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第一章(表)
世民、玄奘を待望す(壱)
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『僧玄奘、俗名は陳褘。戒名の「玄奘」は元来、字なり』
明日の夜、拝謁を許した玄奘に関して、その概略を頭に入れ直しておくために、都の礼部からわざわざ取り寄せた記録に世民は眼を通していた。高句麗に向けての出陣の準備も慌ただしく、願い出を聞く必要など特になかったのだが、
(どんな漢なのか……)
世民は非常な興味をそそられたのである。
ただし、その関心は、彼が天竺から持ち帰ったという仏典や、そこに記された仏教の神髄などではない。玄奘個人、特に、遥か天竺まで往来して西域の事情に通じている冒険家としての顔と、天竺の覇者、戒日王(ハルシャ・ヴァルダナ)(※一)を動かし、天竺と本朝との間に正式な交流をもたらしてくれた外交の巧者の一面に関して、である。
(まさか単なる辛気くさい僧侶ではあるまい……)
過去数百年の間、本朝から天竺へと渡り、帰朝した僧侶には法顕(※二)などもおり、また、天竺や西域から仏教を弘めるために渡来した者には、仏図澄(※三)や鳩摩羅什(※四)、達磨(※五)など、錚々たる顔触れがいる。だが、彼らが影響を持ちえたのは、あくまで仏教界という閉ざされた世界のなかだけであり、世俗の社会になんら熱狂を及ぼすものではなかった。
(だが、玄奘はちがう!)
彼の帰還によって、戦争が暗い翳を落としていた長安の民草が、みな一様に異常な熱気をもって歓迎しているという報告を世民は受けていた。その熱狂ぶりは、まさに待ち侘びた戦場の英雄を迎えるに等しいとも聞く。
世民は知っていた。偉業を成し遂げたとしても、誰にも知られずに消えていく者もあれば、その一方で、真の業績以上に称賛を浴びる者もいる。そこに刻まれる厳然たる差は、天命に恵まれるかどうかと、ほんのちょっとした個人の機転でしかないことを。
(まさに玄奘は、天の刻に選ばれた漢だ‼)
その玄奘を我が麾下とすることができれば、必ずやその名は竹帛に垂れることとなるだろう。
あの者の願いは、持ち帰った仏典の翻訳事業に関して、国家公認の勅許を得たいとのことのようだが、
(それを素直に許してよいものかどうか、……)
舌舐めずりするような思いで、世民は、再び玄奘の記録を読み進めていく。
【注】
※一 「戒日王(ハルシャ・ヴァルダナ)」
古代北インドの最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の大王(在位:六
〇六年~六四七年)。シーラディトヤ(漢語文献では「戒日王」)と号
した。
グプタ朝滅亡後の混乱にあった北インドを統一し、玄奘との交流を通
じて、『唐』との国交を開いた名君として知られる。
しかし、彼の死後、王朝は崩壊し、ヴァルダナ朝は一代で滅んだ。
※二 「法顕」
五世紀初、仏典を求めてインドに渡った『(東)晋』の僧。
陸路、グプタ朝が治めるインドに赴いて仏教を学び、海路により帰
国。その旅行記が「仏国記」である。
彼が中国を出発した際、既に六十四歳であり、帰国時には七十八歳に
なっていた。
※三 「仏図澄(ブッダチンガ)」
五胡十六国時代に西域から中国に訪れた渡来僧。姓は白、亀茲国(現
在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区クチャ市)の出身。
ウッディヤーナ(烏萇)で出家した後、罽賓国(カシミール)で仏学
の研鑽に励んだ。
一般的に、西域からの渡来僧は、サンスクリット等で書かれた仏典を
漢語に翻訳する役割を担った訳経僧であることが多いが、中にはまった
く訳経に携わらなかった渡来僧もおり、その代表的な人物が仏図澄であ
る。
※四 「鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)」
仏図澄と同じく、亀茲国出身の西域僧。『(後)秦』時代、姚興に迎
えられて長安に滞在し、約三百巻もの仏典を漢訳し、中国における仏教
普及に貢献した訳経僧。
中国における最初の三蔵法師であり、後に玄奘など、多くの三蔵法師
師が現れたが、鳩摩羅什は玄奘と肩を並べ、「二大訳聖」と呼ばれてい
る。
※五 「達磨」
「菩提達磨(ボーディダルマ)」ともいう。中国禅宗の開祖とされて
いるインド人仏教僧。画像では、眼光鋭く、髭を生やし、耳輪をつけた
姿で描かれているものが多い。
彼についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多くの疑いがもた
れている。
明日の夜、拝謁を許した玄奘に関して、その概略を頭に入れ直しておくために、都の礼部からわざわざ取り寄せた記録に世民は眼を通していた。高句麗に向けての出陣の準備も慌ただしく、願い出を聞く必要など特になかったのだが、
(どんな漢なのか……)
世民は非常な興味をそそられたのである。
ただし、その関心は、彼が天竺から持ち帰ったという仏典や、そこに記された仏教の神髄などではない。玄奘個人、特に、遥か天竺まで往来して西域の事情に通じている冒険家としての顔と、天竺の覇者、戒日王(ハルシャ・ヴァルダナ)(※一)を動かし、天竺と本朝との間に正式な交流をもたらしてくれた外交の巧者の一面に関して、である。
(まさか単なる辛気くさい僧侶ではあるまい……)
過去数百年の間、本朝から天竺へと渡り、帰朝した僧侶には法顕(※二)などもおり、また、天竺や西域から仏教を弘めるために渡来した者には、仏図澄(※三)や鳩摩羅什(※四)、達磨(※五)など、錚々たる顔触れがいる。だが、彼らが影響を持ちえたのは、あくまで仏教界という閉ざされた世界のなかだけであり、世俗の社会になんら熱狂を及ぼすものではなかった。
(だが、玄奘はちがう!)
彼の帰還によって、戦争が暗い翳を落としていた長安の民草が、みな一様に異常な熱気をもって歓迎しているという報告を世民は受けていた。その熱狂ぶりは、まさに待ち侘びた戦場の英雄を迎えるに等しいとも聞く。
世民は知っていた。偉業を成し遂げたとしても、誰にも知られずに消えていく者もあれば、その一方で、真の業績以上に称賛を浴びる者もいる。そこに刻まれる厳然たる差は、天命に恵まれるかどうかと、ほんのちょっとした個人の機転でしかないことを。
(まさに玄奘は、天の刻に選ばれた漢だ‼)
その玄奘を我が麾下とすることができれば、必ずやその名は竹帛に垂れることとなるだろう。
あの者の願いは、持ち帰った仏典の翻訳事業に関して、国家公認の勅許を得たいとのことのようだが、
(それを素直に許してよいものかどうか、……)
舌舐めずりするような思いで、世民は、再び玄奘の記録を読み進めていく。
【注】
※一 「戒日王(ハルシャ・ヴァルダナ)」
古代北インドの最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の大王(在位:六
〇六年~六四七年)。シーラディトヤ(漢語文献では「戒日王」)と号
した。
グプタ朝滅亡後の混乱にあった北インドを統一し、玄奘との交流を通
じて、『唐』との国交を開いた名君として知られる。
しかし、彼の死後、王朝は崩壊し、ヴァルダナ朝は一代で滅んだ。
※二 「法顕」
五世紀初、仏典を求めてインドに渡った『(東)晋』の僧。
陸路、グプタ朝が治めるインドに赴いて仏教を学び、海路により帰
国。その旅行記が「仏国記」である。
彼が中国を出発した際、既に六十四歳であり、帰国時には七十八歳に
なっていた。
※三 「仏図澄(ブッダチンガ)」
五胡十六国時代に西域から中国に訪れた渡来僧。姓は白、亀茲国(現
在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区クチャ市)の出身。
ウッディヤーナ(烏萇)で出家した後、罽賓国(カシミール)で仏学
の研鑽に励んだ。
一般的に、西域からの渡来僧は、サンスクリット等で書かれた仏典を
漢語に翻訳する役割を担った訳経僧であることが多いが、中にはまった
く訳経に携わらなかった渡来僧もおり、その代表的な人物が仏図澄であ
る。
※四 「鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)」
仏図澄と同じく、亀茲国出身の西域僧。『(後)秦』時代、姚興に迎
えられて長安に滞在し、約三百巻もの仏典を漢訳し、中国における仏教
普及に貢献した訳経僧。
中国における最初の三蔵法師であり、後に玄奘など、多くの三蔵法師
師が現れたが、鳩摩羅什は玄奘と肩を並べ、「二大訳聖」と呼ばれてい
る。
※五 「達磨」
「菩提達磨(ボーディダルマ)」ともいう。中国禅宗の開祖とされて
いるインド人仏教僧。画像では、眼光鋭く、髭を生やし、耳輪をつけた
姿で描かれているものが多い。
彼についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多くの疑いがもた
れている。
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