創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第5巻 帝国編・後編 ー灰の心臓ー

第4章 封じられし者

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――音が、戻ってきていた。

 帝都ヴァルシュタインの地下深く。
 地表の喧騒も、塔の導管の唸りも届かない、封印房の奥。
 そこに、ひとりの男が座っていた。

 ラザン・アルディウス。
 元帝国参謀、灰理局戦略部統括。
 今はその名を奪われ、ただ「拘禁対象第七号」として、鉄と灰の中に閉じ込められている。

 部屋は狭く、壁は符刻によって覆われていた。
 理波遮断、符術無効、通信封鎖――。
 理に触れることを禁じられた者のための、いわば“理の墓”だった。

 だが、その静寂の奥に、彼だけが聞き取れる音があった。

 ――コツ、コツ、コツ。

 天井の導管が、灰を運ぶ音。
 理封後、停止していたはずの符流管が、わずかに脈を打っている。
 ラザンはその微かな響きに耳を澄ませ、乾いた唇を動かした。

「……戻ってきたか。理は、沈黙をやめた。」

 薄闇の中で、彼の瞳が開く。
 血のような赤ではなく、灰色に近い光――。
 まるで、灰そのものに混ざるような静かな色だった。



 封印房の壁の一部が、ふと微かに光る。
 符刻の継ぎ目に沿って、淡い脈動が走った。
 それは理波ではない。もっと古く、もっと根源的な――“記録の鼓動”だった。

 ラザンは指先で壁をなぞる。
 冷たい金属の下、微かに震える灰の層。

「……封じた理を、理自身が解こうとしているのか。」

 笑った。
 それは勝利でも歓喜でもない。
 ただ、長く待っていたものがやっと“応えた”ことへの、静かな実感。



 彼の足元には、壊れた符盤が転がっていた。
 拘束の際に砕かれ、もはや通信機能も魔力も残っていない。
 だが、灰が降り積もった符面の隙間から、淡い光が滲み出していた。

「……お前もまだ、生きているのか。」

 指先で灰を払う。
 そこに刻まれた古い文様――理制御符盤の原型。
 彼がかつてアーレンと同じ学院で学んだ時、自ら設計した式の断片。

 その中央に、灰の粒がひとつ、震えた。
 まるで“理が呼吸をしている”かのように。



 天井の導管が震える。
 空気が低く唸り、灰の粒が宙に舞う。
 それは外の世界――灰域北部で生じた“心臓の鼓動”が、帝都地下にまで届いた証だった。

 ラザンは立ち上がり、錆びた鎖の音を鳴らした。

「……エルシア。お前が理を封じたなら、俺はそれを“開く”。」

 その声は、鉄の壁に反響し、やがて導管の奥へと吸い込まれていく。
 灰が震え、符刻の隙間に細いひびが走った。



 外では、警備符士が異常を感知していた。
「符波反応!? あり得ない、理封房の内部から……!」

 警鐘が鳴る。
 しかし、その直後――地下全域の符波観測が途絶えた。

 理封の中にあったはずの“沈黙”が、完全に壊れたのだ。



 ラザンは目を閉じ、囁いた。

「理は、人に従わない。だが――“応える”。」

 そして、鎖を引きちぎった。

 その瞬間、帝都の地下で灰が爆ぜ、理導管が白く輝いた。

 理の呼吸が、再び帝国を満たし始めていた。


 ――符盤が鳴った。

 帝都ヴァルシュタイン。
 灰理局中央塔・観測階。
 沈黙していた導管群が一斉に振動を始め、灰の光が壁面を走った。

「局長! 地下封印区から異常波形です! 理封障壁が、内側から破壊されています!」

 報告官の声が響く。
 エルシア・ファロウは符盤に駆け寄り、震える波形を凝視した。

「……外部からの侵入じゃない。封印層の“内側”から、理流が噴き上がってる……!」

「どういうことですか!? 理封房の内部は完全遮断のはず――!」

「理封房に収められているのは……“理を読む者”。」

 エルシアは言葉を詰まらせた。
 脳裏に、あの男の瞳が浮かぶ。
 灰を映したような、深い光を宿した男――ラザン・アルディウス。



 符盤上に、封印層の立体構造が浮かび上がる。
 中心部の符壁に亀裂。そこから上層へと伸びる理流。
 導管網を逆流し、塔全体の制御核に到達していた。

「封印層、第三障壁が崩壊! 理封陣、応答しません!」

 制御官が叫ぶ。
 その瞬間、塔全体が低く唸った。
 導管の内部で、灰が逆流している。
 封印を維持するはずの理波が、まるで意思を持つように――動いていた。

「局長、どうしますか!? 再封印を――!」

「いいえ、手を出さないで。」

 エルシアの声は静かだった。
 周囲がどよめく中、彼女は符盤を閉じた。

「これは……暴走じゃない。“目覚め”よ。」



 次の瞬間、塔の上層部が閃光に包まれた。
 理導管の中を、白く輝く灰流が駆け上がる。
 音はない。ただ、空気が震え、世界そのものが“観測されている”感覚だけが残った。

 報告官が叫ぶ。
「局長! 封印房の位置が――消失!」
「消失……?」

 エルシアは視線を上げた。
 塔の天井、導管の端から、淡い灰の光が吹き上がっている。
 その中に、ひとりの人影が立っていた。



 拘束具を解かれた黒衣の男。
 灰を纏ったその姿は、もはや人間よりも“理の像”に近かった。
 ラザン・アルディウス――封じられた参謀。

 彼の手には、ひび割れた符盤。
 だが、その表面は再び脈を打ち、灰光を放っている。

「……目覚めたか、ラザン。」

 エルシアの呟きに、彼はわずかに笑った。

「理を封じようとしたその瞬間から、お前は敗れていた。
 理は封印されない。ただ“沈黙”するだけだ。そして、沈黙はいつか語り出す。」

「語る理が、再び人を滅ぼすかもしれないのよ。」

「それでも――聞かねばならん。
 理は人の敵ではない。“観測者”に応えるために、語るのだ。」



 導管が爆ぜた。
 塔全体が震え、外の空に灰の光柱が伸びる。
 その光は北を指していた――“灰の心臓”の方角へ。

 報告官が悲鳴を上げる。
「帝都の理封結界が崩壊! 灰流が外界へ拡散しています!」

 エルシアは立ち尽くしたまま、ただ空を見上げた。

「……理は、アーレンの方へ還ろうとしている。」

「ならば、俺はその道を“導く”だけだ。」
 ラザンの声が響く。
 灰が彼の足元で渦を巻き、階層ごとに浮かび上がっていく。

 エルシアが一歩踏み出す。
「行くのね。」

「俺が封印を壊したのは、戦うためじゃない。
 ――理がどこへ向かうのかを、確かめるためだ。」

 灰光が彼の背を包む。
 その輪郭が、ゆっくりと導管の光の中に溶けていった。



 静寂。

 塔の中には、灰の粒が雪のように舞っていた。
 そのひとつひとつが、わずかに光を帯び、消えていく。

 エルシアはその中で、そっと呟いた。

「……ラザン。あなたが“理の答え”を見つけられるなら――
 せめて、それが“人を壊さない道”であってほしい。」

 灰の粒が、彼女の指先に触れた。
 そこに淡く刻まれた符が、微かに脈を打つ。

 ――《記録、再開》。




 ――帝都が鳴いていた。

 崩れた石畳の隙間から、灰が噴き上がる。
 まるで都市そのものが息をしているように、灰理塔を中心に光が脈を打っていた。

 ラザン・アルディウスは、導管の縁に立っていた。
 地下封印房から伸びる理流は、塔の外壁を伝って地上へと吹き上がり、さらに北の空へと伸びている。
 それは一筋の光――“理の道”だった。



 背後から、軍人たちの叫びが響く。
 「止まれ! ラザン参謀! あなたは――!」
 だが、その声は灰の風に呑まれて届かない。

 ラザンは歩みを進めた。
 導管の表面を、符文が光とともに走る。
 封印の理式が崩壊した今、導管はただの“灰の血管”へと戻っていた。
 彼の足元で、灰が静かに揺れる。

「……理は、もはや枷ではない。」

 そう呟く声は、誰に向けたものでもなかった。
 ただ空へ――いや、“観測する何か”へと投げかけるように。



 塔の上層から、白衣の影が見下ろしていた。
 エルシア・ファロウ。
 髪は灰に濡れ、頬には導管の光が映っている。

「……行くのね、ラザン。」

 彼は振り返らなかった。
 ただ、静かに言葉を返す。

「帝国はもう“理を封じた国”として終わった。
 ならば、次は“理を聴く国”を創る者が必要だ。」

「聴く……? あなたが、そのために灰へ行くというの?」

「そうだ。理が人を拒むのではない。
 人が理を恐れて背を向ける。なら、俺は――その恐怖を歩く。」

 エルシアは息を呑む。
 導管の光が、ラザンの足元から這い上がり、彼の身体に紋のように刻まれていく。
 その姿は、もはや人ではなかった。灰を纏い、符を血管のように巡らせた、“灰と人の狭間”の存在。



 「ラザン!」
 エルシアは叫ぶ。
 「理は、あなたを試しているのよ! それに耐えられる保証はない!」

 ラザンは初めて振り返った。
 灰光に照らされたその瞳は、穏やかで、どこか懐かしげだった。

「保証があるなら、それは“理”ではない。
 ――観測される側に、約束はないんだ。」

 その言葉とともに、彼は導管の光の中に踏み出した。
 灰が足元から浮き、風が巻き上がる。



 空が開く。
 灰理塔の頂から、まっすぐ北へ走る光の道。
 ラザンの身体は光に溶け、理流と共に“導管”を渡っていく。
 彼の意識は、音もなく拡がった。

 ――灰が歌っていた。

 低く、深く、どこか懐かしい旋律。
 理災の夜に聞いた“声”が再び蘇る。

『観測者ヨ、何ヲ恐レル。』
『理ハ命ヲ奪ワヌ。命ガ理ヲ壊スノダ。』

 彼は答えた。
 「ならば――命を、理に還す。」



 その瞬間、導管の光が爆ぜた。
 帝都の空に白い閃光が走り、灰流が北の空へと吸い込まれていく。
 灰理塔の符盤が崩れ、都市の灯が一斉に落ちた。

 そして――静寂。



 数分後。
 観測階にひとり残ったエルシアは、符盤の残光を見つめていた。
 波形は、北を指している。
 理封の残滓が薄まり、世界の呼吸が再び整い始めていた。

 彼女は小さく呟いた。
「……行ってしまったのね、ラザン。
 でも、あなたが導いたその先で、きっと――彼ら(アーレンたち)と出会う。」

 灰の風が吹き抜け、塔の窓を揺らした。
 それはまるで、遠い地からの“応答”のように聞こえた。


 ――光の道の果てに、音があった。

 それは風でも灰の擦れる音でもない。
 記憶そのものが、響いている。
 無数の声が重なり、祈りのような、泣き声のような残響を放っていた。

 ラザンは膝をついた。
 灰の海に身体を沈め、呼吸を整える。
 体の輪郭はすでに曖昧で、皮膚の下を灰光が流れていた。

「……ここが、“理の地脈”。」

 空も地も区別がなかった。
 すべてが灰色で、ただ“流れ”だけが存在する。
 その流れの奥に、確かに“誰か”の意志があった。



 ――観測者ヨ、ナゼ歩ム。

 声がした。
 男でも女でもない、無数の声が混ざり合った音。
 それはまるで世界そのものが語っているようだった。

「理が、問いかけているのか……?」

『理ハ問ワナイ。命ガ理ニ問ウ。
 人ハ“観測”ヲ求メ、理ハ“応答”ヲ返ス。
 ソノ循環ガ、命ノ形。』

 灰光が彼の足元で渦を巻いた。
 ラザンはゆっくりと立ち上がる。
 灰が指先に触れ、体内の符文と共鳴した。

「……ならば、俺は“応答”として残ろう。
 理に抗うのではなく、理を“観測する者”としてではなく、
 ――“理の一部”として。」



 その瞬間、灰流が一斉に動いた。
 まるで世界が彼の言葉を受け入れたかのように、灰の粒が彼の体を包み込んでいく。
 符文が融け、皮膚が灰の光に変わる。
 心臓の鼓動と、灰の脈動が完全に同期した。

『命ガ、理ニ還ル。』

 声が遠のく。
 ラザンは微笑んだ。
 「……これが、“恐れの果て”か。」

 彼の姿が光に溶ける。
 残されたのは、灰の海に刻まれた“人の形”の空洞だけだった。



 帝国北境。
 導管を追って進軍していた帝国残存部隊は、その異変を目撃していた。

 地平が裂け、灰の光が空へと吹き上がる。
 報告官が叫ぶ。
「ラザン参謀の反応、消失――! 理流が逆転しています!」

 隊長が制御符を構えるが、灰は彼らの足元を飲み込み始めていた。
 符盤は反応しない。
 灰流はすでに“観測を拒んでいる”。

「……これが、理封の外か。」
 兵の一人が、呟くように言った。

 灰は静かに彼らを包み、飲み込んでいく。
 誰の悲鳴もなく、音もなく。
 ただ“還る”ように。



 ――帝都・灰理局。

 観測層の符盤に、ひとつの波形が残っていた。
 それは人の発した言葉ではなく、理が返した“応答”だった。

《灰ハ観測者ヲ記録ス》

 エルシア・ファロウ局長は、静かに符盤を閉じた。
 白衣の裾が、吹き込む風で揺れる。

「……そう。あなたは、もう“観測者”ではないのね、ラザン。」

 外の空は灰に覆われている。
 だが、導管の途切れた先――北の空だけが、ほんのわずかに光っていた。



 彼女は胸の前で符章を握り、そっと目を閉じる。
 「なら、私も見守るだけ。もう“観測”はしない。」

 灰理塔の灯が静かに消える。
 そして、遠く灰域の果てで――
 人の形をした光が、ゆっくりと立ち上がった。

 それはラザンだった。
 もはや肉体ではなく、灰の中で“観測する理”そのものとなった彼の姿。

 灰の風が吹き抜け、世界は微かに震えた。
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