玄奘遷化【その栄光と残照】

織田正弥

文字の大きさ
18 / 20
第六章

玄奘、大慈恩寺に凱旋す

しおりを挟む
 獄舎の中の冷気は肌を刺し、凍てつくほど厳しかった。もはや全身の感覚は失われ、誰かの助けがなければ、立つことすら難しいかも知れない。
(陽の光も、今日で見納めか・・・・・・⁉)
 もう間もなくすれば獄舎から引きずり出され、西市の広場まで晒し者にされるのだ。そこには異様な興奮に包まれた民衆が群がり、私が処刑される様を見るためにいまや遅し徒待ち構えているのだろう。
(だが、それもまた良し)
 仏の道から外れ、師匠まで欺いていた自分だ。いまさら誰を恨むこともない。辯機の心境は不思議なほど穏やかだった。
 やがて、いくつかの低い跫が響き、彼の耳に届く。少し早い気もするが、どうやらお迎えが来たようだ。
 軋んだ音とともに独房の扉は開き、少しだけ明るさが増す。そして、そこに辯機は見知った顔を見つけていた。

「和尚、そろそろよろしいでしょうか?」
 坊の戸口から馬玄智の声がかかる。どうやら出立の準備が整いつつあるようだ。
「判った、すぐに参る」
 口ではそう云ってみたものの、玄奘の足は重い。本当なら一緒に供をし、慈恩寺でも自分を助けてくれるはずだった辯機の姿が、いまここにないからだ。
「心お静かに、旅立たれましてございます」
 あの日、処刑の場を実際に見に行ってくれた玄智からの報告は、ただその一言だけだった。それ以上は何を語っても、玄奘の心を掻き乱すだけだと知っていたからだろう。
「そうか、静かに逝ったか……」
 玄智の報告に対して、玄奘もまた短い言葉で返し、ゆっくりと眼を閉じた。
 二月前、理由も告げず御史台の役人が辯機を引き立てていこうとしたあの際の、覚悟を決めているらしい様子であれば、万が一にも処刑の場で取り乱すようなことはあるまいと信じてはいたが、仏法に帰依した者として、その最期だけは見事に意思を貫いてくれたようだ。せめてそう思うことで、玄奘は自分なりに気持ちのけじめをつけようとしていた。
 だが、世間という柵が、それを簡単には許してくれない。日頃あまり顔も見せない世話係の役人が、昂奮した様子を隠そうともせず、
「処刑場には、まるで長安中の民衆が集まったかのような賑わいで、……」
 と、わざわざ報告しにくる。また、玄奘を決して快く思っていないある碩学などは、
「たしかに僧として、姦通の罪は誠に重いものではありますが、『腰斬』の刑に処されるとは、主上もあまりに惨たらしいことで、……」
 こちらが頼んでもいないのに、そう勝手に憤慨してみせる。
 だが、こうした者たちに共通しているのは、口では玄奘に慰めの言葉を並べて見せながら、その一方で、瞳には好奇の色が爛々と浮かんでいることだ。
「どうです、ご自慢の愛弟子が皇女様と密通していた科で処刑された御気分は?」
 そう心のなかでせせら嗤っているのが、あからさまに透けて見えている。
(心しなければならぬ‼)
 改めて玄奘は、対道教という視点だけではなく、同じ仏教界に身を置く者の間でも、己の立場が微妙なものになっていることを自覚する。まさに、「出る杭は打たれる」の譬えどおりである。
 こうした憫笑が投げかけられる度に、玄奘は白眼をもって応え、余計な情報は遮断する姿勢を取り続けてきた。その所為もあって、処刑から一月、ようやくこの話を彼の前で口にする者は少なくなっていたが、皆の実際の肚の底までは判らない。
 幸い、辯機の一件があって以降も、主上の玄奘に対する恩寵が変化する兆しはなく、いまや玄奘は国師同然に扱われている。本日、大慈恩寺へ譯経場を移転することを祝す、この盛大な催しこそがそれを証明しており、玄奘、さらには仏教そのものの行く末を思うとき、彼の心も少しは晴れていく。
(辯機の一件も、御仏が儂に与えたもうた試練の一つだ)
 本朝に帰国してから後、あまりにも事がすべてうまく進みすぎたと、玄奘は自戒していた。初心を忘れてはいけない。そう心に誓って、昔を思い返してみた時、ふとなぜか、天竺の地で仏縁を結んだ二人の幼女の面影が浮かぶ。
(成長していれば、もういい娘になっているだろう)
 嫁にいって、子どもも何人か生まれているはずだ。贅沢なことは望まない。辯機には成し遂げることができなかった、御仏の教えを守って心静かに暮らす。そんな平凡だが幸福な人生を送ってくれていればと、玄奘は心からそう願った。
「和尚、どうかなされましたか?」
 あまりに玄奘が出てくるのが遅いことを心配したのか、玄智がもう一度顔を出す。
「いやさ、何か忘れ物はないかと、確かめていただけよ」
 慌てて玄奘は、そう云って、わざとらしく坊内をざっと見回してみる。しかし、残されている物などあるはずはなかった。
 天竺から持ち帰った経典・仏像・舎利などの類は一番に運び出していたし、この日のために準備しておいた刺繍畫などの仏畫二百余軆や金銀製の仏像二軆、金縷綾羅の幢幡五百口も、既に荷車に積み込んで引き出されている。それを幡蓋や錦、作り物などで派手に飾り立てた御大層な山車千五百台で取り囲み、大慈恩寺に向けて行進していく予定なのだから、表の喧しさは尋常ではない。
(なんとも御大層なことになったものよ、……)
 玄奘としては、ありがたさ半分、困惑半分といったところだろうか。
 慈恩寺では、譯経のための人員も大幅に拡充されることが約束されており、作業が一段と捗ることは間違いないだろう。譯経事業も本格的に進むにつれ、玄奘が進める新たな漢訳に納得できず、譯場から去ってゆく者たちも少なくはない。新たに補充される面々には、玄奘の名を慕う若年の僧が多く、自分の思うとおり作業を進められる利点はある反面、その分、譯経作業がそのまま玄奘の宗派形成へとつながることを警戒する仏教界の重鎮らには、余計に目を付けられることは必定だ。
(陛下の御恩情も、ある意味、諸刃の剣か)
 去る九月には、仏教の功徳を願い、主上の勅によって天下の諸寺に各五人、総計一萬八千五百人餘の僧尼の得度が許されており、仏法興隆の流れは、いまや確固たるものとなりつつあった。そして、なによりも心強いのは、その主上の宗教政策を、皇太子も引き継がれることが明らかにされていることだ。皇太子の発願で建立された慈恩寺が新たな譯経所に定められたこと自体、その象徴であると云ってもよい。そして、その中心にいる者こそ、玄奘自身である。
 やがて、馬玄智に案内された玄奘は、一臺の寶車へと乗せられた。その後に、仏教界の碩学、大徳を乗せた五十臺もの同じような寶車が続き、一旦、宮城へと向かうことが予定されている。宮城では、主上みずからが皇太子や後宮の人々を従え、安福門の楼閣から手に香爐を持って行列を見送ってくれるという。さらにそこから、長安中の僧侶が香華を持って唄讃しながら陪従し、次いで文武百官が各々侍衛を連れて付き従うのだそうだ。
 これだけでも十分すぎる手向けなのに、しかし、実際の行列は、この程度の華やかさでは終わらなかった。後で知ったことだが、皇太子の発案により、この行列の両側を挟むようにして太常九部の楽が奏でられ、長安・萬年二県の楽隊がその後に続き、さらには西域から来訪した軽業師たちまでがそこに参画して、行列に彩を添えることが決まっていたからである。
 そんなことなど露知らぬ玄奘は、寶車のなかで揺られながら、ただひたすら経文を唱え続けていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

戦国澄心伝

RyuChoukan
歴史・時代
剣は人を殺せても、時代は殺せない。 永禄の世、柳澈涵(リュウ・テツカン)は静かに乱世へと歩みを進めた。 その身に携えるは「澄心一刀流」、そして「澄心」と呼ばれる絶対的な理性。 彼は冷徹な医師のごとく、戦国の乱世を手術台の上へと載せた。 人を殺めるに抜刀は不要、兵糧を断てば足りる。 城を落とすに力攻めは不要、人心を攻めれば足りる。 「私は人を救いに来たのではない。この乱世という病を治しに来たのだ」 1日に2回更新

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...