蓮城さんちの兄と弟

桐山アリヲ

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蓮城さんちの兄

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 「いいたいことは、それだけ?」

 重苦しい空気を断ち切るように、ナツの声がした。

 「じゃあ、次はオレの番な。今日の練習、本番を想定して100メートルのタイムトライアルやったんだけどさ。結果、どうだったと思う?」

 おれは、とっさに返せなかった。想定外の話題にとまどったというのもあるけれど、スランプに苦しむナツの姿を知っているぶん、うかつなことはいえない。

 でも、あえて予想させるってことは……。
 
 「よかった、のか?」

 「追い風1.3mで、一回目が10秒26、二回目が10秒29」

 「え……」

 「もちろん公式記録じゃないけど、悪くないだろ」

 悪くないどころか、場合によっては日本選手権で優勝を争えるくらいの、とんでもなく速いタイムだ。好調なときの司馬ですら凌ぐかもしれない。
 とっさに腕を突っ張って体を離し、ナツを見あげた。
 晴れやかなまなざしにぶつかった途端、爆発しそうな興奮と喜びが、喉の奥からせりあがってくる。

 「やったな、ナツ!おまえ、ほんとにすごいよ」

 そんなおれとは対照的に、落ち着いた様子のナツは、

 「顔、やっと見せてくれたな」

 と、やわらかく口角をあげた。

 「自分でも、すげーと思うよ。調子が戻ったっていうより、むしろ前より走れてる実感がある。身体の状態も万全だ。だからさ、もう大丈夫だよ。オレは戦える。それを、真っ先に伝えたかった」

 言葉を切ると、まっすぐおれに視線を合わせ、それからいった。

 「オレ、司馬さんに勝つよ。勝って全国に行く。その先も、勝って勝って勝ちまくって、いつか必ず、日本一のスプリンターになってみせる。だれにも文句をいわせないくらい、強くなるから……だからさ、シュウ、オレの隣にいてくれないか。いちばん近くで見守ってほしいんだ」

 なんだよ、それ。まるでプロポーズじゃないか……。

 どうしていいかわからなくなって、おれはとっさに視線を落とした。

 「ナツ……さっきのおれの話、ちゃんと聞いてた?」

 「聞いてたよ。正直ちょっとムカついてる。やっぱりシュウは、オレのこと舐めてんだなって」

 「そんなわけ──」

 「ないっていうなら、なんで勝手に決めつけるんだよ。シュウって、昔っからそういうとこあるよな。たしかにオレは要領悪くて不器用だし、家族に心配かけてる自覚はあるよ。シュウに頼りないと思われても仕方ない。けど、オレがなにを背負うかなんて、オレ自身が決めることだろ」

 ハッとした。心臓を、素手で掴まれたような気がした。

 「シュウは重荷だっていうけど、オレはそうは思わない。オレが安心して競技に打ちこめるのは、シュウがいてくれるからだ。シュウがいれば怖いものなんてないし、自分の限界を超えた先の、もっと先まで飛んでいける。そんなふうに思える相手が、他にいるかよ。いまさら手放す気なんて、オレには1ミリだってないからな」

 「……いいのか、それで。おれは、楓さんたちに話すつもりはないよ。言葉は悪いけど、あのふたりを欺くことになる。おまえはそれに耐えられるのか?」

 「できるだろ、ふたりでなら」

 きっぱりした、ナツの応え。
 「ふたりで」──なにげなく放たれたその言葉が、鮮やかに、おれの胸を打つ。

 「もちろん、全然平気っていったら嘘になる。だけど、いまはまだそのタイミングじゃないっていうシュウの判断もわかるからさ」

 「うん……」

 「いつかいえるときが来たら、ふたりで話そう。それまでは、オレがシュウの最強の共犯者になるよ。だからもう、ひとりで抱えこまないでほしい。面倒くさい現実も後ろめたさも、ぜんぶ一緒に背負わせてくれ」

 おれの知っているナツは、こんなにも頼もしかっただろうか。見えない鎖で何重にも縛られていた心が、一気に解き放たれていく。
 
 「共犯になるっていうなら」

 喉の奥からこみあげてくる熱い塊を意識しながら、おれはいった。

 「お互い、隠しごとは無しだ。これからは、どんなことでもふたりで話そう」
 
 視界は、すでにぼやけはじめていた。

 「泣くなよ……」
 
 困ったようにつぶやいたナツが、指先で、おれの目元をやさしく拭ってくれる。

 「シュウにそんな顔されたら、どうしていいかわかんねえって」

 「なにもしなくていいから。だから──」

 ──もう少しだけ、このままで……。

 おれは、ナツの肩に額を預けた。今度は、ためらいなく自分の意志で。 
 
 ナツの力強い腕が、応えるように、おれの肩をしっかりと抱き寄せる。同じ行為なのに、さっきとは比べものにならないくらい、しっくりくるのが不思議だ。
 ナツに想いを告げること。ナツからの想いを受け取って、同じ強度でつながり合うこと。どちらも、手に入らない望みとあきらめていた。手を伸ばすことすら許されないと思いこんでいたのに──それがいま、たしかな輪郭と手触りを持った現実になろうとしている。こんな幸せが、他にあるだろうか。
 おれたちを包みこむリアルは一筋縄じゃいかなくて、のんきに浮かれてばかりもいられない。それは十分わかっている。でも、せめていまだけは、この温もりに全身で浸っていたかった。

 しばらくそうしていると、

 グゥ……。

 雨音にまぎれて、ひどく切なげな音がした。

 「げ……なんでこのタイミング……」

 情けない声をあげ、ナツが胃のあたりに片手を当てる。
 おれは、思わず吹き出した。つられたように、ナツも小さく肩を揺らす。

 丸一日、ハードに練習してきたんだもんな……。

 体を離して一歩後ろへ下がると、おれは、ナツの濡れた髪を見あげていった。
 
 「なにか作っておくから、その間にシャワーしてきな。これ以上そのままにしてると、体、冷えるぞ」

 「切り替え早過ぎだろ。まぁ、いかにもシュウって感じで、オレは好きだけどな」

 名残り惜しそうな表情の中に、かすかな苦笑をにじませたナツは、そういうと、大股でリビングを横切って行った。
 
 

 

 
 

 


  
 
 

 
 

 
 
 
 
 
 

  
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