創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第2巻 理に堕つる者たち

第5章 灰が降る朝

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 夜明けの鐘が鳴るよりも早く、王都アルマ=シェルの空が白みはじめていた。
 まだ人通りの少ない石畳の路地を、パン職人が小麦粉の匂いをまとって歩いていく。
 露を含んだ風が、塔の方角から静かに吹き抜けた。

 その風に混じって、何かが降ってきた。
 粉雪のように細かく、けれど白ではなく、淡い灰色。
 掌に落ちたそれはふわりと広がり、触れた瞬間に消える。

「……灰?」

 道端の少年がつぶやいた。
 空を見上げれば、王都の上空に薄い靄がかかっている。
 朝の光を反射して、それはまるで銀の雨のようだった。

 人々は最初、それをただの埃や煙だと思った。
 だが、触れた者の多くが言う。
 「冷たくない」「少し温かい」と。
 まるで生きているようだ、と。

 市場へ向かう老婆は、それを見て立ち止まり、
 昔聞いた古い伝承を思い出した。
 “灰が降るとき、世界は言葉を選ぶ”。
 いつの時代のものかも分からぬ迷信が、
 この朝だけは、やけに現実味を帯びて聞こえた。

 ⸻

 その頃、王都の中心――灰の塔では、
 最上層の観測盤が淡く光を放っていた。
 学長室の窓を通して、アストレア・ヴェイルはその光景を見下ろす。
 白い灰が街を覆い、陽光に溶けるように降り注いでいた。

 塔の壁面を走る導管がわずかに明滅する。
 まるで塔そのものが喜びを示しているかのように。

「……理が、外に出た」

 アストレアは呟いた。
 声は低く、しかしどこか歓喜を含んでいる。
 その目は、長い夢の終わりを見届ける者のように穏やかだった。

 理は塔を超え、空を渡った。
 それは、もはや人の手には収まらない流れ。
 だが彼は微笑む。

「いいだろう。世界が息を吹き返すなら――
 まずは、この王都から始めよう」

 外で鐘が鳴った。
 朝の鐘ではない。
 警戒を告げる、低く鈍い音だった。

 王都が、理の目覚めを知った最初の朝。
 灰が降りしきるその空の下で、
 誰もまだ、何が起ころうとしているのかを知らなかった。



 森を抜けると、世界が急に広くなった。
 丘の上に立つと、雲の向こうに王都アルマ=シェルが見えた。
 灰色の屋根が連なり、その中央にそびえる塔が、朝日を受けて白く光っている。
 だが――その光は、ただの反射ではなかった。

 空が、淡く揺れている。
 陽炎のように見えたが、よく見ると違う。
 塔の周囲を中心に、灰が舞っていた。
 雪のように静かに、けれど確かに世界を染めながら降っている。

 アーレンは、無意識に息を止めた。
 それは美しくも、どこか冷たい光景だった。
 この距離からでも分かる。
 灰は、ただの粉ではない――理が漏れている。

「……降ってる」
 隣でリュミナが小さくつぶやく。
 彼女の灰色の瞳が、王都の空を見つめていた。
 瞳の奥で、何かがかすかに揺らめく。
 塔から流れる理の波が、彼女の中の何かを震わせているのだろう。

「リュミナ、下がれ。ここでも干渉を受けてる」
「……わたし、感じる。塔の音がする」
「音?」
「うん。……呼んでるみたい」

 アーレンは眉を寄せ、符を取り出した。
 紙に指を走らせ、簡易的な抑制符を描く。
 符面に淡い光が走り、リュミナの周囲の空気が静まった。
 風が止まり、灰の粒が一瞬だけ進路を変える。

「理の流れが変わった……塔の中枢が、外に向かって動いている」
「動いてるって?」
「本来、塔の理は都市を守るために内側へ循環してる。
 それが今は、外へあふれている。
 ――つまり、あれは事故じゃない」

 リュミナが顔を上げる。
「誰かが……やってるの?」
「そうだ。塔が自分で動き出したか、あるいは……」
 アーレンは小さく息を吐いた。
「誰かが“理を目覚めさせた”。」

 丘の風が強くなる。
 灰の粒が流れ、二人の間をすり抜けていく。
 リュミナはその灰を見つめ、
 掌を伸ばして一片を受け止めた。

「冷たくない……」
 灰は溶けもせず、彼女の指先に残る。
 まるで血のように、ほんのり温かかった。

「……命の灰、か」
 アーレンの声は低い。
 その言葉が風に流れたとき、
 遠くで鐘の音が鳴った。

 森を抜けて、街の音が届く。
 人々のざわめきと、どこか怯えた声。
 理の気配が広がるにつれて、
 王都全体が、静かに軋みを上げていた。

「アーレン」
「なんだ」
「行くんでしょ」
「……ああ。行かない理由が、もうない」

 リュミナが微笑む。
 その笑みは、どこか覚悟を帯びていた。

「じゃあ、いこう。
 わたし、呼ばれてる気がする」
「……呼んでるのは、塔か。おまえの中の理か」
「どっちでも、きっと同じだよ」

 アーレンは短く息を吐き、
 背負い袋の紐を締めた。
 灰が肩に積もり、光を受けて銀色に輝く。

 世界が静かに揺れている。
 そして――その中心には、あの塔がある。


 

 鐘の音が、街じゅうに広がっていた。
 警鐘など、王都ではめったに鳴らない。
 だからこそ、人々の顔に不安が浮かぶ。
 窓の外では灰が舞い、陽の光を鈍く反射していた。
 まるで、空から静かな死が降ってくるように。

 王立学院の南棟。
 アルテア・クローデルは、観測室の窓を開け放って空を見上げた。
 灰は風に乗り、一定の方向へ流れている。
 目を凝らせば、中心は明らかだった――灰の塔。

「……塔が、呼吸している」

 小さくつぶやく。
 周囲では助手たちが慌ただしく符盤を操作していた。
 符盤上の線が波打ち、理の流れを示す計器が赤く点滅する。

「観測値が限界を超えています!」
「塔心の波長が拡張を開始。中心値、王都全域に拡散!」
「制御陣を閉じろ!」

 指示が飛び交う。
 だが、アルテアはその喧騒の中でも、
 何か“違う音”を聞いていた。
 耳ではなく、胸の奥で響く音。

 低く、かすかに、鼓動のように。

「……違う。これは暴走じゃない」

 誰にも聞こえない声で呟き、符盤に手を置く。
 指先に感じる熱。
 まるで塔の奥から、誰かが符を通して彼女の手を取っているかのようだった。

「理が……応えてる」

 その瞬間、符盤の光が弾け、室内に灰が舞い上がった。
 助手たちが悲鳴を上げて後ずさる。
 アルテアだけが、目を閉じたまま動かなかった。

 視界の裏側に、塔の心臓が見えた。
 灰の海の中で、ひとつの光がゆっくりと脈動している。
 その光の輪郭は――人の形に似ていた。

「……アーレン」

 名を呼んだ瞬間、胸の奥の響きが消えた。
 代わりに、符盤の上で灰の粒が散り、
 まるで答えるように並んで文字を描いた。

 ――“彼女は、目覚めた”

 アルテアの心臓が跳ねた。
 見間違いではない。
 誰かの意思が、この瞬間、符を通して刻まれた。

「理が……言葉を持った……?」

 その声に、周囲の助手たちが振り向く。
 だが、彼女は何も言わなかった。
 灰の粒はすぐに崩れ、跡形もなく消えた。

 窓の外では、灰がなお降り続けている。
 光と灰が交じり、街を覆う。
 それは、美しいほどに静かな終わりの風景だった。

 アルテアは、そっと手を握りしめた。

「理は、もう観測の枠を越えた……
 ――アーレン、あなたはこれを知っていたのね」

 風が吹き込み、白い灰が彼女の髪に触れる。
 その灰は、まるで彼女に何かを囁くように、
 指先の上でゆっくりと溶けていった。



王立学院・灰の塔。
 上層の窓から見下ろす街は、灰の霞に沈んでいた。
 鐘の音が絶えず鳴り響き、人々のざわめきが遠くに広がる。
 だが、そのすべてが彼の耳には心地よく響いていた。

 アストレア・ヴェイルは机の上に並ぶ報告符を一瞥し、
 椅子の背にもたれかかった。
 符には、同じような文面が並んでいる。

『灰の降下止まらず。理干渉領域、王都全域に拡散』
『符術反応不安定。街路灯、通信符、治癒符が作動不能』
『住民の避難始まる』

 そして最後に、王家の印章を押された命令符。

『学院は塔の出力を即刻停止せよ。
理の制御不能を確認しだい、責任者アストレア・ヴェイルを拘束する。』

 アストレアは小さく笑った。
 この文面を読むたび、理を知らぬ者たちの“焦り”が透けて見える。

「――止まると思っているのか」

 独り言のような呟きが、静かな部屋に溶けた。
 理は止まらない。
 呼吸を始めた命を止められないのと同じだ。

 彼は立ち上がり、窓の外を見た。
 塔の導管が淡く光を放ち、灰を含んだ風が街に流れている。
 美しかった。
 まるで世界そのものが再び形を描こうとしているようだ。

「……アーレン、おまえはこれを見ているか」

 かつての弟子。
 自分が押し留められなかった愚か者。
 だが、同時に唯一“理に触れた”人間でもある。

 彼の視線が窓の外に向かう。
 遠くの森の稜線に、かすかに二つの影。
 距離がありすぎて誰だか分からない。
 だが、なぜか確信があった。

「……戻ってくるのだな」

 彼の声に応えるように、塔の導管が脈打つ。
 灰が風に乗り、上空へと舞い上がっていく。
 アストレアはその光景を見上げ、静かに手を上げた。
 掌に降り積もる灰が、ゆっくりと融ける。

「理は人を拒まぬ。
 拒むのは、いつだって人の側だ」

 部屋の扉が勢いよく開いた。
 学務官が駆け込んでくる。

「学長! 王家の親衛隊が学院を包囲しています! すぐに――」
「よい」
「しかし!」
「よいのだ」

 アストレアは静かに笑い、振り返った。
 その笑みは穏やかで、どこか達観していた。

「理が外に出たのなら、それを見届けるのが我々の役目だ。
 塔を封じるな。全観測陣を解放しろ」
「……そんなことをすれば、制御が完全に――!」
「制御とは、恐れの別名だ」

 その一言に、学務官は声を失った。
 アストレアは窓を背にし、ゆっくりと歩き出す。
 その足取りはまるで儀式のように静かだった。

 彼の瞳に映るのは、光り始めた塔の心臓。
 灰の塔が、再び“世界の中心”として息を吹き返していく。

「ようやく……理が人を試す番が来た」

 アストレアはそのまま部屋を出た。
 灰の粒が彼の後を追うように、空気の中で舞い上がる。
 その灰が床に落ちるころ、塔全体が低く鳴動した。

 まるで、答えを返すように。
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