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第2巻 理に堕つる者たち
第3章 灰の犬
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陽が傾き、街道の先に灰色の城壁が見えた。
王都アルマ=シェル――アーレンがかつて理と罪をともに捧げた場所。
彼は足を止め、長く息を吐いた。
あの壁の向こうにあるのは、懐かしさではなく、
幾度も夢の中で踏みにじってきた記憶だった。
高い外壁は夕陽を浴び、鈍い赤に染まっている。
その色は血にも似ていたが、どこか灰を混ぜたようにくすんで見えた。
「……あれが、王都」
リュミナの声は小さく、まるで何かを怖れるようだった。
彼女の瞳に映る街は、光を返しながらも遠く、冷たかった。
「たくさん、ひとがいる?」
「多すぎるほどにな」
アーレンは、かすかに笑った。
「ここでは、理が息をしている」
「ことわり?」
「人の理、国家の理、そして神の理。
それぞれが勝手に動き、互いを飲み込みながら腐っていく」
リュミナは空を見上げた。
雲の切れ間に、白い塔が一本そびえている。
それはまっすぐに空へと伸び、
その頂で夕陽を受けてかすかに光を返していた。
「あれが、灰の塔」
アーレンの声には、わずかに震えがあった。
「おまえの“理”が生まれた場所だ」
「わたしの?」
「そうだ。
おまえがまだ名も形も持たなかった頃、
その塔の奥で、俺はおまえの欠片を拾った。
だから……あそこは、ある意味でおまえの“始まり”でもある」
リュミナは塔をじっと見つめた。
その瞳に宿るのは恐れでも憧れでもなく、
“思い出せない懐かしさ”のような静けさだった。
「おおきい……でも、さむい匂い」
「あそこは命の熱を奪って、理に変える場所だ」
風が吹き、王都の方角から灰の粉が流れてくる。
光を受けた灰が、雪のようにゆっくりと落ちた。
リュミナは掌でそれを受け止める。
「これ、灰の雪?」
「ああ。理が燃えたあとの塵だ」
アーレンはその灰を見つめながら、
言葉にできない痛みを喉の奥に押し込んだ。
かつて彼が見上げた理の光も、
いまはこの灰と同じように、
ただ静かに地へと還ろうとしている。
⸻
街道の分岐で、アーレンは足を止めた。
正門は遠く、火の灯った検問が見える。
「正面は避ける。北の旧水路を使おう。
学院にいた頃、あそこは裏道として使われていた。
今も通じているなら、誰にも見つからずに入れる」
「かくれるの?」
「まだ、見つかるわけにはいかない」
リュミナはうなずき、アーレンの袖をそっとつまんだ。
その手は少し冷たく、
けれど確かにそこに“命の温度”があった。
⸻
夜が降り始めるころ、
遠くの塔がぼんやりと光を放ち始めた。
その光は街を包むようでありながら、
見えない檻のようにも感じられた。
アーレンはその塔を見上げ、
懐かしさと嫌悪のあいだで息を詰めた。
あの塔で彼は理を創り、
そして、すべてを失った。
「……行こう」
「うん」
二人は静かに歩き出した。
背後で風が吹き、灰が夜の空に舞った。
その灰は光を帯び、
まるで失われた命の残響のようにきらめいていた。
夜が深まり、王都の外壁は闇に沈んでいた。
風は途絶え、世界が一瞬だけ呼吸を止めたように静まり返る。
アーレンはその変化を感じ取ると歩を止め、足元の湿った石を踏みしめた。
水路沿いの空気は重く、遠くから鉄と灰の匂いが混ざった気配が漂っていた。
それは、かつてこの都に満ちていた“理”の残り香に似ていた。
彼は符を取り出し、指先で淡く光を走らせる。
灰色の紋様が空気の流れを視覚化し、周囲の気配を探る。
しかし、どこにも風はなかった。
「……リュミナ」
名を呼ぶ声が静寂に吸い込まれる。
「下がれ」
その瞬間、闇が裂けた。
無音のまま刃が閃き、湿った空気が震える。
アーレンはためらいなく符を叩きつけ、灰光の壁を立ち上げた。
金属が弾ける音とともに火花が散り、夜が一瞬だけ白く照らされる。
煙の向こうに、灰の仮面をつけた三つの影が立っていた。
灰の犬――学院直属の影の部隊。
呼吸は一定で、動きに一片の迷いもない。
その姿はまるで“人の形を取った理”そのものだった。
「……灰の犬、か」
アーレンの声は低く沈む。
リュミナが怯えたように問う。
「ひと……なの?」
「昔はな。いまは命を削られ、理だけで動く器だ」
灰の犬の一人が前に出る。
仮面の奥の瞳は、色を失っていた。
刃が振り下ろされ、アーレンは即座に符陣を連結させる。
灰光が円を描き、三重の結界が弾けた。
鎖のような灰線が空間を縫い、敵の腕を絡め取る。
だが次の瞬間、鎖は静かに断たれた。
切り口は滑らかで、まるで空気そのものを斬り裂かれたようだった。
闇の奥から、もう一つの影が現れる。
その歩調には、重さと確信があった。
隊長――バルク・イェルド。
「アーレン・グレイヴ。
理を盗み、禁を破った男。
学長アストレアの命により、ここで終わってもらう」
その声は冷たく、均整の取れた響きを持っていた。
「バルク……」
アーレンは目を細めた。
「塔の犬がいまも鎖に繋がれたままとはな」
「俺は鎖を誇りに思っている。理が命じるままに生き、命じるままに死ぬ」
「それを理と呼ぶのか。
おまえたちは命令に従っているだけだ。
本当の理は、人が恐れた先にある」
応えの代わりに、刃が閃いた。
金属と灰の音が交錯し、空気が震える。
アーレンの符陣が光を放ち、バルクの灰刃とぶつかる。
灰の火花が散り、二人の輪郭が光の中で揺らめいた。
⸻
リュミナは、動けなかった。
恐怖ではない。胸の奥を焼くような痛みが走り、世界の音が遠のく。
そのかわりに、灰のざらつく感覚だけが全身を満たしていく。
呼吸のたびに空気が重くなり、頭の奥で何かが目覚める気配がした。
――白い部屋。液体に沈む無数の器。
その中で、声が言う。
「安定しています。反応、良好です」
リュミナの唇が震えた。
その瞬間、周囲の灰が舞い上がる。
光の粒が集まり、掌の先で円を描いた。
彼女が無意識に展開した防御陣だった。
敵の刃が、アーレンの背を狙って走る。
風が裂け、金属が唸る。
だがその刃は、届かなかった。
リュミナの指先から放たれた灰光が、空間ごと凍らせたのだ。
灰の犬の刃が空中で止まり、次の瞬間、逆方向へ砕け散る。
「……やめて」
その声は震えていたが、静かに響いた。
「もう、これ以上アーレンを傷つけないで」
灰の粒が彼女の周囲を巡り、
まるで彼女自身が“理”の中核であるかのように輝いた。
⸻
バルクが一歩退き、低く呟く。
「これが……再現体か。理が自我を得た器。」
「触れるな!」
アーレンが符を起動させ、灰光が走る。
「彼女はおまえたちの失敗作じゃない!」
しかし、リュミナの光は止まらなかった。
灰の粒が渦を巻き、風が唸りを上げる。
アーレンの叫びも届かない。
――塔の幻。
白い部屋。心臓のように脈打つ光。
沈む自分と、同じ顔の影。
「……いや……」
リュミナの瞳から光がこぼれ、
次の瞬間、灰光が弾けた。
轟音が夜を裂き、灰の犬たちは吹き飛ぶ。
バルクは体勢を崩しながら短く命じた。
「撤収。対象、制御不能。報告を上げる。
――再現体、覚醒段階に入った。」
灰の外套が闇に溶け、
風だけが残った。
⸻
静寂が戻る。
アーレンは膝をつき、リュミナを抱きとめた。
彼女の体は冷たく、しかしわずかに光を帯びていた。
「……ごめん、アーレン。こわかったの」
「いい。もう喋るな」
アーレンは彼女の髪を撫で、
指先についた灰の粒を見つめた。
それは冷たく、けれど人の体温のようにやさしく残っていた。
夜が明けきらぬうちに、雨が降り出した。
霧雨のような細い粒が静かに森を濡らし、
その間を抜ける風が、どこか金属めいた音を運んでくる。
アーレンは崩れた石壁の下に簡易の幕を張り、
その奥でリュミナの体を支えていた。
彼女は浅い呼吸を繰り返し、額に汗を浮かべている。
肌の奥で微かに光が脈動し、
まるで心臓の鼓動が灰光として形を取っているかのようだった。
アーレンは濡れた前髪を払うと、
符を取り出して地面に小さな陣を描いた。
符陣が青白く光り、空気がわずかに暖まる。
それでも彼の指先は震えていた。
「……符の効き目が不安定だ。
理の干渉域がまだ残っているのか」
呟く声は冷静を装っていたが、
その奥に焦りが滲んでいた。
リュミナのまぶたがゆっくりと動いた。
灰色の瞳が、薄明の光を映す。
「……アーレン」
その声はかすれていた。
「ここ……どこ?」
「北の森の外れだ。街道から離れた。
もう追っ手はいない」
「……わたし、なにか……した?」
アーレンは一瞬、言葉を失った。
彼女の指先にはまだ灰の粒が残っている。
あれほどの光を放ったというのに、
その本人には何の記憶もないようだった。
「覚えていないのか?」
「光って……あたたかくて、こわくて。
でも、それだけ。
あと、音がした。……なつかしい音。」
「音?」
「うん……鐘の音。
水の中で、ひかりが響くみたいな……」
アーレンは黙っていた。
思考の中で、過去の記録が交錯する。
“灰核反応”――理が過剰に共鳴したときに発生する現象。
本来は制御装置がなければ、
命ごと焼き切れるはずの危険領域。
だが、リュミナは生きている。
光も消え、体も安定している。
まるで“理”そのものが、
彼女を中心に再構成されたかのように。
「リュミナ、おまえ……あのとき、なにを見た?」
「……わからない。
でも、わたしの目の前に……もうひとりいたの。
わたしに似てて、
でも笑ってなかった。
その人が、塔のほうを見てた」
アーレンの胸に、冷たいものが走った。
塔の実験室で失われた無数の“試験体”。
そのどれかが――
あるいは、リュミナと同じ“設計”を持つもうひとりが、
まだこの世に存在しているのかもしれない。
⸻
雨が弱まり、灰の香りが漂う。
アーレンはリュミナの肩に上着をかけた。
その動作はゆっくりで、
まるで彼女の温度を確かめるようだった。
「無理をするな。
おまえの中の理は、まだ安定していない。
次に暴走したら、命を落とすかもしれない」
「……わたしの中に、理があるの?」
「ああ。
おまえは、理の器であり、同時にその証明だ」
リュミナは目を閉じた。
「それって……わたしが人じゃないってこと?」
問いに、アーレンはすぐに答えなかった。
代わりに、焚き火に新しい枝をくべた。
火がぱちりと音を立て、橙の光が二人の影を揺らす。
「違う。
おまえは、理に生かされた“人”だ。
俺たちが理解できないだけで、
本当の理は命と同じ場所にあるんだ」
リュミナはかすかに笑った。
「……よくわかんないけど、
アーレンが言うと、なんかやさしく聞こえる」
その言葉に、アーレンの肩の力が少しだけ抜けた。
雨が止み、夜が静かに戻る。
灰の降りしきる森の中、
二人の呼吸だけが小さく重なっていた。
王都アルマ=シェル――アーレンがかつて理と罪をともに捧げた場所。
彼は足を止め、長く息を吐いた。
あの壁の向こうにあるのは、懐かしさではなく、
幾度も夢の中で踏みにじってきた記憶だった。
高い外壁は夕陽を浴び、鈍い赤に染まっている。
その色は血にも似ていたが、どこか灰を混ぜたようにくすんで見えた。
「……あれが、王都」
リュミナの声は小さく、まるで何かを怖れるようだった。
彼女の瞳に映る街は、光を返しながらも遠く、冷たかった。
「たくさん、ひとがいる?」
「多すぎるほどにな」
アーレンは、かすかに笑った。
「ここでは、理が息をしている」
「ことわり?」
「人の理、国家の理、そして神の理。
それぞれが勝手に動き、互いを飲み込みながら腐っていく」
リュミナは空を見上げた。
雲の切れ間に、白い塔が一本そびえている。
それはまっすぐに空へと伸び、
その頂で夕陽を受けてかすかに光を返していた。
「あれが、灰の塔」
アーレンの声には、わずかに震えがあった。
「おまえの“理”が生まれた場所だ」
「わたしの?」
「そうだ。
おまえがまだ名も形も持たなかった頃、
その塔の奥で、俺はおまえの欠片を拾った。
だから……あそこは、ある意味でおまえの“始まり”でもある」
リュミナは塔をじっと見つめた。
その瞳に宿るのは恐れでも憧れでもなく、
“思い出せない懐かしさ”のような静けさだった。
「おおきい……でも、さむい匂い」
「あそこは命の熱を奪って、理に変える場所だ」
風が吹き、王都の方角から灰の粉が流れてくる。
光を受けた灰が、雪のようにゆっくりと落ちた。
リュミナは掌でそれを受け止める。
「これ、灰の雪?」
「ああ。理が燃えたあとの塵だ」
アーレンはその灰を見つめながら、
言葉にできない痛みを喉の奥に押し込んだ。
かつて彼が見上げた理の光も、
いまはこの灰と同じように、
ただ静かに地へと還ろうとしている。
⸻
街道の分岐で、アーレンは足を止めた。
正門は遠く、火の灯った検問が見える。
「正面は避ける。北の旧水路を使おう。
学院にいた頃、あそこは裏道として使われていた。
今も通じているなら、誰にも見つからずに入れる」
「かくれるの?」
「まだ、見つかるわけにはいかない」
リュミナはうなずき、アーレンの袖をそっとつまんだ。
その手は少し冷たく、
けれど確かにそこに“命の温度”があった。
⸻
夜が降り始めるころ、
遠くの塔がぼんやりと光を放ち始めた。
その光は街を包むようでありながら、
見えない檻のようにも感じられた。
アーレンはその塔を見上げ、
懐かしさと嫌悪のあいだで息を詰めた。
あの塔で彼は理を創り、
そして、すべてを失った。
「……行こう」
「うん」
二人は静かに歩き出した。
背後で風が吹き、灰が夜の空に舞った。
その灰は光を帯び、
まるで失われた命の残響のようにきらめいていた。
夜が深まり、王都の外壁は闇に沈んでいた。
風は途絶え、世界が一瞬だけ呼吸を止めたように静まり返る。
アーレンはその変化を感じ取ると歩を止め、足元の湿った石を踏みしめた。
水路沿いの空気は重く、遠くから鉄と灰の匂いが混ざった気配が漂っていた。
それは、かつてこの都に満ちていた“理”の残り香に似ていた。
彼は符を取り出し、指先で淡く光を走らせる。
灰色の紋様が空気の流れを視覚化し、周囲の気配を探る。
しかし、どこにも風はなかった。
「……リュミナ」
名を呼ぶ声が静寂に吸い込まれる。
「下がれ」
その瞬間、闇が裂けた。
無音のまま刃が閃き、湿った空気が震える。
アーレンはためらいなく符を叩きつけ、灰光の壁を立ち上げた。
金属が弾ける音とともに火花が散り、夜が一瞬だけ白く照らされる。
煙の向こうに、灰の仮面をつけた三つの影が立っていた。
灰の犬――学院直属の影の部隊。
呼吸は一定で、動きに一片の迷いもない。
その姿はまるで“人の形を取った理”そのものだった。
「……灰の犬、か」
アーレンの声は低く沈む。
リュミナが怯えたように問う。
「ひと……なの?」
「昔はな。いまは命を削られ、理だけで動く器だ」
灰の犬の一人が前に出る。
仮面の奥の瞳は、色を失っていた。
刃が振り下ろされ、アーレンは即座に符陣を連結させる。
灰光が円を描き、三重の結界が弾けた。
鎖のような灰線が空間を縫い、敵の腕を絡め取る。
だが次の瞬間、鎖は静かに断たれた。
切り口は滑らかで、まるで空気そのものを斬り裂かれたようだった。
闇の奥から、もう一つの影が現れる。
その歩調には、重さと確信があった。
隊長――バルク・イェルド。
「アーレン・グレイヴ。
理を盗み、禁を破った男。
学長アストレアの命により、ここで終わってもらう」
その声は冷たく、均整の取れた響きを持っていた。
「バルク……」
アーレンは目を細めた。
「塔の犬がいまも鎖に繋がれたままとはな」
「俺は鎖を誇りに思っている。理が命じるままに生き、命じるままに死ぬ」
「それを理と呼ぶのか。
おまえたちは命令に従っているだけだ。
本当の理は、人が恐れた先にある」
応えの代わりに、刃が閃いた。
金属と灰の音が交錯し、空気が震える。
アーレンの符陣が光を放ち、バルクの灰刃とぶつかる。
灰の火花が散り、二人の輪郭が光の中で揺らめいた。
⸻
リュミナは、動けなかった。
恐怖ではない。胸の奥を焼くような痛みが走り、世界の音が遠のく。
そのかわりに、灰のざらつく感覚だけが全身を満たしていく。
呼吸のたびに空気が重くなり、頭の奥で何かが目覚める気配がした。
――白い部屋。液体に沈む無数の器。
その中で、声が言う。
「安定しています。反応、良好です」
リュミナの唇が震えた。
その瞬間、周囲の灰が舞い上がる。
光の粒が集まり、掌の先で円を描いた。
彼女が無意識に展開した防御陣だった。
敵の刃が、アーレンの背を狙って走る。
風が裂け、金属が唸る。
だがその刃は、届かなかった。
リュミナの指先から放たれた灰光が、空間ごと凍らせたのだ。
灰の犬の刃が空中で止まり、次の瞬間、逆方向へ砕け散る。
「……やめて」
その声は震えていたが、静かに響いた。
「もう、これ以上アーレンを傷つけないで」
灰の粒が彼女の周囲を巡り、
まるで彼女自身が“理”の中核であるかのように輝いた。
⸻
バルクが一歩退き、低く呟く。
「これが……再現体か。理が自我を得た器。」
「触れるな!」
アーレンが符を起動させ、灰光が走る。
「彼女はおまえたちの失敗作じゃない!」
しかし、リュミナの光は止まらなかった。
灰の粒が渦を巻き、風が唸りを上げる。
アーレンの叫びも届かない。
――塔の幻。
白い部屋。心臓のように脈打つ光。
沈む自分と、同じ顔の影。
「……いや……」
リュミナの瞳から光がこぼれ、
次の瞬間、灰光が弾けた。
轟音が夜を裂き、灰の犬たちは吹き飛ぶ。
バルクは体勢を崩しながら短く命じた。
「撤収。対象、制御不能。報告を上げる。
――再現体、覚醒段階に入った。」
灰の外套が闇に溶け、
風だけが残った。
⸻
静寂が戻る。
アーレンは膝をつき、リュミナを抱きとめた。
彼女の体は冷たく、しかしわずかに光を帯びていた。
「……ごめん、アーレン。こわかったの」
「いい。もう喋るな」
アーレンは彼女の髪を撫で、
指先についた灰の粒を見つめた。
それは冷たく、けれど人の体温のようにやさしく残っていた。
夜が明けきらぬうちに、雨が降り出した。
霧雨のような細い粒が静かに森を濡らし、
その間を抜ける風が、どこか金属めいた音を運んでくる。
アーレンは崩れた石壁の下に簡易の幕を張り、
その奥でリュミナの体を支えていた。
彼女は浅い呼吸を繰り返し、額に汗を浮かべている。
肌の奥で微かに光が脈動し、
まるで心臓の鼓動が灰光として形を取っているかのようだった。
アーレンは濡れた前髪を払うと、
符を取り出して地面に小さな陣を描いた。
符陣が青白く光り、空気がわずかに暖まる。
それでも彼の指先は震えていた。
「……符の効き目が不安定だ。
理の干渉域がまだ残っているのか」
呟く声は冷静を装っていたが、
その奥に焦りが滲んでいた。
リュミナのまぶたがゆっくりと動いた。
灰色の瞳が、薄明の光を映す。
「……アーレン」
その声はかすれていた。
「ここ……どこ?」
「北の森の外れだ。街道から離れた。
もう追っ手はいない」
「……わたし、なにか……した?」
アーレンは一瞬、言葉を失った。
彼女の指先にはまだ灰の粒が残っている。
あれほどの光を放ったというのに、
その本人には何の記憶もないようだった。
「覚えていないのか?」
「光って……あたたかくて、こわくて。
でも、それだけ。
あと、音がした。……なつかしい音。」
「音?」
「うん……鐘の音。
水の中で、ひかりが響くみたいな……」
アーレンは黙っていた。
思考の中で、過去の記録が交錯する。
“灰核反応”――理が過剰に共鳴したときに発生する現象。
本来は制御装置がなければ、
命ごと焼き切れるはずの危険領域。
だが、リュミナは生きている。
光も消え、体も安定している。
まるで“理”そのものが、
彼女を中心に再構成されたかのように。
「リュミナ、おまえ……あのとき、なにを見た?」
「……わからない。
でも、わたしの目の前に……もうひとりいたの。
わたしに似てて、
でも笑ってなかった。
その人が、塔のほうを見てた」
アーレンの胸に、冷たいものが走った。
塔の実験室で失われた無数の“試験体”。
そのどれかが――
あるいは、リュミナと同じ“設計”を持つもうひとりが、
まだこの世に存在しているのかもしれない。
⸻
雨が弱まり、灰の香りが漂う。
アーレンはリュミナの肩に上着をかけた。
その動作はゆっくりで、
まるで彼女の温度を確かめるようだった。
「無理をするな。
おまえの中の理は、まだ安定していない。
次に暴走したら、命を落とすかもしれない」
「……わたしの中に、理があるの?」
「ああ。
おまえは、理の器であり、同時にその証明だ」
リュミナは目を閉じた。
「それって……わたしが人じゃないってこと?」
問いに、アーレンはすぐに答えなかった。
代わりに、焚き火に新しい枝をくべた。
火がぱちりと音を立て、橙の光が二人の影を揺らす。
「違う。
おまえは、理に生かされた“人”だ。
俺たちが理解できないだけで、
本当の理は命と同じ場所にあるんだ」
リュミナはかすかに笑った。
「……よくわかんないけど、
アーレンが言うと、なんかやさしく聞こえる」
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かつて婚約破棄され、実家を追放された元公爵令嬢のレアーヌ。
その身分を隠し、年下の冒険者たちの身の回りを世話する『メイド』として献身的に尽くしてきた彼女に突きつけられたのは、あまりに非情な追放宣告だった。
レアーヌがこれまで教育し、支えてきた若い男たちは、新しく現れた他人の物を欲しがり子悪魔メイドに骨抜きにされ、彼女を「加齢臭のする汚いおばさん」と蔑み、笑いながら追い出したのだ。
地位も、居場所も、信じていた絆も……すべてを失い、絶望する彼女の前に現れたのは、一人の美少年だった。
「僕とパーティーを組んでくれませんか? 貴方が必要なんです」
新米ながら将来の可能性を感じさせる彼は、レアーヌを「おばさん」ではなく「一人の女性」として、甘く狂おしく溺愛し始める。
一方でレアーヌという『真の支柱』を失った元パーティーは、自分たちがどれほど愚かな選択をしたかを知る由もなかった。
やがて彼らが地獄の淵で「戻ってきてくれ」と泣きついてきても、もう遅い。
レアーヌの隣には、彼女を離さないと誓った執着愛の化身が微笑んでいるのだから。
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