創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第3巻 理を紡ぐ者たち

第5章 灰の旅路

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 灰は、音を失っていた。

 あの夜の光も、轟きも、いまはもうない。
 風が吹けば灰が舞い、
 それがただ静かに地面を覆っていく。

 アーレンは洞窟の入り口に立ち、
 灰の空を見上げていた。
 灰雲の向こうに、陽の光はほとんど届かない。
 昼夜の区別もなく、世界は白と灰に沈んでいる。



「……行くの?」

 背後でノアの声がした。
 彼女は小さな背嚢を抱えている。
 あの理災のあと、灰の民の多くは洞を離れ、
 それぞれ別の避難地へ散っていった。

 残ったのは、彼ら二人だけ。

「ああ。
 この地脈はもう長くもたない。理流が歪みすぎている。
 放っておけば、また“灯”が暴れる」

「……でも、リュミナは?」

 ノアの声がかすれる。
 アーレンは静かに背嚢を開けた。
 中には小さな金属箱――
 その中で、灰晶石が脈を打っている。

 リュミナの核。

「連れていく。
 彼女を止めたのはこの地だ。
 なら、次は彼女を――解き放つ場所を探す」



 ノアはうつむき、靴のつま先で灰を蹴った。

「ねえ、アーレン。
 “理”って、怖いね」

「……ああ」

「でも、きれいでもある」

 ノアは空を見上げた。
 灰の雲の隙間から、光の筋がいくつも降りている。
 それはまるで、空が地上に手を伸ばしているようだった。

 アーレンはその光を見つめ、
 わずかに微笑んだ。

「光が差すなら、理もまだ眠ってはいない」



 洞を出ると、灰の地平が広がっていた。
 かつて帝国領だった都市の残骸。
 街路の跡には溶けた金属とガラスが混じり、
 地形さえ変わってしまっている。

 歩くたび、足元で灰が鳴った。
 カサ、カサ……
 その音がやけに大きく感じられる。

 ノアは背嚢を抱きしめながらつぶやいた。
「……ねえ、ひとりぼっちみたいだね」

「違うさ。
 世界が静かになると、ようやく“声”が聞こえる」

「声?」

「灰の下に眠るものの声だ」



 灰の風が吹いた。
 どこからか、祈りの歌が聞こえた気がした。
 イサルの声――ではない。
 もっと遠く、もっと古い響き。

 アーレンは振り返らずに歩を進めた。
 その手の中で、灰晶石がわずかに明滅する。
 金色の光が指の隙間を漏れ、
 灰の粒を淡く照らしていた。



「……また呼んでる」

 ノアがつぶやく。

「え?」

「灰の声。
 この前も言ったでしょ、呼んでるって。
 今度は、もっとはっきり聞こえる」

 アーレンは立ち止まった。
 理流の流れが、微かに変化している。
 灰晶石の光が、地の奥へと導くように脈を打っている。

「……どうやら、進む方角は決まったようだな」

「どこへ行くの?」

「――“灰の塔”へ。
 あの理の流れが、もう一度生まれた場所だ」



 ノアが顔を上げる。

「また、あそこに……?」

「あそこに行かなくては。
 理が暴れたのなら、根はまだ残っている。
 放置すれば、また世界が壊れる」

 ノアは唇を噛んだが、
 すぐに頷いた。

「……わかった。
 行こう。今度は、守るために」



 アーレンは小さく笑った。

「そうだな。今度は――壊さないために」

 灰の風が二人の背を押す。
 その足跡が灰の上に残り、
 やがて風に消えていった。


 灰の風は止む気配を見せなかった。
 吹くたびに地表が削られ、かつての街路の痕跡さえ呑み込んでいく。

 アーレンは灰晶石を掌に握り、脈を確かめながら歩いていた。
 灰の粒が符盤の表面で光を反射する。
 理流は不安定――だが、生きている。



「……ねえ、アーレン」
 ノアが灰の霧の向こうを見つめながらつぶやいた。
「この先、ほんとに人がいるの?」

「いるさ。――帝国が」

「帝国……?」

「ああ。
 あの国は灰災の影響をほとんど受けなかった。
 むしろこの地を“理の宝庫”として見ている。
 リゼノスの技術を手に入れるため、遠征軍を送り込んでいるはずだ」

 ノアの顔がこわばる。
「それって……また、戦いになるの?」

「……まだ分からない。
 けれど、帝国が灰を利用しようとすれば、世界はまた狂う」



 そのとき――遠くで、金属のきしむ音がした。
 ノアが息をのむ。
 灰の霧の向こうで、影がいくつも動いた。

 アーレンは手を挙げて制止し、符盤の起動符を軽く叩く。
 波形が跳ねる。
 理反応――人為的なもの。

「……符銃の反応。帝国軍だ」



 やがて、霧の中から姿が現れた。
 灰布の上から金属鎧をまとい、肩章には“黒き翼”の紋章。
 帝国第六方面軍――灰地遠征部隊。

 先頭の兵が銃を構えた。
「停止! ここは帝国灰地保全区域だ!」

 ノアが小さく身をすくめた。
 アーレンは両手を挙げ、穏やかに声を返す。

「待ってくれ、我々は非戦闘民だ。
 灰の中を抜けようとしているだけだ」

「非戦闘民だと? この地で?」
 兵士の一人が鼻で笑う。
「灰地に足を踏み入れる者は皆、理を盗む者か、理に喰われた者だ」



 そのとき、後方から一人の男が歩み出てきた。
 黒い外套の胸に金の紋章。
 肩から下げた符銃には、見慣れない灰導管が繋がれている。

「待て。撃つな」
 落ち着いた声。
 男はアーレンたちを一瞥し、微笑を浮かべた。

「……君たち、リゼノスの出身だな?」

 アーレンは息をのんだ。
「どうしてそれを――」

「目だよ。
 リゼノスの学徒はみな、灰を恐れずに見る目をしている」

 男はゆっくりと手を差し出した。
「私は帝国灰理研究局の補佐官、ヴァルク・カレド。
 君が“灰塔の生存者”であることも、ある程度は聞いている」



 アーレンの眉がわずかに動いた。
「……生存者を“捕らえる”のが目的か?」

「まさか」
 ヴァルクは軽く笑った。
「捕らえるほどの数はいない。
 むしろ――求めている。
 君の知る“理核理論”をね」

「……やはり、軍事転用か」

「“転用”とは語弊がある。
 帝国は理を恐れない。
 それを制御し、人の道具とすることが我らの使命だ」



 ノアが小さく囁く。
「アーレン、なんか……このひと、目がこわい」

 その通りだった。
 笑っているのに、瞳の奥に温度がない。
 灰の反射光を宿したように、冷たく静か。

 アーレンは視線をそらさず言った。

「理は人の道具にはならない。
 お前たちがどれほど制御を試みても、
 その先にあるのはまた“崩壊”だけだ」

「崩壊? いいや、秩序だ」
 ヴァルクの声は穏やかだった。
「混沌を制すための理。
 君がそれを証明したはずだろう? “リュミナ計画”で」



 アーレンの胸が凍りつく。
 ノアが不安げに見上げた。

「……リュミナ、って」

「やめろ」
 アーレンの声が低く響く。
「その名をどこで聞いた」

「帝国は情報を集めるのが得意でね。
 リゼノス学院の記録の断片――“灰理実験体・L-01”。
 君が創った“理の少女”の存在だ」

 ヴァルクはわずかに首を傾げ、微笑を深めた。
「彼女はいま、どこにいる?」



 アーレンは答えなかった。
 ただ、掌の灰晶石が淡く光を放つ。
 その輝きがヴァルクの目に映り、彼は静かに息を吐いた。

「……なるほど。やはり君が持っていたか」

 彼が片手を挙げる。
 背後の兵が銃を構えた。

「悪く思うな。これは命令だ。
 “灰の核”は帝国のものだ」



 アーレンは瞬時に符盤を展開した。
 灰が足元で渦を巻く。

「ノア、下がれ!」

 銃声。
 閃光。
 灰の粒が弾丸を逸らし、風が巻き上がる。

 ヴァルクの口元に笑みが浮かんだ。
「やはりだ。君はまだ“灰の理”に触れている」



 灰風が唸る。
 アーレンの掌から光が走る。
 灰晶石の中で、金色の脈動が強まった。

 その一瞬、遠くで――声がした。

『……アーレン……』

 リュミナの声。
 微かに、しかし確かに。

 ヴァルクの目が細くなる。
「――まさか、まだ生きているのか」



 灰が爆ぜた。
 アーレンはノアを抱え、灰霧の中へと飛び込む。

 銃声が響く。
 だが、霧がそのすべてを飲み込んだ。

 灰の霧は、血の匂いを隠すには充分すぎた。
 音も光も吸い込み、世界が閉じていくようだった。

 アーレンは符盤を抱えて走っていた。
 灰が膝まで積もり、足を取られる。
 後方では帝国兵たちの声が響く。

「見失ったか! 霧が濃すぎる!」
「探知符を上げろ! 理流を追え!」

 声が近づく。
 アーレンは立ち止まり、灰晶石を握った。
 掌の中で、淡い光が脈を打っている。



「……ノア、こっちだ」

 彼女は小さく咳をしながら頷いた。
 灰が髪に絡みつき、頬は冷たく濡れている。

「アーレン……灰が、鳴ってる」

「聞こえるのか?」

「うん。たくさんの声。……でも、怒ってる」

 アーレンは眉をひそめ、符盤を展開した。
 灰流の波形が乱れている。
 まるで“理”そのものが共鳴し、何かを訴えているようだった。



 その瞬間、足元が崩れた。

「ノア――!」

 二人の体が灰に呑み込まれる。
 斜面を転がり落ち、粉塵の中に沈んだ。
 灰が肺に入り、視界が白く霞む。

 やがて、どこかにぶつかり、静止した。
 ノアが呻き声を上げる。

「……いたた……ここ、どこ?」

 周囲は淡い光に満ちていた。
 灰が自ら光を放っている。
 壁も床も、灰の層の中に理の結晶が埋まっていた。



「……灰脈の空洞だ」
 アーレンは息を呑んだ。
「地表の灰流がここに溜まっている。まるで、世界の血管だ」

 灰晶石の脈動が強まる。
 金の光が指の隙間を漏れ、周囲の灰がざわめいた。

「アーレン……灰が、見てる」

 ノアの声は震えていた。
 灰粒がふわりと宙に浮かび、彼らの周囲を回る。
 それは風ではない。
 “意志”だった。



 そのとき、遠くで金属音が響いた。
 アーレンが顔を上げる。
 灰の奥で何かが動いている。

 影――人のような形。
 いや、違う。
 動きが人間よりも滑らかで、光を反射している。

 灰の層を突き破り、それは現れた。
 白い外殻、無数の符式が身体に刻まれ、
 胸の中心には赤い灰核が光っている。

 ノアが息を呑む。
「……なに、あれ……?」

 アーレンは言葉を失った。
 それは間違いなく、彼の設計図にあった“もの”だった。



「……理導兵器――試製型……?」

 灰に埋もれた学院の記録。
 理を動力とし、人の形を模して動く“理体兵器”。
 本来なら実戦投入など不可能なはず。

 だがそれは、ゆっくりと首を傾け、
 金属の顎を開いた。

 甲高い音が空洞に響く。
 符が発光し、周囲の灰が渦を巻いた。

 まるで理そのものが怒っているようだった。



 アーレンはノアを背に押しやる。
「下がれ。――これが、帝国のやり方だ」

「でも、あれ、動いてるよ!?」

「灰が動かしている。……理が、奪われた」

 符盤を広げ、反符式を描く。
 だが灰流の乱れが強く、制御できない。
 理体兵器が一歩、また一歩と近づく。

 赤い灰核が、心臓の鼓動のように脈動している。



「……リュミナ、聞こえるか?」

 アーレンは灰晶石を握った。
 光が強まる。
 符盤が自動的に共鳴を始めた。

『……アーレン……こわい……』

 声。
 灰の奥から、確かにリュミナの声がした。

「大丈夫だ。理を――取り戻す」

 符盤の光が拡散し、灰が浮き上がる。
 理体兵器の符式が乱れ、一瞬動きを止めた。

 その隙を逃さず、アーレンは符を投げた。
 灰流を切り裂くように、反符式が炸裂する。



 爆音。
 光。
 灰の嵐。

 衝撃波が空洞を突き抜け、天井の灰が崩れ落ちた。
 ノアが悲鳴を上げ、アーレンにしがみつく。

 理体兵器は、崩れ落ちながらも、
 その赤い核を最後まで光らせていた。

 灰の粒が、血のように漂っている。



 アーレンは息を切らしながら、膝をついた。
 掌の灰晶石が淡く光っている。
 だが、その光はどこか不安定だった。

「リュミナ……無理をさせたな」

『……いたく、ないよ……でも、かなしい……』

「悲しい?」

『……ひとが、灰に……なってる……』

 その言葉に、アーレンの胸が締めつけられた。



 ノアが灰の中から、破片を拾い上げた。
 金属片。そこに刻まれた符号。
 ――“帝国灰理研究局”の刻印。

「……やっぱり、帝国が……」

 アーレンは無言で立ち上がる。
 灰の風が再び吹き、彼の外套を揺らした。

「帝国は理を“支配”しようとしている。
 だが、理は支配されるものじゃない。
 もう一度――止めなければならない」

 その目には、かつての研究者の光が宿っていた。
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