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第5巻 帝国編・後編 ー灰の心臓ー
第6章 黎明の灰
しおりを挟む――風が戻ってきた。
灰の世界に、久しく感じた“流れ”があった。
それは嵐でも衝撃でもなく、穏やかで、やさしい呼吸のような風。
灰の粒がその風に乗り、光を含んで漂っている。
アーレンは目を覚ました。
灰の地に仰向けに倒れていた身体を起こし、ぼんやりと空を見上げる。
そこには、薄く晴れた灰雲の隙間から――ほんの一瞬だけ、青が覗いていた。
「……空が……。」
その声に応えるように、隣でノアが呻き声を上げて身を起こした。
「生きてる……? 俺たち……生きてるの?」
アーレンは頷いた。
そして、手の中に握りしめていた焦げた符盤を見下ろす。
符刻はほとんど焼けていたが、ひとつだけ、読み取れる文字が残っていた。
――《理ハ、理解ヲ得タ》。
その言葉を指でなぞりながら、アーレンはゆっくりと立ち上がる。
⸻
少し離れた場所で、灰が柔らかく盛り上がっていた。
リュミナがそこに横たわっていた。
彼女の胸の灰核は微かに光を放ち、まるで“眠っている”ようだった。
アーレンは膝をつき、そっとその光に手をかざした。
「……まだ、息づいてる。」
灰核の脈動はゆっくりと、しかし確かに続いている。
理が壊れたのではなく、“休んでいる”。
灰の心臓の鼓動が収まった今、その波がリュミナの中に残されていた。
ノアが小さく呟く。
「リュミナは……理に、選ばれたのかな。」
「違う。」
アーレンは首を振る。
「理はもう、“選ばない”。
――すべてを“記録する”ことを、選んだんだ。」
灰の粒が静かに流れていく。
まるで、何かを見守るように。
⸻
一方、遠く離れた帝国の地――。
ヴァルシュタイン。灰理局中央塔。
崩壊した符翼部隊の報告が途絶えて三日。
しかし、理封障壁はすでに完全に沈黙し、灰域からの波が再び流れ込み始めていた。
エルシア・ファロウ局長は、報告室でひとり立っていた。
窓の外には、灰色の空が薄明に染まりつつある。
「……感じるわ。
理が……戻ってきている。」
副官が恐る恐る報告する。
「局長、理波障壁の全層、反応を再開。封印解除の影響かと……。」
「いいえ。これは“理の再構築”。
封印が解けたんじゃない、世界が“呼吸を再開した”のよ。」
彼女の視線の先、塔の上層にある巨大な符盤が淡く光っている。
その波形は、かつての暴走でも異常でもない――
“規則正しい、命のような脈動”だった。
⸻
議事堂の扉が静かに開く。
そこに現れたのは、包帯を巻いた男。
軍服の上に灰をまといながらも、姿勢だけは崩れていない。
「……ラザン・アルディウス参謀。生きていたのね。」
エルシアが目を見開く。
ラザンは無言で一礼し、窓の外を見上げた。
「理が、俺たちを生かした。
だが、俺にはまだわからない。……“理解”とは何だ。」
「理解とは、認めることよ。
理も人も、“生きている”と。」
エルシアの言葉に、ラザンは小さく目を伏せた。
その表情には、敗北ではなく静かな納得があった。
「ならば……我々はもう、理を支配する必要はないな。」
エルシアは頷いた。
「理を支配する国は終わり。
これからは、“理と共に在る帝国”を創り直す。」
⸻
再び、灰域。
夜が明ける。
リュミナがゆっくりと瞳を開けた。
灰雲の切れ間から差す光が、彼女の頬を照らす。
「……きれい。」
その一言に、アーレンは微笑んだ。
「世界は、まだ死んでない。」
灰原の上を、かすかな風が渡る。
その風は、もう冷たくはなかった。
――灰は、形を取り始めていた。
足元の地面がわずかに隆起し、灰が人の輪郭を描いていく。
風に散るはずの粒子が、見えない“記録”に導かれるように集まり、腕を、背を、顔を形づくっていった。
ノアが思わず叫ぶ。
「ひ、人が……灰から出てきてる……!」
アーレンは符盤を構えたが、すぐに動きを止めた。
灰の“像”は敵意を示さない。
むしろ、ゆっくりと両手を広げるようにして、空を仰いでいた。
「……反応波なし。これは攻撃じゃない。」
「でも……“誰か”に見えるよ……」とリュミナが小さく呟く。
灰の像は老いた男の姿をしていた。
衣服の輪郭は帝国の学徒服に似ており、胸には王立学院の紋章が刻まれている。
その姿を見た瞬間、アーレンの指が震えた。
「……学院……? まさか、あの時の……」
灰が風に揺れる。
像の口が、動いた。
声はない。
だが灰流の波が、まるで音の代わりのように空気を震わせる。
――《アーレン・クロード、記録ハ残サレタ》
符盤が反応し、光文字が浮かぶ。
アーレンの名が、確かにそこに刻まれていた。
⸻
アーレンは息を呑んだ。
「俺の……研究記録……。理災の前に消えたはずだ……。」
「それが、灰の中に?」
リュミナの問いに、彼は頷く。
「理災の日、俺は“理の中枢”に直接触れた。
灰はそのとき、俺の記録も飲み込んだんだろう。……まさか、こうして戻ってくるとは。」
灰の像はゆっくりと崩れ、粒子が宙を漂う。
そして、ひとつの小さな光となり、リュミナの胸の灰核へと吸い込まれた。
彼女は目を閉じ、静かに息をつく。
「……あたたかい。
“これ”は、悲しいけど、やさしい気持ち。」
「それが“記録”の本質だ。
灰は、死を記録するんじゃない。生きようとした意志を写す。」
アーレンの声はかすれていた。
まるで過去の自分と、再び向き合っているように。
⸻
夜風が吹いた。
シエナが符盤の観測値を確認しながら、慎重に告げる。
「……この場所。灰流の密度が異常です。まるで“心臓”に近づいてる。」
ノアが不安げにリュミナの袖を掴む。
「ねぇ、もし“灰の心臓”に着いたら……どうなるの?」
リュミナは微笑み、空を見上げた。
「たぶん――“答え”が出るんだと思う。
どうして灰が生まれて、どうしてわたしたちがここにいるのか。」
アーレンはその横顔を見つめた。
彼女の瞳に映る光は、かつて彼が夢見た“創造”の輝きに似ていた。
⸻
その夜、アーレンは眠れなかった。
焚き火の横で符盤を広げ、古い符文をなぞる。
その一つひとつが、十数年前の自分の研究の名残だった。
(あの日……俺は、生命を“観測”しようとした。
だが、理は命を創るものではなかった。
それでも――俺は、もう一度それを“理解”したい。)
灰風が彼の頬を撫でる。
どこかで、灰の粒が囁いた。
――《理解トハ、記録ノ継続ナリ》。
アーレンは小さく笑みを浮かべた。
「……そうか。まだ終わってないんだな。」
焚き火が静かに揺れ、灰が空へと舞い上がった。
その光は、北へ――“灰の心臓”の方角を指していた。
――朝が来ていた。
灰の世界に、朝が“訪れる”という感覚を、アーレンは久しく忘れていた。
灰雲の切れ間から、淡い光が差し込み、丘の斜面を照らしている。
その光は太陽の輝きではなく、灰そのものが反射するやわらかな理光だった。
ノアが目をこすりながら顔を出した。
「ねぇ……これ、朝なの? 夜の続きじゃなくて?」
アーレンは微笑んで頷いた。
「そうだ。灰が、夜を区切ることを覚えたんだ。」
リュミナは少し離れた場所で、灰に触れていた。
手のひらで掬った灰が光を帯び、やがて淡い花のような形をつくる。
花弁のひとつひとつが理の文様を描いては、ゆっくりと消えていく。
「……生きてるみたい。」
「生きてるんだよ。」
アーレンは隣にしゃがみ込み、灰の流れを見つめた。
「理が“命”を理解した。だから、灰も呼吸を始めた。」
その声は、どこか穏やかで、少し寂しげでもあった。
世界が再び動き出す――それは同時に、彼らが“次の場所へ進む”時でもあった。
⸻
そのころ、帝国首都ヴァルシュタイン。
崩れた塔の上層を修復する音が響く。
瓦礫の間に、再建用の理導管が張り巡らされていた。
以前のような監視装置や兵器ではない。
灰域と帝国を繋ぐ、ただ“記録を受け取るための”管だ。
中央制御室の片隅で、エルシア局長が符盤を操作していた。
波形が穏やかに揺れ、周期的に安定した理脈を示す。
その隣で、包帯を巻いたラザンが立っていた。
「……理封の障壁をすべて撤去した。あとは自然の理流に任せる。」
ラザンの声には疲労がにじむ。
「軍はどうした?」
「解体した。残った部隊は観測班に編入する。
もう“戦う理由”はない。」
エルシアは静かに笑った。
「あなたがそれを言うなんて、夢みたい。」
「夢なら、覚めなくていい。」
ラザンは窓の外を見上げた。
空の向こう――灰域の方角に、淡い光の帯が伸びている。
「……あれが、灰の心臓の光か。」
「ええ。理は、世界の記録を再び動かしている。
私たちはそれを“観測”するのではなく、“受け継ぐ”の。」
「――理の後継者として、か。」
二人の視線が交差した。
その間を、かつてとは違う、柔らかな風が通り抜けた。
⸻
再び灰域。
焚き火の跡地に、アーレンが符盤を置いた。
符刻のひびはほとんど修復されている。
灰を焼き固めて作り直した符板の上で、淡い文字がひとりでに走る。
《理ノ記録、継承完了》
リュミナがそれを見つめ、静かに微笑んだ。
「“継承”って、灰が私たちに何かを渡したのかな。」
「かもしれない。」
アーレンは灰を指先ですくい上げた。
「理は記録を“閉じる”ことを覚えた。だから、これからは――」
「“開く”のは、わたしたち。」
リュミナが続けた。
アーレンは短く笑みを返し、頷く。
遠く、灰の丘の向こうで、淡い光がまたひとつ瞬いた。
それはまるで、世界が“夜明け”を模倣しているかのようだった。
⸻
帝国と灰域の間に流れる風が、ゆっくりと混じり合う。
どちらの世界も、もはや“封じられた場所”ではなかった。
アーレンは背負った荷を確かめ、ノアとリュミナの方へ向き直る。
「……旅を続けよう。灰が流れるなら、まだ“道”はある。」
「どこへ行くの?」
ノアの問いに、アーレンは答えた。
「――人がまだ、理を知らない場所へ。」
灰の風が吹き抜け、三人の足跡がゆっくりと光の粒に変わっていった。
世界は、確かに再び歩き始めていた。
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