機(はた)に咲く ~天保の京の町に、雪華よ舞え!

冬樹 まさ

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 春の長雨はしめやかに降り続き、梅花は散り果てた。樹々の梢では次々と若葉が芽吹き、桜樹では蕾が日毎に膨らんでいる。夜明け前に雨が上がれば払暁の薄藍の空の下、暖かな風が吹き渡っていた。
 朝飯を終えるとすぐに店先に飛び出した半次郎は、丁稚らに混じって箒や塵取りを手に掃除を始める。明るみだした空を、雲雀が朗らかに囀って飛び去った。

〽梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風しだい 
 山ぶきや浮気で いろばっかり しよんがいな

若旦那わかだんさん、端唄なんか唄うて朝からご機嫌ですな」

 眠たそうにあくびしながら、丁稚たちは箒を動かしている。

「久しぶり空が晴れたら、なんや心も晴れるやないか。お、野良猫や、可哀そうに腹を空かしとるんか? ほな、今日だけ、今日だけは裏に回って餌をねだってもいいわ、わてが許したる」

 毛艶の悪い茶虎の猫が、脛に擦り寄ってきていた。店先から路地の方へと箒で誘ってみる。

「若旦那さん、ちょっといけませんて、猫は追っ払わなあかん。あっ、もっとあかん奴が来てますけど……」

「なんや五市どん、情ない声だして、野良犬でも来たんか?」

 丁稚に袂を引っ張られて振り返った半次郎は凍りついた。
 元中間頭という妖鬼じみたあの男が、足を引き摺りながら道をこちらへと向かってくる。

「せっかくのいい天気やのに、開店前から験の悪いことや。ああ、丹波屋の長助を呼んでこよか、もう間に合わんか」

 半次郎は背後の丹波屋の方角を見渡すが、行って長助を連れてくる間はない。通りではお店の使用人らがちらほら出入りしているだけだ。さして騒ぎにならないうちに己で追い払ってみるかと、腰を据えた。

「どうもお久しぶりですな、よいお日和でございます。今朝は何用ですのや?」 

 こちらから胸を張って声をかけた。
 近づいてきた男は一段と痩せて肌はしなびた革袋のよう、目ばかりぎらぎらと耀かせている。

「なんだって今日は威勢がいいんだな、用はなにか、見当はついてるだろうが!」

 懐手をして凄むが、以前ほどの殺気は感じられない。

「うちの店もこのところ商売あがったりで、いくらも用意できませんのや、すんまへんな」

 冷や汗が脇に滲んできた。

「ふうっ、あんたみたい苦労知らずの若旦那が、あっしは虫唾が走るくらい嫌いなんだっ」

 口から生臭い息を吐きながら、男は懐に入れた右手をまさぐる。鎖鎌が出てきたらすぐに避けられるよう、半次郎は身構えた。
 しばし二人は睨み合う。
 目を吊り上げた男は次第に息遣いを荒くして、ついには項垂れて咳込んだ。

「げほっげほっ、まだ絞り取ってやるつもりだったんだがな、げほっ、今朝は、頼みがあって来たんでさあ……」

 男は咳が鎮まると顔をあげた。

「噂で聞きつけたんですがね、あんた、戯作本好きで知られてるんだってな。本に詳しいんだったら、ある本を高く売って欲しいだがね」

 半次郎は訳がわからず首を傾げる。

「わてはこのところうちの店の商いに勤しんでましてな、戯作本を開いて読む暇もないんですわ。お前さんが店に嫌がらせを二度とせんと誓うんやったら、そのお頼み、聞かんでもないですけど。本屋にはまだ顔が利きますよってな。薬代になるくらいの本ですやろうか」

 男はひどく神妙に何度も肯いてみせた。

「薬はいらんようになったんでさあ……、あっしは労咳病みなもんでね、先はもう長くない。それでこの本『雪華図説』ですがね、京都所司代屋敷で中間頭をしていた時に三冊、手に入れやした。あっしは読み書きが苦手でなにが書いてあるか、詳しくはわからねえんだが、旦那、この画を見なせえ」
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