玄奘遷化【その栄光と残照】

織田正弥

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第七章

太宗崩御し、玄奘、熟考す(弐)

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 天竺から帰国して以降、これまで玄奘の意識は、どちらかと云えば対道教にその重点が置かれていたのだが、それには、仏教と道教との間に横たわる歴史的な経緯があった。
 まず、いまから二百六十年ほど前に事は遡る。『(前)秦』の崩壊後、再び黄河以北の統一に成功した『(北)魏』において、第三代皇帝太武帝(在位:四二三年~四五二年)が寇謙之の説く新天師道を信仰し、道教を国教と定めたことによって、仏教に激しい弾圧(廃仏)が加えられた。これが後世に「三武一宗の法難」(※四)として伝えられる仏教弾圧の最初である。
 これによって仏教は一時的にその勢いを削がれ、新天師道の勢力が増していくかと思われたのだが、この宗教は従来の道教の教義に儒教の要素を採り入れて体系化するという、よく云えば柔軟、悪く云うならまるで節操のない代物であったために、寇謙之と太武帝の死により、その優位は呆気なく失われてしまう。
 続く第四代の文成帝(在位:四五二年~四六五年)の時代になると、再び仏教が盛んとなり、首都・平城近郊の雲崗には巨大な石窟寺院が建造されるに至る。さらに第六代の孝文帝(在位:四六七年~四九九年)が実施した洛陽遷都後には、貴族層にも信者が拡大し、都に多くの寺院が建設されるようになって、『(北)魏』末年には、その数が千三百六十七寺にのぼり、都の面積の三分の一は、寺院によって占められたとまで云われている。
(だが、隆盛を極めれば、当然のごとく、反動も起きる)
 玄奘の思いは暗闇の中で揺らぐ。
 『(北)周』の御代になると、第三代武帝(在位:五六〇年~五七八年)の時代に、儒教・仏教・道教の三教に対する文教政策論議、いわゆる『三教談論』が盛んに行われるようになる。
 さらに、武帝が親政を行うようになると、三教談論の結果を踏まえて、古代の『周』王朝への復古が唱えられ、仏教・道教の二教を廃し、儒学のみを尊重するという極端な政策を採用する。しかし、これは宗教政策という側面よりも、むしろ、寺院や道観が抱えている財力や人的資源を対外的な戦争に活用しようとする、多分に政治的・経済的な色彩を帯びたものだったが、二教が被った被害が非常に甚大だったことは確かだ。
(そして、この後はさらなる混沌が待っていた……)
 まずは圧倒的な仏教の隆盛だ。
 武帝亡き後の政権争いに勝利し、『(北)周』を滅ぼして新たな王朝『隋』を建国した楊堅(文帝(在位:五八一年~六〇四年)は、今度は一転して仏教・道教の部分的な復興を図る政策に転じる。さらにその後は、仏教を主とし、儒教・道教を副として扱う、いわゆる『仏教治国策』を開始したのである。
 文帝は自ら「菩薩戒仏弟子皇帝」と称し、従来の廃仏政策を改め、厚く仏教に帰依する姿勢を示し、仏舎利を国内各地に領布するなど、広く仏教の普及を図った。このために文帝は、国寺として大興善寺を大興城の中心に建立するとともに、全国諸州に舎利塔を建立するなど、積極的な仏教振興政策を展開していく。
 続く煬帝もそれを踏襲し、『隋書』倭国伝に「菩薩天子、重ねて仏法を興す」とあるように、仏教への傾斜を深めていく。
 このような『隋』の崇仏政策は、しばしば南朝の『梁』の武帝(蕭衍、在位:五〇二年~五四九年)が実践したものと同列に語られることがあるが、『梁』の武帝の場合、あくまで皇帝個人の信仰に基づく功徳行為であるのに対して、『隋』の仏教治国策は、一種の公共事業として仏教施設を建立していることや、民衆への宗教政策として実施されるなど、国家全体の政策として取り組まれていた点が、大きく異なっていることには留意すべきだろう。
(しかし、いずれにせよ、国家の頂点に立つべき皇帝が、自ら御仏の前に膝を屈し、仏教の宗教的権威には及ばない。そう宣言してしまうのだから、……)
 表面的にはどうあれ、儒学を信奉し、それを絶対とする儒学系の官僚らは皆、眉を顰めていたであろうことは想像に難くない。煬帝の失政があったにせよ、『隋』がいとも簡単に瓦解してしまった背景には、こうした事情も存在していたに違いないと、玄奘は確信している。つまり、玄奘に云わせるなら、『隋』は、国家を運営するに際して、仏教との間に置くべき距離感を見間違えたのである。
 『唐』の建国からようやく五十年。『隋』のこうした失敗を肝に銘じている者たちはまだまだ多い。そして、彼らはいま、仏教の勃興を抑えるべく、王朝が道教を重要視していることをうまく利用して、ここぞとばかりに仏教の勢力削減に躍起になっている。
(だから儂も、彼らと結ぶ道教にまず気を配ってきたわけだが、……)
 決して王朝に対しても、油断しているわけではない。
 もともと『唐』の皇室は、その祖先として老子(李耳、字は聃)を比定することで、これまで仏教よりも道教を尊崇する姿勢を取ってきた。それには、氏族の歴史的な優位性を示すという意味合いも当然にあっただろう。しかし、もう一つ重要な意味として、道教を上位に置くことで、仏教関係者が不当に得ていた権益を切り崩す、そんな政治的な思惑があることぐらい玄奘は察している。
(在家の仏教信者はともかく、出家して僧侶や尼僧となった者は、自動的に税役の対象から外れることとなる)
 そして、そこには、純粋に宗教的な目的で出家した者ばかりではなく、税役逃れの似非出家者も数多く存在していることも間違いなかった。僧侶という立場ではあるが、それぐらいの醒めた現実が理解できないほど玄奘も馬鹿ではない。仏教の場合、道教と比較して、教団としての規模がより大きいという側面があり、そこに国家(政権)から警戒されやすいという弱みも有しているのだ。
 玄奘はまだ天竺に旅立つ前の、過去にあった道教側、そしてそれに与する国家からの攻撃の数々を脳裏に思い出していた。
 まず、その端緒は、まだ高祖の御代だった武徳七(六二四)年、元道士という経歴を持つ太史令(※五)の傅奕が上奏に及び、膨大な数にのぼっていた僧尼らを整理するよう、朝廷に求めたことだった。
『況んや天下の僧尼、数、十万に盈ち、……今の僧尼、請うらくは匹配せしむれば、即ちに十万余戸と成らん』
 いま税を納めることのない僧侶と尼僧がそれぞれ十万人いるが、これを還俗させて互いに婚姻させれば、国家に税役を納める新たな十万戸が生まれ、国家財政に大きく寄与するではないか、という理屈だ。宗教としての正邪・優劣を争うのではなく、国家財政の側面から説いて、仏教勢力の弱体化を狙うという巧妙な論法である。
 しかし、実は、この上奏がなされるにあたっては、その前提となる伏線が存在した。武徳四(六二一)年、隋末の群雄の一人、王世充が降伏した際、労働力や兵力を確保するため、洛陽を始めとする新たな占領地に対して、仏教関係者を整理して還俗させる方針が、高祖によって示されていたのである。傅奕の上奏は、この延長線上にあるものと考えてよい。
 一方、こうした王朝側からの圧力に危機感を抱いた仏教者側からは、この時、護法僧の法琳という人物が「破邪論」なる書物を著し、道教と仏教の正邪を明らかにして反論するという、こちらは宗教上の論争に持ち込むことで、これに対抗しようとする試みがなされた。これが功を奏し、傅奕の求めた仏教徒還俗策は却下されることとなるのだが、当時、まだ秦王府の学士だった杜如晦はこれに喝采を送り、法琳を「護法沙門」と呼んで絶賛したことはよく知られている。朝廷に仕える者のなかにも、仏教に心を寄せる者が少数ながら存在していた証左である。
 しかし、仏教に対する風当たりがこれで弱まったわけではない。建国間もなく、その財政的な基盤も弱かった『唐』朝にとって、仏教勢力の抑制は、やはり基本的な国策だったからだ。
 高祖に代わったいまの主上も、その当初、改めて仏教に対して厳しい姿勢で臨み、貞観元(六二七)年、仏教徒を検校し、あえて国家の許可を得ず、勝手に僧と称している偽濫僧を処刑する命令を出している。次いで貞観三(六二九)年には、義寧年間(六一八年~六一九年)以前に国家の承認を得ることなく僧となっていた者たちに対して、厳しく取り締まることを宣言し、出頭しない者は処刑する旨の勅令が発せられている。
 そして、その一連の流れの決定打として出された勅令が、これは玄奘が天竺に滞在していた間のことになるが、貞観十一(六三七)年の「道士、女冠は僧尼の前にあれ」とするものである。これにより、国家の宗教政策としての「道先仏後」は、公のものとなった。
 これに仏教界は猛反発したが、特に先の傅奕の事件で活躍した法琳がその非なることを訴えて、先の「破邪論」に加え、「辯正論」なる書を著すに至っている。
 しかし、この度はこれが逆に仇となった。二年後の貞観十三(六三九)年九月、道士の秦世英という人物が、「辯正論」に不敬の言辞ありと、上訴するに及んだのである。その訴えの要点は、この書のなかで、法琳が『唐』の皇室と老子との関係性を否定し、李氏の祖を鮮卑族の拓跋達闍という者であると論証している、というものだった。
 これを受けて、主上直々の召喚を受けた法琳は、その面前でも持論を堂々と披歴してみせたと、記録には残っている。よほど持論に確信を持っていたのだろう。しかし、当然の如く主上は激怒され、法琳に蜀への流謫を申し渡し、法琳はその地で憤死することとなる。
 だが、この結末に関して、玄奘は多少の違和感を覚えている。それは、
(陛下が本当に激怒されたのなら、なぜすぐに死罪になさらなかったのか?)
 その一点である。
 法琳の主張には一定の根拠があり、主上としても、それを完全に無視する訳にはいかなかった。そこで、物事をこれ以上大きくしないために、僻地に流罪とすることで口を塞いだ。そんなところなのではないか。
 主上にとって最大の禁忌は、己の出自、民族に関わる問題なのである。それに触れられて怒りを抱いた主上にも問題なしとはいえないが、法琳もまた、戦術を誤ったことを反省すべきだろう。しかし、それはともかくとして、この事件も一つの契機となって、主上は仏者の規範を説く「仏遺教経」を天下に頒布する詔を下し、仏教を厳格に国家の法の下に置く姿勢を明らかにしたのである。
 これにより道教を庇護し、儒学系の官僚に支えられている『唐』の天下は、揺るぎないものとなるはずだった。しかし、
(そんな折に、この儂が天竺から戻ってきた)
 しかも、主上の注目を一身に集める形になってだ。
 自分が帰国した際の国内の熱狂ぶりはあまりにも異常で、官民挙って歓迎する声で溢れかえっていたが、そこには、おそらく、
(仏教界がなにかしら、一枚噛んでいることは間違いない‼)
 そう玄奘は見抜いていた。
 風の噂では、色々な碩学・高僧が総出で朝廷の高官詣でに血道をあげ、後宮にまで攻勢をかけていたと耳にしている。玄奘の登場を契機に、仏教界の重鎮たちは、これで退勢を一気に挽回しようと考えたのだろうが、
(あの人たちには、本当の敵が分かっていない‼)
 道教勢力など、所詮は烏合の衆だ。誰一人として中心になれるような者などいない。
 むしろ意識しなければならない本当の敵は、道教勢力をうまく背後から操っている儒学系の官僚たちであり、ひいてはそれを基盤とする王朝そのものなのだということに、玄奘は気づき始めている。なのに、そんなことも判らないまま、仏教界の有象無象たちは、そのうち今度はこの私にまで牙を向けてくることになるのだろう。
(はてさて、これから三教の行く末は果たしてどうなることやら、・・・・・・)
 玄奘はなにやら眩暈のような不思議な感覚に襲われていく。
 宗教に本来、優劣や勝敗などあろうはずがない。しかし、衆生にどう受け入れられるかは別にして、国家との距離感によって宗教の荒廃は厳然と明らかとなるものだ。
(そういう意味で、三教のうちでも、やはり儒学は少し毛色がちがう)
 玄奘は、ふとそんなことを思う。
 なぜなら儒学では、「死後の世界」について語らないからだ。
 儒学では、この世の中(現世)で人はどのように生きていくべきかということが、教えの中心に据えられている。自分という個体が死ぬことになったとしても、その性質を引き継ぐ遺体(なきがら)である子どもが生き続けていく。そして、その精神(魂魄)もこの世に留まっているから、子孫が祀り続けてくれる限り、いつでも現世に戻ってくることができる。
(だから儒学では『孝』という徳目が重要になり、それが仏教と反目する要因ともなっている)
 このように現世第一主義を採ると、社会秩序をいかに保つのかが優先され、最終的に国家をいまある形のまま統治するための教えとしては最適なものとなる。人の世を維持するために王朝という装置が認められている限り、それを支える基本理念として、儒学が不要とされる時代が訪れることはないだろう。
 だから、儒学には宗教という概念での勝利はない代わりに、敗れるという結果もない。
(本朝での儒学の優位性は明らかだ。そうなると、仏教としても儒学に対して、それなりの配慮をせざるを得なくなる)
 現在、広く知られる仏教の経典の中には、親孝行の必要性を説く『父母重恩経』や、祖先崇拝・供養を勧める『盂蘭盆経』が存在するのは、つまりそういうことである。
 では、残る道教と仏法なら、どちらの方が宗教として優位性が高いのか。
 道教は一般の民衆にとって、決して難しいことを説いたりはしない。現世での幸福を追い求めると同時に、死を怖れて仙人のような存在になりたいという、人間の自然な欲望に寄り添いながら、なにか特別なことを求めるのではなく、「無為自然」を貴ぶ。
(そういう意味では、大衆にとって、もっとも親しみやすい教えなのかもしれない)
 ただし、その裏返しで、民衆との融和性が強い分、社会不安が高まったとき、その捌け口として爆発しやすいという問題点もある。『(東)漢』末に発生した黄巾の乱などは、その典型的な例だろう。
 それに対して仏教は、ある意味、最低限の知識が必要であり、そしてそれを噛み砕くだけの知嚢も求められる。
 仏教における「死」とは、次の世へ生まれ変わることを意味し、現世での行いによって次の世界でどのような姿に生まれ変わるのかが決まる。こうした繰り返し(輪廻転生)のなかでは、現世で生きることこそが苦しみの種であり、この転生の輪廻からの脱却を果たすために、「悟り」の境地に達することを仏教では最終的な目標に据えている。その理念を本当の意味で理解するには、かなり知的に洗練された層でなければ食いつきにくい宗教である。
(だからこそ、御仏の教えについても、一般の衆生が受け入れやすいよう、徐々に変化してきていることも事実だ)
 しかし、そればかりにかまけていては、宗教として堕落でもある。そうした状況に陥らないためにも、教えの根本に立ち戻る意識が常に必要だ。
(そのために儂は天竺を訪れ、多くの経典を持ち帰った)
 それを翻訳して後世に残し、本朝に仏教精神の神髄を定着させることこそが自分の使命だ。それを考えるなら、他人からどのような毀誉褒貶を受けようとも、自分はその務めを全うしなければならない。
(陛下の死によって、そのための新たな舞台が再び幕を開けるのだ)
 腹の底にずしりと重たいものを感じ、玄奘は全身に震えが走るのをどうしても止めることができなかった。

【注】
 ※四 「三武一宗の法難」
  中国仏教史上、四度に及んだ仏教弾圧を云う。その実施者である北魏
 の太武帝・北周の武帝・唐の武宗・後周の世宗からそれぞれ一文字を採
 ってこう呼ぶ
 ※五 「太史令」
  九卿の一つである太常の属官であり、天文や暦法、祭祀などを司っ
 た。官品は「従五品下」
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