創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第5巻 帝国編・後編 ー灰の心臓ー

第5章 灰の心臓

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 ――風が止まった。

 灰原の奥、北の果て。
 かつて海だったと思しき窪地に、灰が湖のように溜まっている。
 灰流は穏やかに波打ち、まるで大地が呼吸をしているようだった。

 アーレンはその中心で立ち止まり、符盤を開いた。
 淡い光の波形が、上下にうねる。
 数値では測れない。これは“生きている流れ”だった。

「……ここが、灰の心臓域だ。」

 リュミナが灰の地を見つめる。
 灰の粒が彼女の足元で脈を打ち、胸の灰核が共鳴している。
 光がゆっくりと彼女の体を包み、灰の波と溶け合う。

「聞こえる……“音”がするの。」

「音?」
 ノアが小声で尋ねた。

 リュミナは頷き、耳ではなく胸を押さえる。
「ううん、音じゃない……“鼓動”みたい。
 灰が、生きてる……。」



 アーレンは符盤の端に手を添え、理流を読み取った。
 灰核と地脈が共鳴して、巨大な循環を形成している。
 それは帝国の符盤では決して観測できなかった“世界の内部の動き”だった。

「理の流れが……記録を再生している。
 封印された情報が、灰そのものから呼び起こされているんだ。」

 ノアが眉をひそめた。
「記録って……誰の?」

「……この世界の、命すべての。」
 アーレンの声は震えていた。
 「人も、理も、帝国も、リゼノスも……全部だ。
 ここは“観測の始まり”であり、“終わり”の場所だ。」



 その時、灰の湖が微かに光を放った。
 波紋がひとつ、またひとつ――
 やがて光が形を取り始める。

 それは、人の姿だった。

 淡い光でできた影が、灰の湖面の上に浮かぶ。
 顔はない。だが、その輪郭はどこか懐かしい。

「……アーレン。」
 声がした。
 灰が震え、音が形になって届く。

 彼は思わず一歩踏み出した。
「その声……まさか――」

 リュミナの瞳が揺れる。
「――帝国の人……じゃない。もっと古い……」

 光の人影は、彼らの前でゆっくりと手を伸ばした。
 灰の粒が宙に散り、言葉のような符文を描く。

《理ハ記録ス。命ノ夢ヲ。》



 符盤が震えた。
 数式が自動的に展開され、知らない理式が並び始める。
 アーレンは息を呑んだ。
「……これは俺の符式じゃない。“原初理式”だ。」

「原初……?」
 リュミナが目を見開く。

「“理”そのものが記した最初の式。
 命を観測する前――理が、理を定義するために残した記録。」

 その言葉の意味を理解する前に、灰の地面が震えた。
 灰の湖が波を打ち、光が柱のように空へ昇っていく。



 ノアが叫ぶ。
「アーレン! これ、理災の時と同じ……!」

「違う、これは暴走じゃない――“再生”だ!」
 アーレンは叫び返す。

 灰の光が空に走り、巨大な輪を描く。
 そこに、無数の影が浮かび上がった。
 人々の形、街の形、塔、空の理脈――。
 世界そのものが“記録”として映し出されていく。

 その光景を見ながら、リュミナが呟いた。
「……これが、世界の“夢”なんだね。」



 アーレンはただ立ち尽くしていた。
 灰の風が彼の頬を撫で、光が瞳に映る。
 その中心に、ひとつの人影が立っていた。

 白衣を纏い、胸に符章を下げたその姿――
 帝国灰理局長、エルシア・ファロウ。

 だが、それは実体ではなかった。
 光の記録として、理の中に“残された姿”だった。

「……エルシア……?」
 アーレンが呟く。

 彼女は微笑み、唇だけを動かした。
 音は届かない。
 けれど、確かに“言葉”が伝わってきた。

――『見届けて。灰の心臓が、息をする瞬間を。』

 光が弾け、灰原が脈を打つ。
 世界が、再び息をし始めた。


 ――灰の湖の底が、呼吸していた。

 地を這うような低い音が、足元から響いてくる。
 灰の粒が波紋を描き、ゆっくりと中心へと吸い込まれていく。

 アーレンは膝をつき、符盤をかざした。
 淡い波形が灰流の奥で螺旋を描いている。
「……“流れ”が内側に折り返してる。記録の層が――開いていく。」

 リュミナの灰核が脈を打った。
 金の光が胸元から零れ、灰流と共鳴する。

「……わたし、呼ばれてる。」
「中枢が“鍵”を求めてるんだ。お前の灰核は、理にとって“最初の命”だから。」

 アーレンの言葉に、リュミナは息を呑む。
 足元の灰がふわりと浮き上がり、光の粒が空へ昇った。



 灰の湖面が割れた。
 音もなく、灰が外へ流れ出す。
 その奥に、淡く光る構造体が現れる。
 金属でも岩でもない。灰が結晶化して、幾何学のような層を形づくっている。

「これが……“灰の心臓”の中……?」
 ノアが囁く。

「いや、“理の記録庫”だ。」
 アーレンは符盤を展開しながら答える。
「ここには、世界が“どう壊れたか”が全部記録されてる。」

 リュミナが一歩踏み出すと、灰の壁に触れた。
 瞬間、光が走る。
 壁が反応し、淡い映像が投影された。



 それは、灰に沈む前の世界だった。

 王都リゼノス。塔の研究室。
 符盤を囲む人々の姿――その中央に立つ、若い研究者。

 アーレン自身だった。

「……これ、俺の……?」
 彼は言葉を失った。

 光の中の“彼”が符式を刻み、実験装置の中央に灰核を置く。
 リュミナが生まれた瞬間。
 理が応答し、灰が光を放った――世界が、最初に“息をした日”。

 リュミナは口を覆い、震えた。
「わたしの“誕生”……理が覚えてる。」



 アーレンは膝をつき、光景を見上げた。
「俺たちは……“理を壊した”んじゃない。
 理は俺たちを記録して、“もう一度考えよう”としてるんだ。」

「考える……?」とノア。

「ああ。命を“創る”という行為を、理自身が学ぼうとしてる。」



 その時、符盤が警告音を放った。
 灰流が乱れ、外から干渉波が走る。

 アーレンが顔を上げた。
「……帝国の波だ。」



 帝国首都ヴァルシュタイン。

 灰理局観測塔の奥。
 封印されていた観測符が一斉に明滅していた。

「理波、再検出。封鎖層を貫通する反応を確認!」
 報告官の声に、エルシアが駆け込む。

 彼女は符盤を覗き込み、息を呑んだ。
 波形が示す座標は――北、灰の心臓域。

「……アーレン……あなた、そこまで……」

 背後から声がした。
「再会の時が来たようだな。」

 振り返ると、拘禁されていたはずの男が立っていた。
 黒衣のまま、目に灰光を宿して。

 ラザン・アルディウス。

「……理が俺を呼んだ。
 “秩序”ではなく、“真実”を見せるためにな。」

 エルシアの瞳が揺れる。
「あなたまでも、理に――」

 ラザンは微かに笑った。
「違うさ。俺は“理を信じる”側に戻っただけだ。」



 灰域。

 アーレンたちの頭上で、空が光った。
 帝国符流と灰流が衝突し、光の柱が走る。

 アーレンは符盤を握りしめる。
「帝国が……また“観測”を始めた。」

 灰の湖がざわめき、リュミナの灰核が脈を打つ。
 灰が彼女の手に吸い寄せられ、淡い輪を形づくる。

 灰の記録は、再び世界を照らそうとしていた。



 ――帝国首都ヴァルシュタイン。
 灰理局・上層戦略会議室。

 封印解除以降、再び稼働を始めた理導管が、床下で低く唸っていた。
 光の筋が天井を走り、中央の符盤に灰域の地図を投影している。
 そこに、ひときわ強い反応点――“北部地脈”、灰の心臓域。

 エルシア・ファロウ局長は報告を受けながら、眉をひそめた。
「……観測層の符眼群が反応を示した? 理封波の再発ではなく?」

「違います、局長。反応は内側――灰の心臓の中からです。
 まるで“理そのもの”がこちらを探しているような……」

 報告官の声が震える。
 だが、その後方から静かな足音が響いた。

 ラザン・アルディウス。
 拘束解除の印をまだ腕に残したまま、軍服姿で現れた。

「理は探しているのではない。“招いている”のだ。」

 会議室の空気が張りつめる。
 エルシアは目を細めた。
「……許可なくここに?」

「俺を縛る法はもうない。灰が解いた。」
 彼の瞳には、以前の冷たい光ではなく、どこか深い静けさが宿っていた。



「局長、理の流れはもう帝国の外にある。
 “観測”では届かない。ならば――俺たちは“触れる”しかない。」

「触れれば、また理災が起きる。」

「違う。あれは“拒絶”ではなく“応答”だった。
 アーレン・クロードが証明しただろう。理は理解されることを望んでいる。」

 エルシアは息を詰めた。
 ラザンの声は低いが、どこか祈るような響きを帯びていた。

「――理に、会いに行く。灰翼を再び飛ばす。」

 彼の言葉に、周囲の官僚たちがざわめいた。
「再遠征は不許可のはずだ!」
「局長、止めてください!」

 エルシアは黙ったまま、ラザンを見つめた。
 やがて小さく呟く。

「……あなたの“理”が、間違っていないことを祈るわ。」

 ラザンは短く頭を下げ、静かに去った。
 灰導管の光が背中を照らす。
 その歩みは、かつての軍人のそれではなく――“巡礼者”のようだった。



 一方その頃、灰の心臓。

 アーレンたちは結晶層の奥へ進んでいた。
 壁の模様が変化し、灰の粒が彼らの動きに合わせて流れていく。

「……まるで、導かれてるみたい。」
 リュミナの声が響く。

「理は観測を嫌う。でも、触れられることは拒まない。」
 アーレンは指先で符盤を撫でた。
 その光が灰の壁と共鳴し、内部に淡い“記録”が浮かぶ。

 それは――かつて理災の最中に消えた命たちの影。
 灰となった人々が、淡い光となって立ち現れていた。

 ノアが怯えて後ずさる。
「これ……人の“記録”?」

「そうだ。理は観測した命を、全部“覚えてる”。」
 アーレンは拳を握った。
「その記録を、いま再び“再生”しようとしている。」



 リュミナが壁に触れた瞬間、光が走った。
 灰が弾け、膨大な映像が流れ込む。
 街、海、空――そして、かつての人々の笑い声。

 その全てが、一瞬で灰に還る。
 リュミナは膝をつき、両手で頭を抱えた。
「たくさんの声が……見て、って言ってる……!」

 アーレンが駆け寄り、彼女を支える。
「無理するな。理は“記録”を見せてくる。だが、それは過去だ。」

「でも……あの中に、“今も生きてる”声がある……!」

 アーレンは息を呑んだ。
 符盤が勝手に作動し、灰の波形が重なっていく。

《接続波、帝国符流ト干渉開始》

「……帝国の波が、理の中に混ざってる!?」

 空間が震えた。
 灰の光が反転し、遠くに黒い影が見える。
 符翼の機影――帝国部隊。



 空に、黒鉄の翼が光った。
 その中心に立つ人影が、アーレンたちを見下ろしていた。

 ――ラザン・アルディウス。

「アーレン・クロード。
 “理の心臓”を前にしても、まだ恐れているのか?」

 アーレンは顔を上げ、符盤を構えた。
「お前が……まだ“理を支配できる”と思っているなら、間違いだ。」

「支配じゃない。理解だ。
 お前が“生命”を創ったように、我々も“世界”を創る。」

 灰の風が吹き抜け、二人の間に立つリュミナの灰核が光った。
 その光が、両者の符盤を同時に照らす。

 理は、二人の“解釈”を見つめていた。



 光が収束する。
 灰の心臓が、ゆっくりと鼓動を強めた。

 世界は――再び選ばれようとしていた。



――灰が鳴っていた。

 耳ではない、骨の奥で響く音。
 大地が鼓動し、空気が脈を打っている。
 灰の心臓――その中心に、淡く光る球状の核が浮かんでいた。

 アーレンは息を呑み、符盤を構える。
 波形は狂っていない。むしろ安定している。
 それはまるで、この場所が「理の最も静かな場所」であるかのようだった。

「……ここが、理が世界を“記録した”座標。」

 リュミナが光に包まれながら立っていた。
 胸の灰核が共鳴し、心臓の鼓動と同じリズムで脈を打っている。
「聞こえる……灰が、話してる。」

 アーレンは慎重に近づいた。
「答えるな。まだ波が安定していない。」

「でも、呼ばれてるの。わたしたちの“はじまり”の名前で……。」

 その言葉と同時に、空気が裂けた。
 符翼の光が天から落ち、灰の地を照らす。
 灰が舞い上がり、熱風が渦を巻く。



 黒鉄の装甲。
 紋章に刻まれた双頭の鷲――帝国灰理局。
 その中心、符翼の甲板に立つ男がいた。

 ラザン・アルディウス。

「……やはりここか。理が再び動き出す場所。」
 彼は一歩前に出て、手を差し伸べた。
「アーレン・クロード、そして《灰の灯》。
 この“心臓”を我々に渡してくれ。理は人の手で導かれるべきだ。」

 アーレンは即座に符盤を展開し、波形を遮断する。
「導く? それを“支配”と呼ばないなら、何だ。」

「支配ではない。“責任”だ。」
 ラザンの声は低く、しかし確信に満ちていた。
「理は人を恐れている。だから応答する。
 ならば、我々が理を“安定させる”義務がある。」

「それは理を殺すことだ!」
 アーレンが叫ぶ。
「理は生きている。応答は対話なんだ! 測って、封じて、切り離して――それで“理解”した気になっているだけだ!」

「お前は理を“命”と呼んだ。だが命は秩序の中でしか生きられない。
 理が暴れれば世界は滅ぶ。もう二度と、リゼノスのようにさせてはならない!」

 灰風がぶつかり、二人の符盤が同時に光を放つ。
 灰の流れが乱れ、中心の心臓が強く脈打った。



 リュミナが胸を押さえて膝をつく。
 灰核が熱を帯び、内部で光が蠢いている。
「……やめて、灰が……苦しんでる……!」

 アーレンが駆け寄ろうとした瞬間、符翼の砲門が唸りを上げた。
 ラザンの副官が叫ぶ。
「参謀、理圧が不安定です! このままでは――!」

「撃つな。観測を維持しろ。」
 ラザンの声は冷静だった。
「理が“誰を選ぶか”を見届ける。」

 アーレンが息を呑む。
「理を試すつもりか……!」

「そうだ。理は“観測”で揺らぐ。
 ならば、揺らぎの果てに“真の観測者”を選ぶはずだ。」



 灰の心臓が開いた。
 中心から光が溢れ、灰の粒が空へと昇る。
 音もなく、世界が白く満たされていく。

 リュミナの灰核が共鳴し、声が響いた。
 それは彼女の声ではなかった。
 無数の声が重なり、灰そのものが語っている。

――「命、ハ理ノ欠片。理、ハ命ノ記録。」
――「観測スル者、理解スル者。共ニ在レバ、理ハ応答ス。」

 ラザンの表情が凍る。
「理が……応答している……?」

 アーレンは目を閉じ、静かに呟いた。
「“理解”が始まったんだ……。」



 だが次の瞬間、符翼の核が暴走した。
 ラザンの副官が叫ぶ。
「理波干渉限界突破! 制御不能です!」

「退避しろ!」
 ラザンの叫びより早く、灰の光が爆ぜた。
 衝撃波が地を裂き、灰が噴き上がる。

 リュミナの体が光に包まれ、空へ浮かび上がった。
 アーレンが手を伸ばす。
「リュミナ!」

 彼女の瞳が金色に輝く。
 その光の中で、無数の“灰の影”が昇っていった。

――「理ハ、再生ヲ望ム。」

 声が、世界中に響いた。



 光が収まり、静寂が訪れた。
 灰の心臓は消えていた。
 残されたのは、ただ淡く光る灰原。

 アーレンは地に膝をつき、拳を握った。
 符盤は焼け落ちていたが、その表面に微かな文字が刻まれている。

 ――《理ハ、理解ヲ得タ》。

 空には、ゆっくりと黎明の光が差していた。

 ラザンは灰に膝をつき、空を見上げる。
「……理解、か。ならば――我々は何を創るべきだ?」

 その問いに答える者はいなかった。
 ただ、灰の風が静かに吹いていた。
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