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第三章
公主と辯機、想いが交錯す(壱)
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「もうよい、退がれ‼」
金切り声をあげ、癇癪を爆発させた公主のご機嫌は、いつにも増して最悪だった。手当たり次第に投げつけられるものをなんとか避けながら、半裸の若者二人は這う這うの体で房内から飛び出していく。
(ああ、鬱陶しい⁉)
荒い息を吐き、薄絹一枚まとっただけの裸身を脇息に預けたまま、公主はなぜか深くため息をついた。侍女を呼びつけ、酒の用意をさせるのもなにやら億劫で、そのまま目を閉じて呼吸を整えていると、どうしてもあの男の顔が脳裏に浮かんできて離れない。それがまた、公主には一層腹立たしかった。
(あれからもう一年以上もたっているというのに……⁉)
初めての男というわけでもない。知的で端正な顔立ちが好みであったことは確かだが、身体の関係を持った当初、いつものほんの火遊び程度のつもりだったのだ。それが、いつの間にか深みにはまり、公主はどうにも後戻りができなくなっていた。
(私はあの者の、一体どこに惹かれていたのだろう?)
いま振り返ってみても、当時の記憶はまるで靄がかかったかのようにぼやけている。あえていうなら、仏道修行に打ち込みたいと念じる一方で、公主への想いも捨てきれないで悶々としている、あのやるせない姿を見ていることが好きだったのかもしれない。ともかく、あの頃、あの者以外と閨をともにすることなど、到底考えられなかったことだけは確かだ。
いつもとは異なり、逢瀬が度重なるうちに、人の口の端にものぼりはじめたことで、舅殿などは相当に眉根を顰めていたようだが、公主は意にも介さなかった。むしろ、そう思われるほど関係の深まったことを誇らしいとさえ感じていたのだ。
なのに、別れは唐突に訪れた。あれほど公主にのめり込んでいたはずのあの者から、なんの前触れもなく、いきなり別れを切り出されたのである。
「あなたのことは真剣に想っています。しかし、私は御仏に仕えることを決めた身。もう二度と会うことはよしましょう」
(この者は何を云っているの・・・・・?)
その瞬間、公主は頭のなかが真っ白になってしまったことを覚えている。そんなことは自分の人生でいままで一度も経験がなく、公主はどうすればいいのか全く判らなかった。
そんな公主を尻目に、あの者はひたすら一心に心変わりの訳を語り続けていた。あの当時、長安中での耳目を一身に集めていた天竺帰りの僧侶、玄奘の下で経典の翻訳事業に従事する訳経僧の一人として、朝廷からお召しがあったのだという。
(どうしてあの者に、……?)
あの時、公主の脳裏にふとそんな思いがかすめたのは、なにかしら不審を感じるものがあったからだろうか。公主自身、彼の学才を認めてはいたが、自分との関係が噂になりかけていることもあって、仏教界におけるあの者の評判はあまり芳しいものではない。
そんな彼に白羽の矢が立ったのには、
(なにか裏に隠された事情があるのではないか……?)
しかし、そんなふうに妙に勘ぐるのも、自分への想いを振り捨てて、玄奘という仏教の師を選ぼうとしているあの者に対する嫉妬のようにも感じられて、それ以上深く考えることは、公主の自尊心が許さなかった。
そして、さらにあの者は告げる。
「名誉なことであるのは勿論ですが、真に仏道を究めるためには、これが最後の機会になるような気がするのです」
だから、どうしてもこの機を逃したくないのだと、あの者は自分の瞳を真っすぐに見つめ、必死の面持ちで懇願してきたのである。
「そう、・・・・・・なら、いいわよ」
あっさりそう吐き捨てて、あの時、彼を解放してやったのは、実を言えば、自分よりも仏道の方が大事だと宣言されたことがどうにも癪に触り、わざとこちらも冷たい素振りをしてみせただけなのだ。
本当につまらない意地だったと思う。
しかし、あの折りには、たとえこれで永久に二人の縁が切れたとしても、これほど想いを引きずるようなことになろうとは、公主は微塵も想像していなかったのだ。
あの者との別離があってから以降、幾人もの新しい愛人を見つけてきた。けれど、その者たちといくら肌を重ねてみようと、あの者のことを完全に忘れ去ることができない。未練がましいとは思ったが、何度か書状を認め送ってみても、やはりあの者からの返事は一切なかった。
それがいまの自分に対する想いの答えだとするのなら、
(二人で睦みあっていたあの甘い時間は、一体なんだったのだろう……)
砂を噛むような思いで、公主としては無為な時間を持て余すしかない。
高貴な身に生まれつき、父帝の愛情を一身に受けて、これまで何一つ思いどおりにならないことなどなかったのに、唯一叶わないのが、本当に慕う者からは相手にされないのでは、皮肉を通り越して、もはや梨園で演じられる一幕の喜劇ではないか。
(せめて、いまも私が贈った枕を傍らに置いていてくれないだろうか・・・・・・)
降嫁して既に五年。不遜な性格と怜悧な美貌に誰もが畏怖し、ひれ伏すが、所詮はまだ二十歳になったばかりの小娘にすぎない。胸の奥底で悲痛な叫びを上げている己の魂を、公主は完全に持て余していた。
(すべては父上が悪いのよ‼)
公主の思いは、結局そこに帰着していく。
朝廷最大の功臣、房玄齢の息子とはいえ、父帝が選んだ降嫁先、遺愛は嫡男ではない。舅に対して礼法通りかしずくことさえ抵抗があるのに、義理の兄であり、房家の家督を継ぐ遺直に素直に頭を下げるなど、間違っても公主の意識にはなかった。
それでも遺愛に伴侶として少しでも尊敬できるところがあれば、公主にも降嫁してからの振る舞いに少しは妥協できる点はあったかもしれない。だが、粗暴なだけで教養に乏しく、品性の欠片も感じられない遺愛には、顔を合わせた瞬間から指一本触れられることすら許せなかったのだ。
そのため、降嫁するとすぐに、遺愛には自分の代わりに見目麗しい侍女を二人遣わしてやると、それにあっさり納得して、素知らぬ顔で尻尾を振ってくる始末である。
(なんなのだ、この男は?)
それがどうにも薄気味悪くて、遺愛に対する嫌悪感が一段と募っていたことが、公主が破廉恥な振る舞いを続ける大きな要因にもなっている。
(父上と遺愛のせいで、私がこんなに苦しんでいるというのに、……)
あの者は、いまも一心に経典の漢訳に励んでいるのだろう。それがどうにも我慢できなくて、公主の彼に対する想いは、次第に憎悪へとその色を変えていく。
(あの者に、なんとか私という存在を思い出させることはできないものか……)。
無意識のうちに左手の親指の爪を囓りながら、公主はただそれだけを考え始めていた。
金切り声をあげ、癇癪を爆発させた公主のご機嫌は、いつにも増して最悪だった。手当たり次第に投げつけられるものをなんとか避けながら、半裸の若者二人は這う這うの体で房内から飛び出していく。
(ああ、鬱陶しい⁉)
荒い息を吐き、薄絹一枚まとっただけの裸身を脇息に預けたまま、公主はなぜか深くため息をついた。侍女を呼びつけ、酒の用意をさせるのもなにやら億劫で、そのまま目を閉じて呼吸を整えていると、どうしてもあの男の顔が脳裏に浮かんできて離れない。それがまた、公主には一層腹立たしかった。
(あれからもう一年以上もたっているというのに……⁉)
初めての男というわけでもない。知的で端正な顔立ちが好みであったことは確かだが、身体の関係を持った当初、いつものほんの火遊び程度のつもりだったのだ。それが、いつの間にか深みにはまり、公主はどうにも後戻りができなくなっていた。
(私はあの者の、一体どこに惹かれていたのだろう?)
いま振り返ってみても、当時の記憶はまるで靄がかかったかのようにぼやけている。あえていうなら、仏道修行に打ち込みたいと念じる一方で、公主への想いも捨てきれないで悶々としている、あのやるせない姿を見ていることが好きだったのかもしれない。ともかく、あの頃、あの者以外と閨をともにすることなど、到底考えられなかったことだけは確かだ。
いつもとは異なり、逢瀬が度重なるうちに、人の口の端にものぼりはじめたことで、舅殿などは相当に眉根を顰めていたようだが、公主は意にも介さなかった。むしろ、そう思われるほど関係の深まったことを誇らしいとさえ感じていたのだ。
なのに、別れは唐突に訪れた。あれほど公主にのめり込んでいたはずのあの者から、なんの前触れもなく、いきなり別れを切り出されたのである。
「あなたのことは真剣に想っています。しかし、私は御仏に仕えることを決めた身。もう二度と会うことはよしましょう」
(この者は何を云っているの・・・・・?)
その瞬間、公主は頭のなかが真っ白になってしまったことを覚えている。そんなことは自分の人生でいままで一度も経験がなく、公主はどうすればいいのか全く判らなかった。
そんな公主を尻目に、あの者はひたすら一心に心変わりの訳を語り続けていた。あの当時、長安中での耳目を一身に集めていた天竺帰りの僧侶、玄奘の下で経典の翻訳事業に従事する訳経僧の一人として、朝廷からお召しがあったのだという。
(どうしてあの者に、……?)
あの時、公主の脳裏にふとそんな思いがかすめたのは、なにかしら不審を感じるものがあったからだろうか。公主自身、彼の学才を認めてはいたが、自分との関係が噂になりかけていることもあって、仏教界におけるあの者の評判はあまり芳しいものではない。
そんな彼に白羽の矢が立ったのには、
(なにか裏に隠された事情があるのではないか……?)
しかし、そんなふうに妙に勘ぐるのも、自分への想いを振り捨てて、玄奘という仏教の師を選ぼうとしているあの者に対する嫉妬のようにも感じられて、それ以上深く考えることは、公主の自尊心が許さなかった。
そして、さらにあの者は告げる。
「名誉なことであるのは勿論ですが、真に仏道を究めるためには、これが最後の機会になるような気がするのです」
だから、どうしてもこの機を逃したくないのだと、あの者は自分の瞳を真っすぐに見つめ、必死の面持ちで懇願してきたのである。
「そう、・・・・・・なら、いいわよ」
あっさりそう吐き捨てて、あの時、彼を解放してやったのは、実を言えば、自分よりも仏道の方が大事だと宣言されたことがどうにも癪に触り、わざとこちらも冷たい素振りをしてみせただけなのだ。
本当につまらない意地だったと思う。
しかし、あの折りには、たとえこれで永久に二人の縁が切れたとしても、これほど想いを引きずるようなことになろうとは、公主は微塵も想像していなかったのだ。
あの者との別離があってから以降、幾人もの新しい愛人を見つけてきた。けれど、その者たちといくら肌を重ねてみようと、あの者のことを完全に忘れ去ることができない。未練がましいとは思ったが、何度か書状を認め送ってみても、やはりあの者からの返事は一切なかった。
それがいまの自分に対する想いの答えだとするのなら、
(二人で睦みあっていたあの甘い時間は、一体なんだったのだろう……)
砂を噛むような思いで、公主としては無為な時間を持て余すしかない。
高貴な身に生まれつき、父帝の愛情を一身に受けて、これまで何一つ思いどおりにならないことなどなかったのに、唯一叶わないのが、本当に慕う者からは相手にされないのでは、皮肉を通り越して、もはや梨園で演じられる一幕の喜劇ではないか。
(せめて、いまも私が贈った枕を傍らに置いていてくれないだろうか・・・・・・)
降嫁して既に五年。不遜な性格と怜悧な美貌に誰もが畏怖し、ひれ伏すが、所詮はまだ二十歳になったばかりの小娘にすぎない。胸の奥底で悲痛な叫びを上げている己の魂を、公主は完全に持て余していた。
(すべては父上が悪いのよ‼)
公主の思いは、結局そこに帰着していく。
朝廷最大の功臣、房玄齢の息子とはいえ、父帝が選んだ降嫁先、遺愛は嫡男ではない。舅に対して礼法通りかしずくことさえ抵抗があるのに、義理の兄であり、房家の家督を継ぐ遺直に素直に頭を下げるなど、間違っても公主の意識にはなかった。
それでも遺愛に伴侶として少しでも尊敬できるところがあれば、公主にも降嫁してからの振る舞いに少しは妥協できる点はあったかもしれない。だが、粗暴なだけで教養に乏しく、品性の欠片も感じられない遺愛には、顔を合わせた瞬間から指一本触れられることすら許せなかったのだ。
そのため、降嫁するとすぐに、遺愛には自分の代わりに見目麗しい侍女を二人遣わしてやると、それにあっさり納得して、素知らぬ顔で尻尾を振ってくる始末である。
(なんなのだ、この男は?)
それがどうにも薄気味悪くて、遺愛に対する嫌悪感が一段と募っていたことが、公主が破廉恥な振る舞いを続ける大きな要因にもなっている。
(父上と遺愛のせいで、私がこんなに苦しんでいるというのに、……)
あの者は、いまも一心に経典の漢訳に励んでいるのだろう。それがどうにも我慢できなくて、公主の彼に対する想いは、次第に憎悪へとその色を変えていく。
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無意識のうちに左手の親指の爪を囓りながら、公主はただそれだけを考え始めていた。
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