないから……もし藍達くんがわたしを好きでいてくれてるなら、ちゃんと向き合いたいって思って……」

 わたしの言葉を聞き、藍達くんが一瞬戸惑いの表情を見せた――ような気がした。
 しかし、すぐに眉根を寄せる藍達くん。怪訝な顔でわたしを見る。

「なにそれ、意味がわからないよ。向き合うってなに?」
「だ、だから、その」

 歯切れが悪い。言いたいことがうまく伝えられない。
 拘束されたままの手を、ぐっと握る。

「わたし……藍達くんのこと、怖い人だと思ってた。嫌がってるのに無理矢理ひどいことをしてくるし、意地悪ばっかり言うし……。で、でも、こういうことをする理由が、わたしへの好意なら……わたし、許すからっ! 藍達くんと、いい関係になれるように……から始めたいからっ!」

 え、と気の抜けた声を出す藍達くん。
 面食らった様子で、目を丸くしている。

「……羽村さんって本当に間抜けだね」
「まぬ……え?」
「だから自分の立場がわかってないって言われるんだよ」

 藍達くんは呆れたようにため息をつく。
 立場をわかってないと言ったのは藍達くん本人だけど……。そうは思っても口には出さない。
 彼はわたしを見ると、すっと目を細め、諦めたように話し出す。

「……つまりはさ、羽村さんは僕と健全な関係を築けるなら、今までのことはなしにするって言いたいの?」
「う、うん……」
「こんなことをする僕と友達になりたいと思う? 君は僕のしてきたことを全部許せるの?」
「全部……かはわからないけど、でも」

 でも、思うのだ。

「……本気で好きって言われたら、最初から拒絶する気にはなれないんだもん」

 人に愛されるのは、とても幸せなことだから。
 もちろん、ただの性欲の捌け口ならば受け入れるつもりはまったくない。だけど好意があるならば、きちんと向き合うことができる。藍達くんとも……こんな形ではなく、ちゃんと向き合いたいから。

「お人好しが過ぎるね。僕に好かれて嬉しいと思える? こんなことをされてるのに」
「……うん、嬉しい、よ……」

 訝しげな視線が、突き刺さるように痛い。きっと「こいつはなにを言っているんだ」と思っているだろう。自分でだって、どうしてこんなふうに考えてしまうのか、よくわかっていないのだ。他人にわかるわけがない。

 長い沈黙。
 藍達くんの目を見ることができない。どうせまた冷たい瞳でわたしを見下しているに決まっている。
 ……そう思うとどうしたらいいかわからなくなり、視線をそらし続けることしかできなかった。
 なにも言えずに黙っていると、彼が小さく息を吐く。

「そう。わかった。僕の羽村さんへの思いは、羽村さんが言う好きの感情にあてはまるのは確かだ。だから、僕は確かに君のことが好きなんだと思う。それでいいよ、もう」

 なんだか投げやりだけど、はっきりとわたしのことが好きだと言う。
 だけど、彼はそのあとに「でも」と続けた。
 ゆっくりと顔を近づけてくる。まつげがぶつかりそうな距離。くちびるが触れてしまいそうな距離。彼の目を見つめると、どこか切なげな瞳の中にわたしの姿が映っていた。

「仮に、僕が羽村さんを本気で好きだとしても――それは、報われない想いなんでしょ?」

 触れそうで、触れない距離。
 触れられそうで、触れられない距離。
 藍達くんの言葉に、わたしは目を見張った。まさかそんなことを言われるとは思わなかったのだ。
 彼は薄く笑う。

「だって、羽村さんが好きなのは、今でも西野先輩だもんね。僕がいくら本気で好きだって言っても、結局はお友達だ。勝てるわけない」

 どうしてだろう。そう言った彼の目は、ほんの少しだけ――寂しさが滲んで見えた。
 お互いに見つめ合う。胸が高鳴って、彼にも心臓の音が聞こえてしまいそうだと思った。
 少しの間を置いて、彼はひとりごちる。

「あの人のこと、どこがいいかわからないなんて言ったけど……本当はわかってるんだ。西野先輩はたしかにかっこいい。背も高いし、顔も整ってる。スポーツ万能だし、勉強もなかなかできるみたいだし、女の子の扱いもうまい。友達もたくさんいるし、いつも輪の中心にいる。明るい髪とか、切れ長の目とか、焼けた肌とか……全部似合うんだ。あの人だから。……正直、憧れるよ」

 思わず目をまたたかせる。
 突然、藍達くんが朋哉を憧れだと言った。こんなの驚いてしまうに決まっている。今まであんなに朋哉のことを悪く言っていたのに、心の中ではそんなふうに思っていたなんて……。

「ねえ、羽村さん」

 名前を呼ばれると同時に、体を強く抱き寄せられる。
 藍達くんは、ぼそりと呟いた。

「西野先輩と僕は、正反対の人間だよね」

 消えてしまいそうなほどに小さな声。
 耳朶じだにくちびるを押し当てるようにして囁かれる。耳孔に彼の声がダイレクトに流れ込み、全身がぞくぞくと震えた。

「……知ってた?」
「な、にを……?」

 彼は続く言葉を躊躇った。
 一度静かに息をくちびるを引き結んだあと、再びゆっくりと口を開く。

「なにをどうもがいたって欲しいものが手に入らない人間はさ、無理矢理それを奪うしかないんだよ」

 藍達くんのてのひらが、愛おしむようにそっとわたしの髪を撫でる。
 優しくて、温かくて、けれどどこか悲しげな触れ方。それはまるで、届かない星に手を伸ばし、虚空を掻くようだった。

 ……ねえ、藍達くん。
 あなたが言う、奪ってでも欲しいものって、一体なに――?

「神様は意地悪だよね」

 弱々しい声だった。今にも泣いてしまいそうな声にひどく心配になる。
 しかしそれとは裏腹に、わたしを抱く腕の力はさらに強さを増していく。苦しさを覚えるほどきつく、強く、抱きしめられる。
 藍達くんがなにを言いたいのかはわからない。だけど……なにかを憂いてすごく悲しんでいることだけはわかる。
 胸が痛んだ。なにか力になれればと思った。
 散々最低なことをされているのだから、こんなふうに思うことすら道理に合わないことだとわかっていても――わたしは、彼を抱き締めてあげたくなった。

「羽村さん……」
「……藍達くん」

 藍達くんがわたしにしたのは、許されることではない。それは確かで、わたしがいちばんよくわかっている。
 それでも、複雑だけど……彼の優しいキスで朋哉に傷つけられた心がほんの少し和らいだのも本当で。
 あのまま一人だったら、わたしはどうなっていたかわからない。
 助けられたのだ。……だから、わたしも助けてあげたい。

 抱き締められながら藍達くんのぬくもりを感じていると、彼はおもむろに体を離した。
 ……まだ抱いていてほしかった。心の中でそう思い、切なげな瞳で彼を見つめる。
 すると、藍達くんはくちびるに皮肉な笑みを浮かべた。

「――なに? その顔」

 言われた言葉は氷のように冷たくて、まるで心ごと突き放されたみたいだった。胸の奥がちくりと痛む。突然豹変した彼の態度に、わたしは潤んだ瞳を見張った。藍達くんは、そんなわたしの肩を強く押し、冷たい指先で頤を掴む。それから、いつものように冷酷な視線を向けて言う。

「気持ちよさそうな顔しちゃってさ。僕に愛されてる気分にでもなってるの?」

 せせら笑いながら彼は続ける。

「騙された? 今の、ぜーんぶ演技だよ」
「えん、ぎ……?」
「やっぱり羽村さんには愛が足りないんだね。ちょっと優しくすると、すぐに勘違いする。……痛いね」

 痛い。苦しい。
 どうして……なんでこんなひどいことができるのだろう。さっきまであんなに優しく触れてくれた彼に、そんなことを言われるなど信じたくなかった。
 ゆっくりとまばたきをすれば、涙がつうっと頬を伝う。
 昨日、朋哉につけられた心の傷。藍達くんは、わたしに近づいては、それを優しく撫でてくれる。けれど、最後にはその傷を、こうして思いきり抉るのだ。もっと深い傷になるように。その傷が決して癒えることのないように。
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