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6章【王弟と侍従】
24.覚悟を決めた
しおりを挟む「こんなに待たせるとは何事だ!お前如きが恥を知れ!ユークリッド・ロズウェル!」
顔を真っ赤にして激昂する成年は、ユークリッドと同じミルクティー色の髪と緑色の瞳をしている。
建物の中は騒がしく、立ち入るなり噎せ返るような香水とタバコの匂いが充満していて表情を変えないように気を付けるだけでも苦労をする。
休暇の日にヴィルヘルムと街を歩いた時に、「あそこは賭け事だの酒だのに夢中になった…あー…しょうもねえ貴族の子息達の溜まり場だ。ユークは近付くんじゃねえぞ」と言われた場所。
まさか来る事になるとはユークリッドは一切思っていなかった。
子爵家からの呼び出しで、しかも貴族向けのカジノを指定された時点で、もしかしたら…と思っていた想像通りの人物が待ち構えていた。
「……大変申し訳ありません。オーグストお兄様。」
ロズウェル家の次男、オーグスト・ロズウェルだ。
背筋を伸ばし、丁寧に挨拶をするも舌打ちで返された。
ユークリッドは頭を下げたままの姿勢で待機していると、カツカツと大きな足音で近付いてきた後にユークリッドの後頭部の髪を鷲掴みして引っ張り上げてきた。
「ッ──」
「お前、なに勝手に子爵家抜けてんだよ。何度手紙を出しても無視をするって父様が嘆いてたが、ここまで恩知らずとはな!」
「ッおやめ、下さい…」
「俺に命令すんのかよ!ユークリッド・ロズウェル!!」
髪を掴んだまま、勢いよく放り投げられユークリッドは全身を硬い板で出来た床に叩き付けられた。
──子爵家三男として生きてきたユークリッドの記憶が心を縮み上がらせる。それでも、ちゃんと決別せねばと必死に自分を奮い立たせた。
ゆっくりと立ち上がり、自分より身体の大きい兄としっかり向き合う。
大丈夫、ヴィルヘルムと比べたら兄だって随分と小さい。そう自分に言い聞かせて。
「除籍願は不備なく城に提出されました。陛下により即座に承認され、私ではどうする事も出来なかったんです。」
「ハッ!その割に速攻で養子に入ったと聞いたぞ!どう誑かしたかは知らねーけど、お前のせいで父上に俺が叱られたんだ!」
「どういう…」
────パシン。
ユークリッドが言い終わる前に、聞き慣れた音にビクリと肩が跳ねる。
「ユークリッド・ロズウェル様はまだ教育が終わっていなかったのです。未熟なままでは何が大切か、何が子爵家の為になるのか理解出来ません。」
幼少期からずっと、常に近くで聞かされた声がねっとりと耳にまとわりついた。
扇を手に打ち付ける。ただそれだけの音なのに、折檻に怯えていたユークリッドの身体は硬直してしまう。
──パシン。
「愚かにも当主様の手紙まで無視をする始末…再教育の為に一度連れ戻すには大きな衝撃を与えるのが有効だと。坊っちゃまはそう、当主様に進言されたのです。
…それがまさか、ここまで愚かだとは。わたくしは教師として大変恥ずかしい思いをしました。」
パシン。
オーグストの後ろから、ゆったりと歩いてくる人物は
この場に似つかわしくない、襟詰めのドレスを身に纏い、髪をきっちり結い上げた女性だ。
扇を手に打ち付けながらゆっくりと近付き、兄の隣で止まった。
──かつてのユークリッドの教師、コーネリア女史が、真っ赤な唇を吊り上げて優雅に笑っていた。
「貴女が、そう仕向けたのでしょう?」
真っ直ぐに二人へと身体を向ける。それが気に障ったらしい兄が再び手を出そうとするが、女教師の扇がそれを静止した。
「…ユークリッド・ロズウェル様。成人して独り立ちをしたからと、気を大きくしてはなりません。その様な振る舞いはロズウェル家の恥となりますよ。」
「私はもう、ロズウェル家の人間ではありません。」
「あの除籍願は、間違いだったと言っても?」
「は?」
ユークリッドの動揺を見逃さず、兄と女教師は威圧するように目を見開き、口角を上げた。
「何者かが“勝手に“提出したんだよ。当主の印を盗み出して。」
「えぇ。当主様はその事に大変御立腹されており、犯人を特定。その間、勝手に出されたという書類に不服申し立てを行うとか…」
「そんな、そんな無茶な事…」
実際、無茶苦茶だ。
当主印が盗まれたなんて大問題だし、大罪だ。どんなに地位の高い人間でも犯人だと発覚すれば命に替えて罪を償わなければならなく…
ハッとして、ユークリッドは二人を交互に見た。まさか、そこまでの事をする筈がないと思っていた。仮にも血の繋がった家族に。
───でも、願いにも近いその思いはすぐに砕かれる事となる。
「ユークリッド・ロズウェル、お前が子爵家から放逐される前に当主印を盗み出し、作成した書類を協力者が送ったようだな?」
「そんな、してません!私は何も!だって、本館には立ち入るなって…」
無茶なでっち上げに首を振って必死に否定する。離れで暮らしていたユークリッドが本館に入った事なんて生まれてから数える程しかない。当主印のある部屋なんて、近付いたこともない。
「不出来で愛されなかった腹いせに、当主様の関心を引こうとしていたのですね。手紙を書いても無視をして、当主様は大変悲しんでおられました。」
嘘だ。父が悲しむなんて有り得ない。
二人が言っていることは何から何まで嘘だとユークリッドは確信しているのに、子爵家で起きた事を否定する事の難しさを理解して唇を噛んだ。
ユークリッドの記憶で、ユークリッドを愛してくれた人なんて誰一人として居なかった。…いくらでも、真実なんて作れるんだ。
女教師が一歩、前に出た。にっこりと慈愛の籠った目線でユークリッドに手を差し伸べる。
「ユークリッド・ロズウェル様、さぁ、今なら大丈夫です。当主様に謝りに帰りましょう?わたくしコーネリアも一緒に謝って差し上げますわ」
「謝る事、なん、て…」
また一歩、距離を縮められた。手を伸ばせば容易に触れられる距離感に不快感を感じて後ろに下がろうとしたユークリッドの足は、そっと持ち上げられた扇を見て硬直する。
──硬直したユークリッドの口元にピタリと扇が当てられた。
ユークリッドの記憶を刺激するその扇に幼い頃から植え付けられた恐怖心が呼び起こされ、ドクン、ドクンと心臓が暴れだす。
店内の喧騒で掻き消える声量で、女は続けた。
「──当主様に謝って、約束をするのです。絶対的な服従を。…フフッ。侯爵家ですもの、地位も、財産も、ございますわね?
大丈夫ですわ。貴方は誠意を見せて頂ければいいの。」
逆らえば、当主印を盗んで悪用した罪をでっち上げられ、ユークリッドは罰せられる。
従えば、ユークリッドに手を差し伸べてくれたクリストファー…レヴァン侯爵家から継続して金銭を毟り取るために傀儡として利用される。
「当主印を盗んだという経歴は、子爵家の中で内緒にしておきましょう?」
(────駄目だ。)
きっと、前世の記憶が戻る前だったら。
ユークリッドはこの女に従い、ロズウェル家に一生搾取され続けながら生きただろう。
ユークリッドの頭は冷えて、ひとつの答えが浮かんでいた。
顔に当たる不快な扇を握り締め、完璧に支配してきたと自惚れる目の前の相手を見据える。
まさかの反応に相手も目を見開いて驚いているが、ユークリッドにはどうでもいい。
「私が居なくなったから、立場が悪くなったんですね。オーグストお兄様。…いいえ、兄ではもうありません。」
現実と向き合うのは、怖い事だ。勇気のいることだ。
でも、逃げてばかりではいけないから。
ユークリッドは真っ直ぐに突き付ける。
「今は他人のオーグスト様。人に寄生しなければ生きる事もままならない、ただのコーネリアさん。
他人の力を振り回して得られる永遠の支配なんて、どこにもありませんよ。」
「なッ……なんて下品な!」
「ユークリッド・ロズウェル!!」
二人分の怒りを真正面から受けるのは、やはりキツいな…でも───震えるな。そう自分に言い聞かせて拳を強く握り締める。
子爵家当主でも、後継でもないオーグストに、子爵家の子息以上の力なんて無い。ましてやただの教師など。だから怖がる必要はない。
「お前、誰に向かって勝手に口を…」
怒りに震えるオーグストを真っ直ぐに見て、ユークリッドは笑った。嘲笑が伝わるように。
「ロズウェル家には共通の敵を作らなければ生きていけない連中しか居ませんからね。
私の教師役という立場を失ったコーネリア女史と現状のロズウェル家で最も地位の低いオーグスト。…なるほど、そこが手を組むのは納得でした。」
「いい加減にしろ!!ユークリッド・ロズウェル!」
オーグストの怒号に店内が静まり返る。
──いい加減にするのはお前だ。
そう思ったが、殴られるだろうとユークリッドは言い返す事はせず、ただ歯を食いしばった。
殴られるのは初めてじゃない。この国で一番偉い人に殴られた事があるんだ。痛み以上の憎しみなんて、誰よりも知っている。
(いくらでも殴ったらいい。どうせ俺は、今世も───)
今世も、生きることを諦めるんだ。
覚悟は決めたのに、前回と違って悲しさが強くなる。
また、アレクシスを悲しませてしまう。二度も神子を失ったと、絶望してしまうかもしれない。
ほんの少し迷いそうになって、振り切る。優しくしてくれたレヴァン侯爵家にも、誰にも迷惑かけたくないから。
体も弱いし振りかざせる権力も、何も持たないユークリッドにはこれくらいしか抵抗する力がない。だから。
(俺がちゃんと、始末つけないと…)
───カツン。
静寂に包まれた店内で響く靴音。
覚悟を決めたユークリッドの肩を、誰かが背後から掴み、引っ張った。
予想外のタイミングでバランスを崩したユークリッドは勢いよく後ろに倒れる、と思ったが…そのまま誰かに抱き締められて止まった。
何故だか、背中にあたる胸が、前に回された腕が誰のものなのかユークリッドにはすぐ分かった。
「──負けん気が強いのは結構だけど、ユークが傷付くのは容認出来ないよ。」
ユークリッドには、抱き締める腕が誰のものか振り向かなくても分かる。声を聞いて、やっぱりだ、と安堵してしまう。
──命を投げ捨てようと決めた覚悟が、初めて揺らいだ。
「…なんで、来てんの。石投げられたばっかりのくせに」
震える声で憎まれ口をきくユークリッドに、アレクシスは小さく笑って、キュッと抱き締める腕に力を入れた。
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