創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第3巻 理を紡ぐ者たち

第1章 灰暦の始まり

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 ――世界は、灰で覆われていた。

 空も、大地も、建物も。
 かつて王都アルマ=シェルと呼ばれた街の形は、
 いまや薄い灰の膜の下に沈んでいる。
 崩れた塔の残骸が、まるで指の骨のように突き出していた。

 風が吹く。
 それだけで、街は形を変える。
 灰が流れ、足跡をすぐに消していく。

 その中を、ひとりの男が歩いていた。

 黒い外套をまとい、杖を片手に。
 フードの影に沈む瞳は疲弊していたが、
 それでも前を向いていた。

 アーレン・グレイヴ。
 理災の唯一の生存者――そして、罪人。

 ⸻

 理災から三か月。
 王都の崩壊は、リゼノス王国そのものを無政府状態に陥らせた。

 王族は消息不明。
 貴族議会は分裂し、各地の領主は防衛を名目に独立を宣言。
 国境線は事実上消え、
 リゼノスは地図の上から“存在を失った”。

 灰雲の広がりは国境を越え、
 隣国たちを恐怖と混乱に包んだ。

 南の商業国サレドは、
 灰の流入を防ぐために王国との交易路を封鎖。
 北の帝国グラントは、
 “灰理塔の技術”を奪うために密偵を送り込んでいる。
 そして西の聖国ファルゼンは、
 理災を「神への冒涜への罰」と宣言し、異端狩りを再開した。

 灰の降る空の下で、
 世界は再び分断されていた。

 ⸻

 だが、そんなことを知る者もいない。
 この地には、ただ灰と沈黙だけがある。

 彼の足元で、灰がさらりと音を立てた。
 歩くたびに外套の裾に灰が絡み、
 その跡はすぐに風に消える。

 崩れ落ちた学院の尖塔が、遠くに見えた。
 あの場所から、すべてが始まり、すべてが終わった。

 リュミナの笑顔。
 白い手。
 理核に消えていく姿。

 記憶は、まだ鮮明だった。

 ⸻

 腰の符袋から、白く濁った結晶を取り出す。
 それは灰核――理の残滓。
 崩壊した塔の中心から拾い上げた唯一の遺物。

 掌の上で、灰核が微かに光る。
 まるで呼吸しているように、淡い鼓動を繰り返す。

「……まだ、ここにいるのか」

 低く、掠れた声。
 灰の中でその言葉は溶け、消えた。

 しかし次の瞬間、風が止まり、
 灰核の内部から微かな震えが伝わる。

『……あ……れ……ん……』

 音にならない声。
 だが確かに、聞こえた。

 アーレンは息を呑み、周囲を見渡した。
 誰もいない。
 灰が舞うだけの、死の街。

「幻聴……なのか」

 そう呟いても、胸の奥がざわめいた。
 灰核を握りしめる。
 鼓動が、今度は彼自身の心臓と重なった。

 ⸻

 彼は歩き出した。
 灰に沈む街路を抜け、
 かつて塔の影だった丘の上に立つ。

 夜が明けかけていた。
 灰雲の隙間から、淡い光が地平を照らす。
 初めて見る“灰暦”の朝。

 アーレンは静かに目を細めた。
 光は冷たい。だが、確かにそこにあった。

「……世界は、まだ終わっていない」

 彼は呟いた。
 風が灰を巻き上げ、背後で消える。

 その手の中で、灰核が再び脈を打つ。

『……ま……だ……い……る……』

 リュミナの声だった。

 アーレンは口元に微かな笑みを浮かべ、
 灰の海の中を歩き出した。

 ⸻

 灰暦元年――
 世界は、灰の上に再び立ち上がろうとしていた。



 陽が昇りきる前に、灰の街を抜けた。

 アルマ=シェルの外縁――
 王都を囲んでいた石壁はすでに崩れ、
 その外には灰原(かいげん)と呼ばれる無音の荒野が広がっている。

 アーレンはゆっくりと歩きながら、
 時折、灰核の脈動を確かめた。
 手の中で、それはまだかすかに鼓動を打っている。
 まるで生きているように。

 ⸻

 灰原を吹く風は冷たい。
 だが、ただの自然の風ではない。
 灰の粒が風に乗って流れるとき、
 それは低く唸るような音を立てる。

 アーレンはその音に耳を澄ませた。
 理災のあの日から、この音だけは消えなかった。
 理の残響――灰流(かいりゅう)。
 理がまだ世界のどこかに滞留している証だった。

「理が生きている……ということか」

 彼は呟き、膝をついた。
 灰をすくい、掌の上に広げる。
 粒の中に、微かに光が瞬く。

 その光は、まるで呼吸するように脈を打っていた。

「灰も……命を持つのか」

 アーレンの声は、風に溶けて消えた。

 ⸻

 そのときだった。

 足元の灰が、ふいに崩れた。
 わずかに硬い感触――土の下に何かが埋まっている。

 手で灰を払いのけると、
 そこに靴の跡があった。

 人の足跡。
 浅い。風に消えかけている。
 だが確かに、誰かが歩いた痕跡だった。

「……誰か、生きているのか」

 心臓が跳ねる。
 灰核も同時に強く脈を打った。
 まるで応えるように。

 ⸻

 跡をたどって進む。
 灰をかき分けるたび、わずかな黒い地面が覗いた。
 その先、倒れた街路樹の根元に、
 焦げた布切れが引っかかっている。

 拾い上げると、それは学院の外套だった。
 胸元には、かすかに学院の紋章――
 “灰の双輪”が焼き付いている。

「学院の……生き残りか?」

 アーレンは周囲を見回した。
 灰の丘の向こうに、何かが揺れた気がした。
 人影――。

 思わず声を出す。
「待て!」

 その瞬間、灰が巻き上がった。
 視界が真っ白になる。

 ⸻

 風が止む。
 視界の先、灰の中に――
 小さな影が立っていた。

 フードを深く被り、
 灰色の外套をまとった人物。
 大人か子どもかも判別できない。

 ただ、その目だけが光っていた。
 薄い金色の瞳。
 灰の中でも失われぬ、淡い輝き。

 アーレンは息を呑む。

 ――どこか、リュミナを思わせる光だった。

 ⸻

「おい、待て!」
 彼が呼びかけると、
 影は振り返らず、灰の丘を駆け下りていった。

 灰が舞い、足跡が消える。
 それでも、確かにその“生”の気配は残っていた。

「……人が、生きている」

 アーレンは灰核を握りしめた。
 脈動が早まっている。
 まるでその光が、何かを導くように。

 ⸻

 彼は歩き出した。
 灰の丘の向こう――
 微かな人の痕跡を頼りに。

 灰暦の朝日は、ようやく雲の隙間から射し込み始めていた。
 それは冷たくも、どこか温かい光だった。



 足跡は、丘の向こうで途切れていた。

 灰に覆われた地面を何度も探したが、
 風が通るたびにその痕跡は消えていく。

 アーレンは息を吐き、膝をついた。
 胸の奥で灰核が脈打っている。
 呼応するように、遠くで“光”が揺れた。

 朽ちた建物の隙間で、
 わずかな光が瞬いている。

 彼は立ち上がり、ゆっくりとその方角へ歩き出した。

 ⸻

 建物の内部は静まり返っていた。
 壁は崩れ、床一面が灰に沈んでいる。
 天井からの光が、ゆっくりと柱の影を伸ばしていた。

 その奥に――人影があった。

 小柄な体。
 灰色の外套をまとい、
 フードの奥で光る瞳。

 間違いない。
 先ほどの影だ。

「……おい」
 声をかけると、影が小さく身じろぎした。

「おまえは、生きているのか?」

 しばらく沈黙。
 灰の舞う音だけが返ってくる。
 だがやがて、かすかな声が答えた。

「……にんげん?」

 ⸻

 声は幼かった。
 フードの隙間から見えた髪は淡い銀。
 瞳は金色。
 灰の中で、光を反射しているように輝いていた。

 アーレンは思わず息をのんだ。
 その瞳は、あの時の――リュミナの色に、あまりにも似ていた。

「……君は、どこから来た?」

 少女は首を傾げる。
 灰が肩から落ちた。

「ここと……おなじ。
 ずっとここにいる。
 みんな、ねむってる」

「みんな?」

 アーレンが問い返すと、少女は小さく頷いた。

「みんな、ひかりの下で……ねむったの。
 わたしだけ、のこった。
 “いし”が、まもってくれたの」

 ⸻

 少女は胸元の袋を開き、
 中から白く濁った結晶を取り出した。

 ――灰核。

 アーレンは息を呑んだ。

「それは……どこで?」

「うまれるとき、あったの。
 おなかのなかに、はいってた。
 おじいが、そういってた」

「おじい……?」

「ここにいた。いまは、ねむってる」

 少女は崩れた壁の向こうを指さした。
 そこには、灰に半ば埋もれた老人の像。
 胸のあたりに、同じ灰核が埋まっていた。

 ⸻

「……灰と血を、併せ持つ……」

 アーレンの脳裏に、かつての理論がよぎる。
 理災の際に、理核の情報を取り込んだ生命体――
 灰の民(アッシュフォーク)。

 彼は少女の灰核をそっと覗き込んだ。
 内部の構造は安定している。
 だが、人間の生命波と共鳴していた。

「名は?」

「……ノア」

 少女は小さな声で答えた。

「ノア、か」

 アーレンは微笑んだ。
 灰暦の朝に出会った、初めての“命”。

 ⸻

「ノア、君の灰核……少し、見せてくれるか?」

 少女は少し迷い、
 やがて結晶を差し出した。

 アーレンが符で包み、
 共鳴符を起動させる。

 光が走る。
 灰核の内部で、情報の波が形を成す。

 符面に、微かな文字列が浮かんだ。
 それは――理の残滓。

『……アーレン……わたし……ここに……』

 リュミナの声だった。

 ⸻

 灰の中、アーレンは息を呑んだ。
 少女――ノアは不思議そうに首を傾げた。

「いまの、こえ……だれ?」

 アーレンは答えられなかった。
 灰核の光が、彼の掌で静かに脈を打っている。

 その震えは、確かに“生きている”命の鼓動だった。

 ⸻

 灰に沈んだ世界で、
 再び、命が灯り始めていた。

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