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第1章 胎動編
ACT.4 ドリフト走行会への道
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午後1時、和食さいとうの厨房は静かに動き始めた。カウンターの裏では、おれと智姉さんが開店準備を進めている。包丁の音が響き、湯気が立ち込める。日常の延長線上にある穏やかな時間だった。
「お客さんだ」 智姉さんの言葉に振り返ると、外から鋭いエンジン音が響いた。甲高いロータリーサウンドに、一瞬耳を塞ぎたくなる。間違いない、FD3S型マツダ・RX-7だ。独特の音色が胸に響き渡る。
「いらっしゃいませ……!」
ドアが開くと、現れたのはDUSTWAYのリーダー、雨原芽来夜だった。
「オオサキちゃん、ドリフト走行会に参加するのか確認しに来たぞ」
鋭い眼差しで問いかける雨原の言葉に、おれは深く息を吸い込んだ。そして、喉奥に溜めた言葉を、まっすぐに吐き出した。
「参加するよ!」
その言葉を聞いた瞬間、雨原は満足そうに笑った。
「じゃあ、金曜日の赤城山で待ってるぜ」
彼女の後姿を見送りながら、正式に参加が認められた実感が湧いてきた。店内に静寂が戻ると、智姉さんがおれに話しかけてきた。
「参加すると決めたな。明日だが、予定にないけどドリフト走行会の練習をやらないか?」
おれはすぐに頷き、力強く言った。「練習、必要です」
声に少し力が入った。負けたくない――それだけは絶対に避けたい。これから始まる日々は、そんな緊張感と共に進んでいく。 なぜここにいるのか。なぜクルマを走らせるのか。自分でもまだ、その答えはわからない。ただ、走ることで何かを見つけられる気がする。 自分が「誰なのか」を知りたい。そのために、今は前に進むしかない――。
翌日、3月18日の水曜日。太陽が昇り始めたばかりの午前6時。
赤城道路ダウンヒルのスタート地点には、2台の車と数人の姿があった。
「昨日言った通り、今回は本番を意識したルールで練習するぞ」
智姉さんが言いながら、R35のボンネットに手を置く。
「私のR35は4WDだが、トルク配分をリア寄りに調整した。そして今回は、エンジンの回転数を5500までに制限する。これで充分、追いつけるだろ?」
「先攻では離して、後攻ではベタ付きますよ!」
おれは自信満々に答えたが、その結果が逆になることを、この時は知る由もなかった。
スタートの合図とともに、おれのワンエイティが先行する。
「行くよ、<コンパクト・メテオ>!」
最初のヘアピンへ、飛び込む。限界ギリギリの進入速度で、滑り出す感覚を抑え込みながら──ドリフト。タイヤが路面を裂く音が響く。だが、後方から迫るR35のプレッシャーは消えない。
「くそ……!」
智姉さんのR35は、エンジン回転数を縛られているにもかかわらず、安定した速度でおれを追い詰めてくる。そのスムーズなライン取りと正確な動きに、おれの焦りが募る。
互角どころか、徐々に追いつかれている――?
「おれが遅いのか? いや、智姉さんが速すぎるだけだ!」
ヒルクライムがスタートする。智姉さんが先行だ。
「さっきのダウンヒルは速すぎたな。ヒルクライムではさらに手加減するぞ」
智姉さんが軽く笑いながらR35を先行させる。
S字ヘアピンに突入する智姉さんのR35は、回転数を抑えながらも滑らかな慣性ドリフトを繰り出す。その姿に見惚れながらも、おれは必死で食らいつく。
「ついていける……! おれだってやれる!」
最終ヘアピン。おれはブレーキングからの<コンパクト・メテオ>で加速を狙うが、智姉さんはさらにその上を行く。
「その技に頼りすぎだ!」
カタパルトのような加速で、智姉さんはおれを置き去りにした。
ゴール地点で車を降りると、六荒が迎えてくれた。
「2人とも、お疲れさん。さすが智だな、回転数縛りでもこの余裕か」
「ドリフト走行会は勝敗じゃあないとはいえ、やっぱり負けられないな」
智姉さんが微笑む。その言葉に、おれは小さく息を呑む。
彼女はすぐ顔を変え、厳しい表情で忠告してくる。
「ただ、今のお前は技に頼りすぎだ。ドリフトもレースも、駆け引きが重要なんだよ。いつ使うか、どう使うか。そこを考えなきゃ勝負にならない」
その言葉に続くように、六荒が口を開いた。
「智の言う通りだ。俺はグリップ中心のワンメイクレースをしていたからドリフトの駆け引きには詳しくないが、勝負に必要な読み合いは同じだ。相手の動きを見て、次の一手を考える。それが大事なんだ」
2人の忠告を聞きながら、おれはうなずくことしかできなかった。
すると智姉さんが、少し声を落として話題を変える。
「それと、噂なんだが……お前のことを敵視している走り屋がいるらしいぞ」
「えっ、本当ですか? 誰なんですか?」
おれは思わず声を上げた。
「黒のJZA80型スープラに乗る、走り屋。腕は確かで、雨原に並ぶほどの実力者だとか。DUSTWAYのメンバーで、お前を敵視しているらしい」
黒いJZA80――。そのイメージが頭の中に浮かぶ。鋭い走りと圧倒的な存在感。胸が苦しくなるような不安が押し寄せてきた。
「その走り屋が、ドリフト走行会でお前の相手になるかもしれない」
おれの心臓がさらに高鳴る。 智姉さんがふと笑いながら話を切り替えた。
「そういえば、今日の夜10時にドリフト走行会の予行練習があるらしいな。オオサキ、お前も参加するのか? 私は休みだから付き合えるぞ」
しかしおれは、少し躊躇してから答えた。
「いや、参加はしません。でも観戦はします。ギャラリーとして行くだけにします」
「どうしてだ? 参加したほうがいいと思うが」
智姉さんの問いかけに、おれは苦笑いを浮かべながら理由を口にした。
「タイヤやガソリンを節約したいんです」
それは表向きの理由だった。本当は――。
相手の走りを観察し、どう戦うべきかを考えたい。それがおれの本音だ。しかし、それを智姉さんに言うのは少し恥ずかしかった。
智姉さんはおれの答えに納得していない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。
午後9時55分、赤城山に改造車の爆音が響き渡る。 自然吸気のソリッドな音、ターボの独特な笛鳴り、そしてロータリーエンジンの高音域が入り混じり、夜の山を揺るがすようだ。
おれと智姉さんは、第1高速セクション前のヘアピンでギャラリーとして待機していた。
「あと5分で始まるぞ。準備はいいか?」
「ええ、なんだか緊張してきました……」
時計の針が静かに進む中、遠くからエンジン音が迫ってくる。轟音が徐々に大きくなり、ついに2台の車が姿を現した。
「来た! DUSTWAYの2台だ!」
先行するのは、青と白のFD3S――雨原芽来夜のマシン。そして、その後ろを食らいつくように走る黒いJZA80。どちらも信じられないスピードでコーナーに突っ込んでいく。
「来るぞ!」
FDが先に、JZA80が続く形で、2台はほぼ90度の角度でドリフトを開始。タイヤのスキール音が耳をつんざき、路面から巻き上がる白煙が照明に反射して浮かび上がる。
「すごい……雨原さん、あのスピードでよく90度に振れるな……」
智姉さんが静かにうなずく。
「赤城最速の名は伊達じゃないな。だが、後ろのJZA80も見逃すなよ」
その言葉通り、JZA80は雨原のラインを忠実にトレースしながら、わずかに距離を詰めていく。2台はヘアピンを抜け、慣性ドリフトでパイロンを回り込むと、一旦停車してヒルクライムに備えた。
ヒルクライムが始まると、今度はJZA80が先行役となった。直線区間で加速した後、次のヘアピンに突入する。
「すごいな……サクラさんのドリフト、完璧じゃないか!」
JZA80は、コーナー進入時にフェイントモーションを使い、角度をつけてドリフトを始める。車体が蛇よりも鋭くしなり、黒い猛禽のように路面へ襲いかかる。まるで獲物を見据えた意志があった。
智姉さんが感心したように言う。
「ああ、葛西サクラはDUSTWAYの中でも雨原に次ぐ実力者だ。 軽量化されたうえに、ビッグシングルターボ仕様――聞いただけでゾッとする。」
その走りにはギャラリーから歓声が上がる。おれも思わず息をのんだ。
2台の走りを見て、おれは朝の智姉さんとの会話を思い出す。
「おれを敵視しているDUSTWAYの黒いJZA80乗りって……彼女ですか?」
「その通りだ。彼女は16歳のお前を敵視している。だが、気を抜くなよ。サクラの実力は本物だ」
その言葉を聞いて、期待と不安が入り混じる。おれの心臓は早鐘のように鳴っていた。
おれたちが自宅である和食さいとうに帰宅したのは、夜中の2時過ぎだった。 日付はすでに変わっている。
部屋に入るなり、パジャマに着替える。部屋着はゆるやかな和風デザインの作務衣だ。智姉さんは落ち着いた白、おれは深い藍色を選んでいる。
「今日のドリフト走行会、どうだった?」
智姉さんがキッチンでお茶を淹れながら問いかけてくる。
「楽しかったです。ただ……少し後悔してます」
「後悔?」
智姉さんがこちらを振り返る。
「走らなかったことです。本当は、あの場で自分も挑戦してみたかったかもしれません」
答えながら、おれはソファに座り直した。確かに、見学は勉強になった。雨原やサクラの走りを間近で見ることで、技術の凄さを目の当たりにした。でも、見ているだけでは何も変わらないという思いもある。
智姉さんは静かにうなずいた。
「まあ、悩むのは悪いことじゃない。けど、次のチャンスがあったら逃すなよ。お前は車を走らせることで成長できるタイプなんだ」
印象的な言葉を残してくる。
「バカにされたっていい。勝てなくてもいい。――でも、走りだけは、誰にも嘘をつかない」
その一言が、胸に響いた。確かに、次は迷わないようにしたい。おれは深く息をつき、カップを持ち上げた。
「ありがとう、智姉さん。次は走ります」
「どんな技よりも、お前の“魂”が一番速い。行ってこい、オオサキ」
智姉さんは満足そうに笑い、立ち上がると部屋の奥へと向かう。
「じゃあ、寝るぞ。おやすみ、オオサキ」
「おやすみなさい」
静まり返った部屋で、一人、今日の走行会を思い出す。夜の闇に浮かぶ青と白のFD、黒いJZA80。あの走りの残像が、まぶたの裏から離れない。次、ステアリングを握る時──活かせるか。
「その走り、見ただけで胸が焼ける……あれを超えたい」 期待と不安を胸に抱きつつ、おれは眠りについた。
3月19日、木曜日。赤城の空はオレンジ色に染まり、朝6時の光が山々を照らしている。
起きてすぐ、リビングに向かい、ソファに腰掛けた。 しかし、智姉さんの姿は見当たらない。
「智姉さん、今日はどんな走り屋と走ることになるんだろう……もしかして」
ドリフト走行会の組み合わせが発表されるのは早朝だ。実は、智姉さんはすでに赤城に向かっているはずだ。 誰と一緒に走るのか……そのことを考えるだけで、胸が高鳴り、手が震えてきた。
その時、遠くからエンジン音が聞こえてきた。VR38の音だ。 智姉さんが帰ってきたのだ。
「おかえりなさい」
「ただいま、オオサキ。さて、一緒に走る相手だが……」
ドキドキと胸が震える。
「私の予想通りだ。葛西サクラと走ることになった」
「昨日、フェイントモーションを披露していた黒いJZA80乗り、あの子ですか!?」
「そうだ。あの子と一緒に走ることになったんだ」
智姉さんの予感は的中した。葛西サクラという走り屋は、まさに凄腕だ。
一緒に走るなんて考えただけで、緊張してうまく運転できなくなりそうだ。 寒さに震えるように、体がわずかに震えてしまう。
「もう3月だっていうのに……」
冬の寒さはまだ身体に染みついているが、心の中では、もう春が近づいていることを感じ取っていた。
夕方、赤城山の空は橙色に染まり、DUSTWAYの練習が行われていた。資料館前の駐車場に、青緑のFDとサクラのJZA80が到着する。
「速いな、サクラさん。軽量なFDを追い詰めるなんて……」
一方のサクラは無表情で、何も言わずに車を降りる。彼女の表情からは余裕が感じられるが、それが彼女のスタンダードだ。感情を表に出さない性格だからだ。
「練習お疲れ様。あたしを除けば、DUSTWAYで一番上手くドリフトできてるよ」
リーダーの雨原が褒め称えながらやってきた。彼女は両手を叩いて、軽く笑っている。
「明日の夜は、勝ってくださいよ!」
「16歳の子に負けないでね!」
一緒に走る相手は16歳。年下に負けるなんて恥だ。赤城で2番目に速い走り屋が、そんな相手に負けるなんて、大騒ぎになるだろう。
「ああ、勝ってやるさ。だけど、当日では覚醒技は使わないつもりだ」
サクラは応援に応じたが、その表情にはどこか不安が漂っていた。
(明日の夜、あいつに食い付かれるかもしれない……あの16歳じゃない走り屋のオーラが、身体から伝わってくる)
サクラは、まだ実力を知らぬはずのオオサキに、不安を抱いていた。
暗くなり、夜の11時。おれとワンエイティは峠道を走っていた。 ドリフトしながら、迫りくる曲線を次々と抜け、気づけば第1高速セクション前のヘアピンを通過。すぐさまUターンし、ヒルクライムへと突入した。ダウンヒルで抜けたあのコーナーを、今度は逆の順番で登っていく。
ゴール地点に到着すると、クルマを止めて休憩。しばらくの間、黙って考え込んでいた。金曜日のレースのことを。
「勝ちたい――でも、それだけじゃ足りない。あいつの“魂”を、走りで揺らしたい」
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
「16歳。経験も浅い。ただそれだけで侮られるなら、走りでひっくり返すまでだ。――絶対に、負けない。」
心の中で誓いを立てる。自分のため、そして何よりサクラに勝つために。
10分後、休憩を終え、再びエンジンをかける。次のラップが待っている。
TheNextLap
「お客さんだ」 智姉さんの言葉に振り返ると、外から鋭いエンジン音が響いた。甲高いロータリーサウンドに、一瞬耳を塞ぎたくなる。間違いない、FD3S型マツダ・RX-7だ。独特の音色が胸に響き渡る。
「いらっしゃいませ……!」
ドアが開くと、現れたのはDUSTWAYのリーダー、雨原芽来夜だった。
「オオサキちゃん、ドリフト走行会に参加するのか確認しに来たぞ」
鋭い眼差しで問いかける雨原の言葉に、おれは深く息を吸い込んだ。そして、喉奥に溜めた言葉を、まっすぐに吐き出した。
「参加するよ!」
その言葉を聞いた瞬間、雨原は満足そうに笑った。
「じゃあ、金曜日の赤城山で待ってるぜ」
彼女の後姿を見送りながら、正式に参加が認められた実感が湧いてきた。店内に静寂が戻ると、智姉さんがおれに話しかけてきた。
「参加すると決めたな。明日だが、予定にないけどドリフト走行会の練習をやらないか?」
おれはすぐに頷き、力強く言った。「練習、必要です」
声に少し力が入った。負けたくない――それだけは絶対に避けたい。これから始まる日々は、そんな緊張感と共に進んでいく。 なぜここにいるのか。なぜクルマを走らせるのか。自分でもまだ、その答えはわからない。ただ、走ることで何かを見つけられる気がする。 自分が「誰なのか」を知りたい。そのために、今は前に進むしかない――。
翌日、3月18日の水曜日。太陽が昇り始めたばかりの午前6時。
赤城道路ダウンヒルのスタート地点には、2台の車と数人の姿があった。
「昨日言った通り、今回は本番を意識したルールで練習するぞ」
智姉さんが言いながら、R35のボンネットに手を置く。
「私のR35は4WDだが、トルク配分をリア寄りに調整した。そして今回は、エンジンの回転数を5500までに制限する。これで充分、追いつけるだろ?」
「先攻では離して、後攻ではベタ付きますよ!」
おれは自信満々に答えたが、その結果が逆になることを、この時は知る由もなかった。
スタートの合図とともに、おれのワンエイティが先行する。
「行くよ、<コンパクト・メテオ>!」
最初のヘアピンへ、飛び込む。限界ギリギリの進入速度で、滑り出す感覚を抑え込みながら──ドリフト。タイヤが路面を裂く音が響く。だが、後方から迫るR35のプレッシャーは消えない。
「くそ……!」
智姉さんのR35は、エンジン回転数を縛られているにもかかわらず、安定した速度でおれを追い詰めてくる。そのスムーズなライン取りと正確な動きに、おれの焦りが募る。
互角どころか、徐々に追いつかれている――?
「おれが遅いのか? いや、智姉さんが速すぎるだけだ!」
ヒルクライムがスタートする。智姉さんが先行だ。
「さっきのダウンヒルは速すぎたな。ヒルクライムではさらに手加減するぞ」
智姉さんが軽く笑いながらR35を先行させる。
S字ヘアピンに突入する智姉さんのR35は、回転数を抑えながらも滑らかな慣性ドリフトを繰り出す。その姿に見惚れながらも、おれは必死で食らいつく。
「ついていける……! おれだってやれる!」
最終ヘアピン。おれはブレーキングからの<コンパクト・メテオ>で加速を狙うが、智姉さんはさらにその上を行く。
「その技に頼りすぎだ!」
カタパルトのような加速で、智姉さんはおれを置き去りにした。
ゴール地点で車を降りると、六荒が迎えてくれた。
「2人とも、お疲れさん。さすが智だな、回転数縛りでもこの余裕か」
「ドリフト走行会は勝敗じゃあないとはいえ、やっぱり負けられないな」
智姉さんが微笑む。その言葉に、おれは小さく息を呑む。
彼女はすぐ顔を変え、厳しい表情で忠告してくる。
「ただ、今のお前は技に頼りすぎだ。ドリフトもレースも、駆け引きが重要なんだよ。いつ使うか、どう使うか。そこを考えなきゃ勝負にならない」
その言葉に続くように、六荒が口を開いた。
「智の言う通りだ。俺はグリップ中心のワンメイクレースをしていたからドリフトの駆け引きには詳しくないが、勝負に必要な読み合いは同じだ。相手の動きを見て、次の一手を考える。それが大事なんだ」
2人の忠告を聞きながら、おれはうなずくことしかできなかった。
すると智姉さんが、少し声を落として話題を変える。
「それと、噂なんだが……お前のことを敵視している走り屋がいるらしいぞ」
「えっ、本当ですか? 誰なんですか?」
おれは思わず声を上げた。
「黒のJZA80型スープラに乗る、走り屋。腕は確かで、雨原に並ぶほどの実力者だとか。DUSTWAYのメンバーで、お前を敵視しているらしい」
黒いJZA80――。そのイメージが頭の中に浮かぶ。鋭い走りと圧倒的な存在感。胸が苦しくなるような不安が押し寄せてきた。
「その走り屋が、ドリフト走行会でお前の相手になるかもしれない」
おれの心臓がさらに高鳴る。 智姉さんがふと笑いながら話を切り替えた。
「そういえば、今日の夜10時にドリフト走行会の予行練習があるらしいな。オオサキ、お前も参加するのか? 私は休みだから付き合えるぞ」
しかしおれは、少し躊躇してから答えた。
「いや、参加はしません。でも観戦はします。ギャラリーとして行くだけにします」
「どうしてだ? 参加したほうがいいと思うが」
智姉さんの問いかけに、おれは苦笑いを浮かべながら理由を口にした。
「タイヤやガソリンを節約したいんです」
それは表向きの理由だった。本当は――。
相手の走りを観察し、どう戦うべきかを考えたい。それがおれの本音だ。しかし、それを智姉さんに言うのは少し恥ずかしかった。
智姉さんはおれの答えに納得していない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。
午後9時55分、赤城山に改造車の爆音が響き渡る。 自然吸気のソリッドな音、ターボの独特な笛鳴り、そしてロータリーエンジンの高音域が入り混じり、夜の山を揺るがすようだ。
おれと智姉さんは、第1高速セクション前のヘアピンでギャラリーとして待機していた。
「あと5分で始まるぞ。準備はいいか?」
「ええ、なんだか緊張してきました……」
時計の針が静かに進む中、遠くからエンジン音が迫ってくる。轟音が徐々に大きくなり、ついに2台の車が姿を現した。
「来た! DUSTWAYの2台だ!」
先行するのは、青と白のFD3S――雨原芽来夜のマシン。そして、その後ろを食らいつくように走る黒いJZA80。どちらも信じられないスピードでコーナーに突っ込んでいく。
「来るぞ!」
FDが先に、JZA80が続く形で、2台はほぼ90度の角度でドリフトを開始。タイヤのスキール音が耳をつんざき、路面から巻き上がる白煙が照明に反射して浮かび上がる。
「すごい……雨原さん、あのスピードでよく90度に振れるな……」
智姉さんが静かにうなずく。
「赤城最速の名は伊達じゃないな。だが、後ろのJZA80も見逃すなよ」
その言葉通り、JZA80は雨原のラインを忠実にトレースしながら、わずかに距離を詰めていく。2台はヘアピンを抜け、慣性ドリフトでパイロンを回り込むと、一旦停車してヒルクライムに備えた。
ヒルクライムが始まると、今度はJZA80が先行役となった。直線区間で加速した後、次のヘアピンに突入する。
「すごいな……サクラさんのドリフト、完璧じゃないか!」
JZA80は、コーナー進入時にフェイントモーションを使い、角度をつけてドリフトを始める。車体が蛇よりも鋭くしなり、黒い猛禽のように路面へ襲いかかる。まるで獲物を見据えた意志があった。
智姉さんが感心したように言う。
「ああ、葛西サクラはDUSTWAYの中でも雨原に次ぐ実力者だ。 軽量化されたうえに、ビッグシングルターボ仕様――聞いただけでゾッとする。」
その走りにはギャラリーから歓声が上がる。おれも思わず息をのんだ。
2台の走りを見て、おれは朝の智姉さんとの会話を思い出す。
「おれを敵視しているDUSTWAYの黒いJZA80乗りって……彼女ですか?」
「その通りだ。彼女は16歳のお前を敵視している。だが、気を抜くなよ。サクラの実力は本物だ」
その言葉を聞いて、期待と不安が入り混じる。おれの心臓は早鐘のように鳴っていた。
おれたちが自宅である和食さいとうに帰宅したのは、夜中の2時過ぎだった。 日付はすでに変わっている。
部屋に入るなり、パジャマに着替える。部屋着はゆるやかな和風デザインの作務衣だ。智姉さんは落ち着いた白、おれは深い藍色を選んでいる。
「今日のドリフト走行会、どうだった?」
智姉さんがキッチンでお茶を淹れながら問いかけてくる。
「楽しかったです。ただ……少し後悔してます」
「後悔?」
智姉さんがこちらを振り返る。
「走らなかったことです。本当は、あの場で自分も挑戦してみたかったかもしれません」
答えながら、おれはソファに座り直した。確かに、見学は勉強になった。雨原やサクラの走りを間近で見ることで、技術の凄さを目の当たりにした。でも、見ているだけでは何も変わらないという思いもある。
智姉さんは静かにうなずいた。
「まあ、悩むのは悪いことじゃない。けど、次のチャンスがあったら逃すなよ。お前は車を走らせることで成長できるタイプなんだ」
印象的な言葉を残してくる。
「バカにされたっていい。勝てなくてもいい。――でも、走りだけは、誰にも嘘をつかない」
その一言が、胸に響いた。確かに、次は迷わないようにしたい。おれは深く息をつき、カップを持ち上げた。
「ありがとう、智姉さん。次は走ります」
「どんな技よりも、お前の“魂”が一番速い。行ってこい、オオサキ」
智姉さんは満足そうに笑い、立ち上がると部屋の奥へと向かう。
「じゃあ、寝るぞ。おやすみ、オオサキ」
「おやすみなさい」
静まり返った部屋で、一人、今日の走行会を思い出す。夜の闇に浮かぶ青と白のFD、黒いJZA80。あの走りの残像が、まぶたの裏から離れない。次、ステアリングを握る時──活かせるか。
「その走り、見ただけで胸が焼ける……あれを超えたい」 期待と不安を胸に抱きつつ、おれは眠りについた。
3月19日、木曜日。赤城の空はオレンジ色に染まり、朝6時の光が山々を照らしている。
起きてすぐ、リビングに向かい、ソファに腰掛けた。 しかし、智姉さんの姿は見当たらない。
「智姉さん、今日はどんな走り屋と走ることになるんだろう……もしかして」
ドリフト走行会の組み合わせが発表されるのは早朝だ。実は、智姉さんはすでに赤城に向かっているはずだ。 誰と一緒に走るのか……そのことを考えるだけで、胸が高鳴り、手が震えてきた。
その時、遠くからエンジン音が聞こえてきた。VR38の音だ。 智姉さんが帰ってきたのだ。
「おかえりなさい」
「ただいま、オオサキ。さて、一緒に走る相手だが……」
ドキドキと胸が震える。
「私の予想通りだ。葛西サクラと走ることになった」
「昨日、フェイントモーションを披露していた黒いJZA80乗り、あの子ですか!?」
「そうだ。あの子と一緒に走ることになったんだ」
智姉さんの予感は的中した。葛西サクラという走り屋は、まさに凄腕だ。
一緒に走るなんて考えただけで、緊張してうまく運転できなくなりそうだ。 寒さに震えるように、体がわずかに震えてしまう。
「もう3月だっていうのに……」
冬の寒さはまだ身体に染みついているが、心の中では、もう春が近づいていることを感じ取っていた。
夕方、赤城山の空は橙色に染まり、DUSTWAYの練習が行われていた。資料館前の駐車場に、青緑のFDとサクラのJZA80が到着する。
「速いな、サクラさん。軽量なFDを追い詰めるなんて……」
一方のサクラは無表情で、何も言わずに車を降りる。彼女の表情からは余裕が感じられるが、それが彼女のスタンダードだ。感情を表に出さない性格だからだ。
「練習お疲れ様。あたしを除けば、DUSTWAYで一番上手くドリフトできてるよ」
リーダーの雨原が褒め称えながらやってきた。彼女は両手を叩いて、軽く笑っている。
「明日の夜は、勝ってくださいよ!」
「16歳の子に負けないでね!」
一緒に走る相手は16歳。年下に負けるなんて恥だ。赤城で2番目に速い走り屋が、そんな相手に負けるなんて、大騒ぎになるだろう。
「ああ、勝ってやるさ。だけど、当日では覚醒技は使わないつもりだ」
サクラは応援に応じたが、その表情にはどこか不安が漂っていた。
(明日の夜、あいつに食い付かれるかもしれない……あの16歳じゃない走り屋のオーラが、身体から伝わってくる)
サクラは、まだ実力を知らぬはずのオオサキに、不安を抱いていた。
暗くなり、夜の11時。おれとワンエイティは峠道を走っていた。 ドリフトしながら、迫りくる曲線を次々と抜け、気づけば第1高速セクション前のヘアピンを通過。すぐさまUターンし、ヒルクライムへと突入した。ダウンヒルで抜けたあのコーナーを、今度は逆の順番で登っていく。
ゴール地点に到着すると、クルマを止めて休憩。しばらくの間、黙って考え込んでいた。金曜日のレースのことを。
「勝ちたい――でも、それだけじゃ足りない。あいつの“魂”を、走りで揺らしたい」
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
「16歳。経験も浅い。ただそれだけで侮られるなら、走りでひっくり返すまでだ。――絶対に、負けない。」
心の中で誓いを立てる。自分のため、そして何よりサクラに勝つために。
10分後、休憩を終え、再びエンジンをかける。次のラップが待っている。
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