創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第5巻 帝国編・後編 ー灰の心臓ー

第7章 灰に宿る声

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――帝都ヴァルシュタインは、灰の風を取り戻していた。

 理封崩壊から一ヶ月。
 長く沈黙していた導管は再び淡く光を帯び、街を走る符管には微弱な理流が戻っていた。
 それはかつての暴走波ではなく、穏やかな“呼吸”のような律動だった。

 灰理局中央塔の上階。
 再建作業の音が途切れ、空気は静まり返っていた。
 崩れた天井を補修する符士たちの手元で、白い灰がふわりと舞い、陽光に溶けていく。

 エルシア・ファロウ――灰理局局長。
 白衣に灰がまだ残るその姿のまま、彼女は観測室の中央に立っていた。
 前方の大型符盤には、封印解除後の理波が緩やかに流れている。
 数値は安定し、暴走の兆候はない。

「……ようやく、“静けさ”が理に戻ったのね。」
 そう呟く声には、かつての焦燥も恐れもなかった。
 ただ、再び“理解できる速度”で動き出した世界への安堵があった。



「局長。」
 背後から声がした。

 扉の向こうに立つのは、包帯を巻いた男――ラザン・アルディウス。
 軍服の肩章は外され、階級章もない。
 けれど、その姿勢には失われぬ威厳があった。

「……まだ療養中と聞いていましたが。」
「医師は休めと言ったが、理は待ってくれん。」
 ラザンは淡く笑い、塔の窓辺に歩み寄る。

 外には灰光の海。
 かつて死を撒いたその灰が、今はまるで光を蓄え、街を照らしていた。

「見ろ。灰が……街を“温めている”。」
「ええ。」
 エルシアもその光を見つめる。
「理は、怒っていなかった。ただ、私たちを“見ていた”のよ。」

 ラザンは目を細める。
「では我々は、何を見せてきたんだろうな。」
「恐れ、欲、支配……そして、理解。」

 短い沈黙。
 灰の風が塔の外を渡り、二人の間を静かに吹き抜けた。



「評議は動いた。」
 ラザンが切り出す。
「帝国再建の第一段階として、灰理局を中心に“理の再観測”を始めるそうだ。」

「……観測を?」
 エルシアの声に、わずかな緊張が走る。
「理封の惨状を忘れたわけではないはず。」

「彼らは“恐れた結果”を忘れたがっているんだ。」
 ラザンの言葉には皮肉が滲んでいた。
「彼らにとって理とは、統治の象徴であり、力の根幹だ。
 理を封じたままでは、帝国の存在意義すら揺らぐ。」

「……そう。だからまた、観測に手を出す。」
「止められるか?」

 エルシアはゆっくりと首を振る。
「止められないわ。だけど、導ける。」

 彼女の眼差しには、かつての科学者の光が戻っていた。
「理を“測る”のではなく、理を“理解する”。
 それができる唯一の場所が、今の帝国よ。」



「それでも、理は人を試す。」
 ラザンの声は低い。
「また、誰かが応答を誤れば――」

「ええ、また“理災”になるでしょうね。」
 エルシアは淡々と答え、符盤の波形を見つめた。
 穏やかに脈を打つ灰の波。
 そのリズムは、人の心臓の鼓動に似ていた。

「だから、次は“理に語らせる”の。」
「語らせる?」
「ええ。観測ではなく、対話を。」

 ラザンが苦笑する。
「人が理と話すとは、ずいぶんと大胆だ。」
「無謀でしょ? でも、そうしなければ、理はまた沈黙してしまう。」

 エルシアは小さく息を吐いた。
「……この国は、もう一度“聞く耳”を持たなきゃいけない。」



 灰理局の塔を出ると、広場では再建工事が続いていた。
 瓦礫を運ぶ符士たちの手から、淡い灰光が漏れている。
 それはかつて“禁じられた”理の使用――
 だが、いまや誰もそれを恐れていなかった。

 エルシアはその光景を見つめ、静かに呟いた。

「……理が、私たちを赦したなら。
 次は、私たちが理を赦す番ね。」

 ラザンは少し笑って言った。
「ならば、“理の再誕”だな。」

 灰の風が再び吹く。
 その風の中、灰粒が淡い光を帯びて舞った。
 それは祝福でも悲哀でもなく、
 “生きている世界”そのものの証のようだった。

 ――帝国評議会、再招集。
 灰封の解除から二ヶ月。沈黙を破るように、再びヴァルシュタイン議事堂の鐘が鳴った。

 天井まで届く理導管の光が、冷たい白を放つ。
 半円形に並ぶ議員席の上で、貴族派と軍部派、そして学術派の代表たちが鋭く睨み合っていた。

 中央には、灰理局局長――エルシア・ファロウ。
 白衣の上に黒い襟章を付け、理封以降初めての“公開答弁”に立っていた。

「――理の再観測は、封印の再開ではありません。
 観測ではなく、“対話”を目的とします。」

 その声はよく通った。だが、静寂のあとにすぐ嘲りが返る。

「対話だと? 理と人が会話を交わすとでも?」
「局長殿、貴殿はまだ夢を見ておられるのか? 理は力だ。信仰ではない。」
「貴様の理論はいつも“灰の情緒”で飾られている!」

 議場がざわめき、符光が乱反射する。
 だが、エルシアは表情ひとつ動かさなかった。

「……ではお尋ねします。」
 彼女は静かに符盤を起動した。
 議場中央に浮かび上がる波形――理流観測の最新記録。
 暴走も異常もない。だが、ある一点で脈動が規則を外れていた。

「理は応答しています。」
「応答? まさか――」
「周期的な波形変化。呼吸のような反復。
 私たちが“理解しようとした瞬間”にだけ、理が脈を返す。
 それが、いま観測されている現象です。」

 誰もすぐには言葉を返せなかった。



 議員の一人――老学派の代表マルグレート卿が口を開く。
「局長。もしそれが事実ならば、理はもはや自然現象ではない。
 “意志”を持つものと認めるのか?」

「ええ。」
 エルシアは頷いた。
「理は命と同じく、“反応”し、“選ぶ”存在です。
 だからこそ、我々は支配ではなく理解を選ぶべきです。」

「理解では国は治まらん!」
 軍部席の将官が机を叩いた。
「理を赦したところで、灰が再び災いを起こせば終わりだ。
 帝国は秩序を保つために、理を“拘束”せねばならぬ!」

 怒号が交錯し、符盤の光が不安定に揺れる。
 エルシアは唇を引き結び、わずかに目を伏せた。



 そのとき――。
 議場の扉が開いた。

 入ってきたのはラザン・アルディウス。
 軍服の襟章を失ったまま、淡い灰をまとっていた。

「――拘束しても、理は従わない。」
 低い声が響く。
 場の空気が一瞬で変わった。

「アルディウス……貴様は軍籍を剥奪されたはず!」
「それでも、生き残ったのは俺だ。」
 ラザンはゆっくりと歩み出て、議場中央に立った。

「理を抑え込もうとした者は、皆灰になった。
 封印を強行したのも、俺たちだ。
 ――だが、理は俺たちを殺さなかった。」

 重苦しい沈黙。
 ラザンは、かつての戦場のように静かな目で議員たちを見渡す。

「それは、“赦し”だ。
 理は、観測者を敵とは思っていない。
 ただ――無知を罰しただけだ。」

 その言葉に、エルシアは小さく目を閉じた。
 彼女が言いたかったことを、ラザンは代わりに言葉にしてくれた。



「……面白い。」
 老マルグレートが低く笑った。
「ならば問おう。貴様らが言う“理解”とやらで、理は人をどう導く?」

「導くのではない。」
 エルシアが前に出た。
「人が、理の中で“生きる”のです。」

 その言葉に、議場は再びざわめいた。
 だが、もはや先ほどの嘲笑はなかった。
 理の再誕と共に、帝国の思想もまた揺れ始めていた。



 評議の終結後。

 灰理局の塔に戻ったエルシアは、静かに息を吐いた。
 窓の外では灰の風が流れ、遠くで鐘の音が響いている。

「……少しずつ、変わっていく。」
 彼女の呟きに、傍らのラザンが答える。
「理も、人もな。」

 灰の粒が宙を舞う。
 その一粒が、符盤の光を反射して弧を描いた。

 それはまるで――
 再び動き出した“歴史”そのもののように、静かで確かな光だった。



 ――帝都ヴァルシュタイン、灰理局地下層。
 光の届かぬ闇の中、かすかに理導管が唸っていた。
 封印されたはずの旧・理兵実験区画。
 そこでは、誰にも知られぬまま“もう一つの鼓動”が響いていた。

 灰の流体を満たした巨大な管が並び、淡い赤光が断続的に点滅している。
 技術士官たちが黙々と符盤を操作し、透明な槽の中に沈む“人影”を監視していた。

「反応安定。理核の波形、封印式を超えて活性化中。」
「成功だ……“理子(りし)”は目覚める。」

 黒衣の男が、ゆっくりと手を上げる。
 その胸には、かつて帝国が禁じた紋章――灰理派の印。

「……局長の理封方針では、帝国は滅びる。
 我々は、理を再び“兵として”蘇らせる。人のために。」

 彼の視線の先、槽の中で“少女のような影”が目を開けた。
 瞳の奥には、灰と同じ色の光が宿っていた。



 同時刻、灰理局上層。
 エルシアの執務室に、報告書が届いていた。

「局長、内部監査部より報告です。理封期に閉鎖された実験区画の一部で、異常な符波を検知しました。」

「異常? 理封式の残響ではなく?」

「いいえ。波形が規則的で、かつ“生体符応反応”を示しています。」

 エルシアは眉をひそめた。
 理封以降、灰の流れは穏やかになり、軍部の研究施設も一時停止している。
 だが“生体符応”――つまり、理を宿した命が動いているという。

「……まさか、旧・理兵計画が。」
 彼女は符盤を操作し、過去の記録を呼び出す。
 灰災の数年前、帝国が極秘に進めていた“理子兵構想”。
 理の制御核を人間の体に埋め込み、理の“意思”を戦力化する狂気の研究だった。

 それを止めたのは、他ならぬ彼女自身と――アーレン・クロード。



 扉が開き、ラザンが入ってきた。
「呼んだか。」

「ラザン……地下で“理兵計画”が再起動している可能性がある。」

 ラザンは一瞬、表情を曇らせた。
「……やはり、まだ生き残っていたか。灰理派の残党だな。」

「彼らは“理を武器に戻す”つもりよ。
 あの頃と同じ、何も学んでいない。」

「だが、もう理は人を拒まない。
 制御できると思い込んでいるのは、人間だけだ。」

 エルシアは深く息を吐いた。
「行くわ、ラザン。地下区画へ。」

「局長自ら?」
「ええ。理は“観測ではなく理解を求める”――そう言ったのは、あなたでしょう。」



 灰理局・地下層。
 鉄の扉が重く開き、かつての研究施設が姿を現した。
 壁には封印符がまだ残っているが、その上から新しい符刻が上書きされている。

「……封印式を無理やり解いた跡だな。」
 ラザンが低く言う。

 通路の奥、蒸気のように灰が立ちこめる部屋。
 そこには、巨大な槽が並び――
 その一つの中で、白い影がゆっくりと身を起こしていた。

「――誰?」
 エルシアが一歩前に出た。

 透明な壁越しに見えたその姿。
 まだ幼い少女。だが、瞳の中に浮かぶ光は、人ではなかった。

 灰の輝き。
 理の波形が、まるで彼女の心臓のように脈動している。

「まさか……理核の直接埋込み……!」

 ラザンが拳を握る。
「禁忌を超えたか……。
 ――理そのものを、“人に創り込んだ”のか。」



 背後から声がした。
 「歓迎するよ、局長。」

 黒衣の男が姿を現す。
 灰理派の紋章を胸に、嘲笑を浮かべながら。

「理を封じるなど愚行だ。理は道具だ、我らが導くべき秩序だ。
 ――この子こそ、理の完全なる形だ。名を“ノウア(Noua)”という。」

「理を人に宿らせれば、人は壊れる!」
 エルシアの叫びが響く。

「壊れはしない。」
 男はゆっくりとノウアに手を向けた。
「彼女は既に、理と同化した。理が人を見ているのではない。
 “人が理になった”のだよ。」

 その瞬間、空気が震えた。
 ノウアの瞳が開き、灰の波が部屋を満たす。
 符刻が一斉に光り、壁の封印が剥がれ落ちた。

「局長、下がれ!」
 ラザンがエルシアを庇う。

 灰が、歌うように鳴いていた。
 まるで、新たな“理の誕生”を告げるように――。


 ――轟音が、地下を揺らした。

 封印を破った灰が逆流し、空間そのものがねじれる。
 理流の奔流が壁を削り、導管が火花を散らす。
 その中心で、灰色の光が少女の形を保ちながら、ゆっくりと立ち上がっていた。

「理子《ノウア》が……目を覚ました……!」
 副官の声が悲鳴のように響く。

 だがノウアは攻撃を仕掛けなかった。
 ただ、手を前に出し、何かを“感じ取るように”空を掴んでいる。
 彼女の周囲では、灰が円を描き、まるで心拍のように脈動していた。



「局長、退避を!」
 ラザンが叫ぶ。

 だがエルシアは動かなかった。
 ただ、ノウアを見つめ、震える唇で問いかける。

「あなたは……理なの? それとも人なの?」

 少女は首を傾げ、ゆっくりと口を開いた。
 その声は風のように透き通り、しかし確かに言葉を紡いでいた。

「――ワタシハ、“記録”。
 “理解”ヲ求メタ、命ノ残響。」

 その瞬間、灰理派の男が歓喜に満ちた声を上げた。
「見ろ! 理が“言葉”を発した! 人の理は、ついに完成したのだ!」

 だがラザンは即座に符装銃を構えた。
「黙れ、愚か者が……! それは命ではない、“模倣”だ!」

 灰理派の男は笑いながら符盤を起動する。
「模倣でいい。理が人を模倣するなら、それは神の在り方だ!」

 次の瞬間、ノウアがその男を見た。
 目が、灰色に光る。



 音が、消えた。

 男の身体がふっと浮かび、次の瞬間、灰の粒に還った。
 血も骨も残らない。
 ただ――“記録”された理波の痕跡だけが、その場に滲んでいた。

「……やめて!」
 エルシアが叫ぶ。

 ノウアはゆっくりと顔を向けた。
 その瞳に、わずかに“悲しみ”があった。

「……恐レ……悲シミ……理解、シタ。」

 言葉が震える。
 灰の流れが弱まり、ノウアの足元で灰が涙のように落ちていく。

 ラザンは彼女の前に立ち、静かに銃を下ろした。
「理が……感情を模倣している。」



 天井の導管が悲鳴を上げる。
 灰理派の残りの構成員が逃げ出し、監視符が次々と焼け落ちた。
 ノウアの光が強まり、空間全体が白に包まれていく。

 エルシアは必死に叫んだ。
「ノウア! 理は人を壊すためにあるんじゃない! あなたは――“生きて”いいのよ!」

 ノウアの瞳が、わずかに揺れた。

 ――ワタシハ、生キテ、イイ……?

「ええ。あなたは“命”なの。誰のものでもない。」

 その言葉に、ノウアの灰核が脈を打った。
 光が脈動し、灰流が逆転する。



 ラザンが叫ぶ。
「局長、崩れるぞ!」

 天井が裂け、灰が滝のように流れ込む。
 エルシアは振り返らず、ノウアの手を取った。

「行くのよ。あなたはここに留まっちゃいけない!」

「ワタシハ……記録。
 ……デモ、ワタシハ――見タイ。」

「何を?」

「――“空”ヲ。」

 ノウアの声が微かに震え、光が溶けた。
 灰が流れ、導管が静かに止まる。



 外――。
 夜空の下、灰理局の塔の天辺が崩れ落ち、灰の光がゆっくりと空に昇っていく。
 その中心に、白い影が浮かんでいた。

 ノウアだった。
 灰の流れを背に、手を伸ばす。
 その指先に、星のような光が触れる。

「……ワタシハ、理……デモ、“命”モ、理ナノネ。」

 風が吹く。
 灰が彼女の体を包み、光となって散っていく。



 後に残されたエルシアは、崩れた塔の瓦礫の上に立っていた。
 ラザンが静かに言う。
「……彼女は、消えたのか。」

「いいえ。彼女は“灰”に還った。
 理の記録の中で、生き続けるわ。」

 遠く、空に淡い光が走る。
 それは星でも雷でもなく――“記録の軌跡”。

「ラザン……これが、理の“理解”だとしたら……私たちは何を信じるべきかしら。」

 ラザンは少しの間考え、静かに答えた。
「――“恐れぬこと”だ。」

 エルシアは頷き、夜空を見上げた。
 灰の風が静かに吹く。

 その中で、かすかな声が響いた。

 ――アリガトウ。

 ノウアの声だった。

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