蓮城さんちの兄と弟

桐山アリヲ

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蓮城さんちの兄

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 リビングへ戻ると、壁の時計は5時を指していた。曇り空のせいで、室内はすでに薄暗い。

 ちょっと早いけど、電気つけるか……。
 
 その前にカーテンを閉めておこうと、庭に面した掃き出し窓へ近づいたとき、かすかな雨音が聞こえた。
 芝生を横切る敷石が、みるみる黒く濡れそぼっていく。
 
 大丈夫かな、司馬のやつ。

 どんどん強くなる雨脚を前に、手ぶらで来ていた司馬の姿が頭をよぎる。一瞬、傘を持って追いかけようかと考え、すぐに思い直した。
 相手は司馬だ。おれなんかがヘタに追いかけるより、自力で駅まで走った方がよほど速いに決まってる。
  
 気持ちを切り替え、勢いよくカーテンを閉めたちょうどそのとき。

 ガタガタッ……。

 玄関の方から大きな物音が聞こえた。間を置かず、荒々しい足音が近づいてきたかと思うと、リビングのドアが乱暴に開く。
 
 「お帰り……」

 現れたナツのただならない様子に、おれは、続く言葉を飲みこんだ。
 短い髪が、濡れていた。毛先を伝って滴る雫が、陸上部でそろえた濃紺のチームジャージに点々と吸いこまれていく。そしてなにより、まっすぐおれを捉える視線──カーテンを閉め切った薄闇の中でも、触れたら切れそうなほど張り詰めているのがはっきりわかった。
 傘を持って出たはずなのに どうしてびしょ濡れなんだとか、練習でなにかあったのかとか……訊くべきことはいくらでもあるはずなのに、ひとことも出てこない。

 無言のうちに固まっていると、突然、部屋の空気が大きく動いた。
 スポーツバッグを無造作に投げ降ろしたナツが、大股で歩み寄る。その勢いのまま、おれの体をさらうように抱きすくめた。

 「……っ」

 息が止まるほど、強い力だった。
 混乱して言葉を失うおれの鼓膜に、低くこわばったナツの声が突き刺ささる。
 
 「なにしてたんだよ、ふたりっきりで」

 「……なんの話?」

 「来たんだろ、司馬さん。さっき、そこで会った」

 「あぁ……」

 なるほど。ようやく話が見えたのも束の間、嫌な予感をおぼえる。

 「あいつ、なにかいってた?」

 「『ごちそうさま』って、ひとことだけ」

 思わず舌打ちしたくなった。確信犯としか思えない。

 あのヤロー、煽るなっていったのに……。

 司馬への罵詈雑言を腹に収めてから、努めておだやかに口をひらいた。

 「おかしな意味はないよ。残りの肉まん、司馬に全部食べさせたんだ。ごちそうさまは、そのお礼だろ」

 「ほんとに、それだけ?」

 「ほんとだって。おれが司馬とどうなるっていうんだ」

 「……よかった……」

 つぶやきは、吐息みたいに耳をかすめた。

 ホッとした様子は伝わってくるのに、おれを抱く腕の力は、あいかわらず強いままだ。

 「もういいだろ。髪、拭かないと風邪ひくぞ」

 「……」

 「離せよ。タオル取ってくるから」

 「嫌だ」

 「ナツ……」

 「ごめん。オレ、シュウを困らせてばっかだよな」

 ハッとした。喉の奥から絞り出すような声だった。

 「シュウみたいに、うまくやれなくてごめん」

 「……やめろよ」

 「尻ぬぐいばっかさせてごめん」

 「ナツ」

 「好きになって、ごめん」

 おれを抱きしめるナツの腕の力が、さらに強くなる。まるで、溺れかけた人間が必死でしがみつくみたいに。 
 
 「オレ、もうシュウの弟じゃいられないんだ。がんばってみたけど、だめだった。シュウの望むようには生きられない。ごめん……こんなの、気持ち悪いよな」

 胸の中で、なにかがプツリと途切れた気がした。
 途切れて穴の開いたところから、長いあいだギリギリのところで堰き止められていたものが、勢いよくあふれ出してくる。それは、理性とか意思の力をはるかに超えた、暴力的なまでに激しい奔流だった。
 
 「謝らなきゃならないのは、おれの方だよ」

 口を突いて出た声は、少しかすれていた。

 「おれが、いわせなかったんだよな。いままでずっと、おまえひとりに背負わせたまま、逃げてた。ほんとにごめん」

 耳元で、小さな吐息が聞こえた。少しだけ、空気のゆるむ気配がする。

 「……久しぶりだな、シュウにこんなことすんの。バスケやってたときは、あたりまえにハグしてたのにな」

 部屋に響く雨音のすきまを縫って、苦笑のにじむつぶやきが耳に届いた。

 「いま思うと信じらんねぇよ。あの頃、なんでふつうにこんなことができてたんだろ……どんな気持ちでシュウに触ってたのか……もう思い出せねぇわ」

 ひとりごとみたいに紡がれる、途切れ途切れの言葉。そこから引き出されるように、ある光景が頭に浮かんだ。
 病院のベッドに横たわるナツの青ざめた顔。いまでも時おり思い出しては身体がすくむ、トラウマに近い記憶。
 
 「おれはよくおぼえてるよ。最後におまえをときのこと。おまえは3日も眠ったままで、このまま目覚めないんじゃないかって、怖くてたまらなくて……何度もこうやって、ナツの心臓の音、聴いてた」
 
 おれは顔を横に向け、右耳をナツの鎖骨のあたりに押し当てた。
 密着した身体から、力強いナツの鼓動がダイレクトに伝わってくる。

 「あのとき、はっきり自覚したんだ。おれにとって、ナツがどれだけ特別なのかって。家族とか弟とか、そんな言葉じゃ収まりきれない。おまえを失うってことは、自分を半分失うのと同じなんだって、あのとき初めて気づいた」

 当時より厚みを増した身体が、おれを抱えこんだまま、びくりと身じろぎする。

 「シュウ……それって、どういう……」

 「好きなんだよ、おれも。どうしようもなく、おまえが好きだ」

 ナツが、慌てたように体を離して、おれの顔をのぞきこもうとする。
 おれは、ナツの背中に腕を回して、全力でそれを阻止した。

 「見るなよ。おれも大概キモいこといってるだろ」

 「シュウ!」

 「頼むから。そのまま聞いて」

 おれの必死の抵抗を感じ取ったのか、ナツの体から力が抜ける。
 それでもまだ、おれを離すつもりはないらしい。
 大きく息を吐き出してから、おれは続けた。
 
 「ナツがおれに、そういう意味で好意を持ってくれてることには、ずっと前から気づいてた。うれしかったよ。さっさと打ち明けて楽になりたいって、何度も思った。でも、気持ちを確かめ合ったところで、おれたちにどんな未来がある?」

 これまで何度も胸のうちで繰り返してきた問い。いざ声に出してみると、その絶望的な響きに、改めて打ちのめされる。

 「もしも家族が知ったら、ショックなんてもんじゃないだろうな。それでも、冬馬さんと楓さんなら頭ごなしに否定するようなことはないと思うよ。でも、だからこそ、よけい苦しめることになる。さんざん悩んだ末に理解して受け入れてくれたとしても、感情的なわだかまりが残るのは、どうしたって避けられない。いままでみたいに居心地がいいだけの関係じゃいられなくなるんだ。口うるさい親戚連中の目をかわすことまで考えたら、それこそ気が遠くなるよ。ようやく平穏な暮らしを手に入れたあのふたりに、そんな苦労を強いるのか?」

 胸のうちをやんわり小出しにするつもりが、あふれてくるのは剥き出しの言葉ばかりだ。
 いよいよ濃度を増してきた暗闇のせいかもしれないし、互いの顔が見えないことで、本音を晒しやすくなっているのかもしれない。

 「ナツのことだってそうだよ。いまでさえ十分注目されてるのに、これから競技で結果を出していけば、周囲の目はいま以上に集まってくる。そんなときにリスクを抱えこむなんて、正気の沙汰じゃない」

 「リスクって……」

 「そうだろ、実際。兄貴と恋愛してますなんて、堂々といえるか?バレたらどんな騒ぎになるか、おまえだって想像つくだろ」

 「……」

 「だれにもいえない関係なんて、リスクでしかないんだ。そんなものを、おまえに背負わせるわけにはいかない。出口のないような場所に留まってほしくない。おれは……おまえの重荷になりたくないんだ」

 世界で一番大切なひとに愛していると伝え、一緒にいるために手を取り合う。多くのひとにとってあたりまえに思える行為が、どうしてこんなにむづかしいんだろう。おれはどうして、こんなに後ろ向きな言葉ばかりを並べなきゃならないんだろう。好きなのに。ただそれだけなのに。



 

 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 
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