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第七章
太宗崩御し、玄奘、熟考す(壱)
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翠微宮の一房で静かに佇む玄奘の傍らにあるのは、ただ夜の闇と静寂だけだった。
急な頭痛を覚え、死の到来を察した主上から万が一に備え、翠微宮内に宿直するようにとの命があったのは、昨日の宵のことである。そこで急遽、玄奘は慈恩寺から駆けつけたわけだが、肝腎の主上との目通りは許されぬままこの一房に案内され、
「病気平癒の御祈祷、何卒よろしくお願いいたします」
そう顔馴染みの宦官から一言あっただけで、いまに至るまで放っておかれたままだった。
(どうやら儂は嫌われておるようだ・・・・・・)
長孫公とその一派あたりが、自分と主上が最期の言葉を交わすことを、なんとしてでも阻もうとしているのだろう。なにしろ、それが遺詔となってしまう可能性だってあるわけだから、そう簡単に面会を許すことなどできるはずもない。
いま主上の枕元に巣食っているであろう高官たちのどす黒い心情が、玄奘には手に取るように読めていた。
後継者の問題、それを補佐する人事体制、そして今後の宗教政策など、主上の口から漏らされるかも知れない機微に触れる問題はいくらでもある。玄奘にはなんの関心もない話であっても、次代の政権を牛耳ろうと考えている者たちにとっては、疑心暗鬼に囚われても仕方のないところだ。
しかし、そんなことよりも玄奘の脳裏に浮かんでいた思いは、
(せめてあともう少しだけ、御仏の教えに親しんでいただくことができたなら、その栄光はさらに輝きに満ちたものとなっていたに相違ないのに……)
そんな無念の感情だけだった。
人として欠点がないわけではない。だが、それを補って余りある、理想の君主になるという強固な意志を持った人物であることだけは、間違いのないお方だ。いまのままでも史上に名を遺すに十分な巨星であることは誰しも認めるところだが、その最期に御仏の教えを悟り、それに基づく治世を後の世に受け継がせることができたなら、永遠に後世の鑑となる帝王になられたことだろう。
(陛下には、確かにその素地が十分にあられた……)
そう玄奘は思っている。そして、主上を御仏の世界に導く役割を、自分なら十分にこなせるという自負もあった。二人の神聖な関係をもしもう少し続けることができたなら、理想の国造りを進めることが必ずできたはずなのだ。
だが、それが叶わなくなろうとしているいま、玄奘はようやく光が差してきた仏教の未来に、ぼんやりとした不安を抱かずにはいられない。
(仏法が本朝に定着するまでには、これまでもさまざな紆余曲折があった……)
仏教が本朝に伝来したのは、文献上、『(西)漢』の哀帝(在位:紀元前二五年~前一年)の元寿元(紀元前二)年、大月氏国王の使者、伊存なる者が『浮屠教』の経典を景蘆という者に口伝したことが始まりであるとされている。
その後、本朝初の仏教信者となったのは、『後漢書』明帝記に附された本伝で、「黄老とともに浮屠(仏陀)を崇拝した」と記される明帝(在位:五七年~七五年)の異母兄、楚王英だが、これを契機として、やがて仏教は朝廷内だけではなく、一般民衆の間にも徐々に広まっていく。
けれど、この当時、仏教の教えがどの程度理解されていたのか、玄奘から云わせるならば、なんとも噴飯物であるとしか表現のしようがない。
(なにしろ仏陀が道教の開祖、黄帝と一緒に祀られていたのだから……)
どうやら仏陀に不老長寿の霊力があると思われていたようで、黄帝同様、現世での利益が期待できる神様のようなものとして崇められていたらしいのだ。
その後、『(東)漢』代も後期になると、洛陽に安世高や支婁迦讖といった西域からの渡来僧が来朝するようになり、それぞれ小乗・大乗の経典を伝えたが、本朝において、仏教が本格的に宗教として認識され、多くの経典が漢訳されるようになるのは、『(西)晋』代になってからのことである。その際、訳経に従事した先達者として、玄奘は康僧鐙や僧伽堤婆らの名も記憶しているが、やはり特筆すべき人物としては、敦煌に在住していた月氏出身の僧、竺法護をまず挙げなければならないだろう。
かの僧は多くの大乗仏教の経典を漢訳し、「敦煌菩薩」と称されるほど大きな貢献を果たしており、彼の翻訳した『正法華経』では、女性であっても男性と同じように成仏できるという新しい思想が説かれるとともに、中国において観音信仰(※一)が広まる契機ともなった。また、同じく『維摩詰経』について云えば、「竹林の七賢」(※二)に代表される幽玄的な哲学議論、「清談」(※三)にも大きな影響を与えたことで有名である。
これは、この当時、天竺から本朝へと伝来したサンスクリット語で書かれた仏教の経典を漢訳する際、中国古来の固有思想、特に老荘思想の用語で解釈しようとする、いわゆる「格義仏教」のあり方によるところが大きい。
(つまり、この頃まではまだ、仏法と道教は互いに協力しながら、儒学と相対立していたと云うことだ⁉)
そして、これが、三教の相克の始まりであるとも云えた。
次いで、西域の亀茲(クチャ)からの渡来僧、仏図澄(ブドチンガ)が『(後)趙』の第三代・武皇帝(石虎、在位:三三四年~三四九年)に対し、漢人一般の出家を公許するよう導いたことで、本朝における仏法の展開に一つの転換期が訪れる。
この時期まで仏教は外来の宗教として、異民族の信者が出家することは問題とされなかったが、漢民族の信者が出家することは原則的に許されていなかった。そこには、国家統治の基本思想である儒学と仏法との間に根本的な矛盾が存在していたからである。
まず、外見上の問題がある。
仏教徒が僧侶や尼僧となる場合、剃髪することが基本である。ところが、儒教において「孝」のあり方を説く『孝経』に曰く、
『身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、それ孝の始めなり』
とあるとおり、父母から与えられた己の身体を自ら毀傷しないことは「孝」の基本であり、大前提となる。
なのに、僧侶は自ら望んで髪を剃りあげ、禿頭にする。この行為そのものが、「孝」の徳目を根本から否定するものとされ、儒学の経典を金科玉条とする者たちからは、激しい非難が浴びせられたのである。
さらに、一歩進んで、「出家」という概念にも儒教側からの反発は強かった。
(「出家」すると云うことは、すなわち、己の家族や家を捨てるということだ)
御仏に仕えるためには、俗世での柵(しがらみ)をすべて捨て去らなければならい。
一方、儒学の教えでは、子の親に対する最大の務めは、親が生きている間は孝養を尽くすことであり、親が死んだ後も、祖先としてその祭祀を絶やさないこととされている。この観点に立つならば、仏教徒の「出家」とは、儒教の重要な徳目である「孝」に反する許されざる行為であり、双方にはどこまでも埋められない溝が存在したのである。
(しかし、この問題には、もっと大きな政治的対立を孕んでいる……)
近い将来、きっと顕在化するであろうその先までも、玄奘は見通していた。
それは、世俗の外にある僧尼(出家した仏教徒)は、単に親だけでなく、世俗権力の頂点にある皇帝に対しても、礼をつくす必要があるのかどうかとする、後に云う、いわゆる「僧尼不拝君親論争」である。玄奘と現在の主上とのように、強い信頼関係さえあれば、別に表面化する類いの問題ではないが、主上の崩御によって新たな皇帝の御代となれば、またぞろどこかの儒学系官僚が騒ぎ出すのは目に見えている。
(それをどのようにして回避すべきか……)
主上の病状を心配し、それを悲しむ感情が存在する一方で、玄奘の関心はいつの間にかそちらの方向に移り始めていた。
【注】
※一 「観音信仰」
仏教における菩薩の一種である「観世音菩薩」に対する信仰を云う。
この観世音菩薩に関しては、他にもいろいろな呼称があるが、『唐』の
太宗の諱が「世民」だったこともあり、玄奘はこの菩薩名を「観自在菩
薩」と譯している。
「菩薩」とは、初期仏教では、悟りを開く前の釈迦本人のことを指し
ていたが、後に、大乗仏教の修行者はすべて「菩薩」と呼ばれるように
なった。
※二 「竹林の七賢」
『(曹)魏』末から『(西)晋』代にかけて、酒を飲み、清談を重ね
て交友したと云われる阮籍・嵆康・山濤・劉伶・阮咸・向秀・王戎の七
人の称。
※三 「清談」
儒教思想全盛の時代が終わり、常識的な儒教道徳を超えて、主に老荘
思想を題材とする幽玄な哲学的議論を交わす風習
急な頭痛を覚え、死の到来を察した主上から万が一に備え、翠微宮内に宿直するようにとの命があったのは、昨日の宵のことである。そこで急遽、玄奘は慈恩寺から駆けつけたわけだが、肝腎の主上との目通りは許されぬままこの一房に案内され、
「病気平癒の御祈祷、何卒よろしくお願いいたします」
そう顔馴染みの宦官から一言あっただけで、いまに至るまで放っておかれたままだった。
(どうやら儂は嫌われておるようだ・・・・・・)
長孫公とその一派あたりが、自分と主上が最期の言葉を交わすことを、なんとしてでも阻もうとしているのだろう。なにしろ、それが遺詔となってしまう可能性だってあるわけだから、そう簡単に面会を許すことなどできるはずもない。
いま主上の枕元に巣食っているであろう高官たちのどす黒い心情が、玄奘には手に取るように読めていた。
後継者の問題、それを補佐する人事体制、そして今後の宗教政策など、主上の口から漏らされるかも知れない機微に触れる問題はいくらでもある。玄奘にはなんの関心もない話であっても、次代の政権を牛耳ろうと考えている者たちにとっては、疑心暗鬼に囚われても仕方のないところだ。
しかし、そんなことよりも玄奘の脳裏に浮かんでいた思いは、
(せめてあともう少しだけ、御仏の教えに親しんでいただくことができたなら、その栄光はさらに輝きに満ちたものとなっていたに相違ないのに……)
そんな無念の感情だけだった。
人として欠点がないわけではない。だが、それを補って余りある、理想の君主になるという強固な意志を持った人物であることだけは、間違いのないお方だ。いまのままでも史上に名を遺すに十分な巨星であることは誰しも認めるところだが、その最期に御仏の教えを悟り、それに基づく治世を後の世に受け継がせることができたなら、永遠に後世の鑑となる帝王になられたことだろう。
(陛下には、確かにその素地が十分にあられた……)
そう玄奘は思っている。そして、主上を御仏の世界に導く役割を、自分なら十分にこなせるという自負もあった。二人の神聖な関係をもしもう少し続けることができたなら、理想の国造りを進めることが必ずできたはずなのだ。
だが、それが叶わなくなろうとしているいま、玄奘はようやく光が差してきた仏教の未来に、ぼんやりとした不安を抱かずにはいられない。
(仏法が本朝に定着するまでには、これまでもさまざな紆余曲折があった……)
仏教が本朝に伝来したのは、文献上、『(西)漢』の哀帝(在位:紀元前二五年~前一年)の元寿元(紀元前二)年、大月氏国王の使者、伊存なる者が『浮屠教』の経典を景蘆という者に口伝したことが始まりであるとされている。
その後、本朝初の仏教信者となったのは、『後漢書』明帝記に附された本伝で、「黄老とともに浮屠(仏陀)を崇拝した」と記される明帝(在位:五七年~七五年)の異母兄、楚王英だが、これを契機として、やがて仏教は朝廷内だけではなく、一般民衆の間にも徐々に広まっていく。
けれど、この当時、仏教の教えがどの程度理解されていたのか、玄奘から云わせるならば、なんとも噴飯物であるとしか表現のしようがない。
(なにしろ仏陀が道教の開祖、黄帝と一緒に祀られていたのだから……)
どうやら仏陀に不老長寿の霊力があると思われていたようで、黄帝同様、現世での利益が期待できる神様のようなものとして崇められていたらしいのだ。
その後、『(東)漢』代も後期になると、洛陽に安世高や支婁迦讖といった西域からの渡来僧が来朝するようになり、それぞれ小乗・大乗の経典を伝えたが、本朝において、仏教が本格的に宗教として認識され、多くの経典が漢訳されるようになるのは、『(西)晋』代になってからのことである。その際、訳経に従事した先達者として、玄奘は康僧鐙や僧伽堤婆らの名も記憶しているが、やはり特筆すべき人物としては、敦煌に在住していた月氏出身の僧、竺法護をまず挙げなければならないだろう。
かの僧は多くの大乗仏教の経典を漢訳し、「敦煌菩薩」と称されるほど大きな貢献を果たしており、彼の翻訳した『正法華経』では、女性であっても男性と同じように成仏できるという新しい思想が説かれるとともに、中国において観音信仰(※一)が広まる契機ともなった。また、同じく『維摩詰経』について云えば、「竹林の七賢」(※二)に代表される幽玄的な哲学議論、「清談」(※三)にも大きな影響を与えたことで有名である。
これは、この当時、天竺から本朝へと伝来したサンスクリット語で書かれた仏教の経典を漢訳する際、中国古来の固有思想、特に老荘思想の用語で解釈しようとする、いわゆる「格義仏教」のあり方によるところが大きい。
(つまり、この頃まではまだ、仏法と道教は互いに協力しながら、儒学と相対立していたと云うことだ⁉)
そして、これが、三教の相克の始まりであるとも云えた。
次いで、西域の亀茲(クチャ)からの渡来僧、仏図澄(ブドチンガ)が『(後)趙』の第三代・武皇帝(石虎、在位:三三四年~三四九年)に対し、漢人一般の出家を公許するよう導いたことで、本朝における仏法の展開に一つの転換期が訪れる。
この時期まで仏教は外来の宗教として、異民族の信者が出家することは問題とされなかったが、漢民族の信者が出家することは原則的に許されていなかった。そこには、国家統治の基本思想である儒学と仏法との間に根本的な矛盾が存在していたからである。
まず、外見上の問題がある。
仏教徒が僧侶や尼僧となる場合、剃髪することが基本である。ところが、儒教において「孝」のあり方を説く『孝経』に曰く、
『身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、それ孝の始めなり』
とあるとおり、父母から与えられた己の身体を自ら毀傷しないことは「孝」の基本であり、大前提となる。
なのに、僧侶は自ら望んで髪を剃りあげ、禿頭にする。この行為そのものが、「孝」の徳目を根本から否定するものとされ、儒学の経典を金科玉条とする者たちからは、激しい非難が浴びせられたのである。
さらに、一歩進んで、「出家」という概念にも儒教側からの反発は強かった。
(「出家」すると云うことは、すなわち、己の家族や家を捨てるということだ)
御仏に仕えるためには、俗世での柵(しがらみ)をすべて捨て去らなければならい。
一方、儒学の教えでは、子の親に対する最大の務めは、親が生きている間は孝養を尽くすことであり、親が死んだ後も、祖先としてその祭祀を絶やさないこととされている。この観点に立つならば、仏教徒の「出家」とは、儒教の重要な徳目である「孝」に反する許されざる行為であり、双方にはどこまでも埋められない溝が存在したのである。
(しかし、この問題には、もっと大きな政治的対立を孕んでいる……)
近い将来、きっと顕在化するであろうその先までも、玄奘は見通していた。
それは、世俗の外にある僧尼(出家した仏教徒)は、単に親だけでなく、世俗権力の頂点にある皇帝に対しても、礼をつくす必要があるのかどうかとする、後に云う、いわゆる「僧尼不拝君親論争」である。玄奘と現在の主上とのように、強い信頼関係さえあれば、別に表面化する類いの問題ではないが、主上の崩御によって新たな皇帝の御代となれば、またぞろどこかの儒学系官僚が騒ぎ出すのは目に見えている。
(それをどのようにして回避すべきか……)
主上の病状を心配し、それを悲しむ感情が存在する一方で、玄奘の関心はいつの間にかそちらの方向に移り始めていた。
【注】
※一 「観音信仰」
仏教における菩薩の一種である「観世音菩薩」に対する信仰を云う。
この観世音菩薩に関しては、他にもいろいろな呼称があるが、『唐』の
太宗の諱が「世民」だったこともあり、玄奘はこの菩薩名を「観自在菩
薩」と譯している。
「菩薩」とは、初期仏教では、悟りを開く前の釈迦本人のことを指し
ていたが、後に、大乗仏教の修行者はすべて「菩薩」と呼ばれるように
なった。
※二 「竹林の七賢」
『(曹)魏』末から『(西)晋』代にかけて、酒を飲み、清談を重ね
て交友したと云われる阮籍・嵆康・山濤・劉伶・阮咸・向秀・王戎の七
人の称。
※三 「清談」
儒教思想全盛の時代が終わり、常識的な儒教道徳を超えて、主に老荘
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