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【人物】
瓜生 和泉(うりゅう いずみ)
小崎 晴雨(おざき せいう)
小崎 早依(おざき さよ)
キナコ
-----
▽1
「あ」
ゴミ箱の一番上に、捨てられた文庫本を見つけた。
埃を払い、カバンの中に仕舞った。
綺麗に巻いた茶髪、ふわふわとした白のスカート。淡い色のコートを羽織って、夕方の駅に立つ。
帰り道のビジネスマン、そのスーツやネクタイを見る。そこそこのスーツを着崩している、そして薬指に指輪がない男を見つけ、携帯電話を片手に近寄った。
「すみません────」
にっこりと笑いながら男を見上げ、手元の携帯電話に映る地図を見せる。平凡な男の目が、瞠られるのが見えた。
「この辺、詳しくなくって。行きたいカフェがあるんですけど、道を教えていただけませんか……?」
「ああ。はい……」
断られなければ、こちらのものだ。男の腕に擦り寄り、携帯の画面を見せる。柔らかさのある身体を押し付けつつ、行きたくもないカフェの道筋を詳しく尋ねた。
あえて、分からない振りをする。だらだらと話を引き延ばし、こう男に言わせるのだ。
「じゃあ、案内しますよ」
心の中でにたりと嘲笑って、胸の前で手を合わせる。ぱあっと唇を持ち上げ、本当に嬉しい、というように目を細めた。
「ありがとうございます……! 本当に困ってて────」
ぺこぺこと大げさに礼を言い、物慣れない風を装う。
男が案内のために歩き出すと、不自然なほど近く、隣を歩く。見下ろしてくる視線を受け止めては首を傾げ、ふふ、と表情をつくった。
ビジネス街にある駅を出て、表の通りを歩く。
指定していた店はもう閉店している。それはそうだ。この街に働く人向けの店ならば、ランチと午後の短い時間だけの営業で事足りる。
世間話を交わしつつ、案内された店へと辿り着く。『CLOSE』の看板を見て、大げさなほど落胆してみせた。
「ごめんなさい……! 営業時間を調べてなくて」
男は怒りもせずに、慰めの言葉を放つ。聞き慣れた言葉を受け止めて、本当に申し訳なさそうにしてみせた。
あ、じゃあ。思いついたようにまた手を合わせ、相手を見上げる。
「お詫びに……来る途中にあった店でなにかご馳走したいんですが、お時間いかがですか?」
夕食には早い時間なので軽いものでも、と言い足すと、男は易々と承諾した。やった、と感情に任せて男の腕に触れたように装う。
では、と予め目星を付けておいたチェーン店に案内する。長居しても問題なく、軽い食事がある程度揃っている店だ。軽めの食事と飲み物を頼み、他愛のない会話を交わす。
ふと、思い出したかのようにカバンを開く。大きめの書類が入るように作られているその中から、クリアファイルに挟まれた書類を取りだした。
「実は、この近くには仕事でお邪魔したんです。自社で不動産を扱っていて────」
近辺の不動産の資料を、折角なので、とクリアファイルに綴じて手渡す。
市場価格と比べると、割高な物件らしい。彼が不動産屋に連絡を入れ、購入に至れば俺にマージンが入る。
彼は書かれた電話番号が、俺に繋がると思っているかもしれない。実際は、もうここでお役御免だ。電話が俺に取り次がれることはない。
「長々とありがとうございました」
それからの話は、お忙しいですよね、と簡潔に切り上げる。餌を撒き終えて、もうこの男と話す必要もない。
切り上げる空気になり、財布から代金を支払おうとすると、男が先に伝票を取った。席を立って支払いにいく男に、そんなつもりは、と焦ってみせる。
男が料金を支払い終えると、大袈裟に礼を言った。
駅に戻ろうとする男に対し、こっちなので、と逆方向を指す。ありがとうございました、とぺこぺことお辞儀をして、美味しかったです、と言い添える。
男が駅に向かっていく背中を慎重に見送って、はあ、と息を吐いて踵を返した。
「疲れた……」
別の駅まで歩き、自宅に向かう電車に乗り込む。
イライラしながら人の波に揉まれ、繁華街近くにある駅で降りると、明るい道を通って自宅へと向かう。カツン、カツン、とパンプスの底を鳴らしながら金属の階段を上り、木造アパートにある自室の扉を開けた。
ぱちん、と黄ばんだスイッチを押すと、狭い室内が浮かび上がった。どかどかと褪せた床を踏みならしながら部屋に入り、女性物の服を脱ぐ。
いくつか電球が切れて薄暗い部屋の中に、数年前は美女と持て囃された女がひとり。鏡の前に立つと、変化を解いた。
肩に付かない程度に伸びて跳ねた茶髪と薄い色の瞳。三十を過ぎたばかりの、うだつが上がらない男の姿がそこにはあった。
鏡のある洗面台に近づき、瞼の上に手を当てる。端を転がし、ぺりぺりと二重まぶたを目立たせるための接着剤を外した。くっきりとした二重が細まると、つり目がちな印象が強くなる。
メイク落としを顔にぶちまけ、似合わない仮面を外した。
うっすらと覚えている記憶によると、先祖は狐に魂を分け与えられた存在らしい。
人と狐。両方の姿を取ることができる俺達は、加えて人の姿をいくつか持つことができた。仕事に使っている女性の姿もそうだ。
腰に食い込んだ女性物の下着を脱ぎ落とし、伸びたボクサーパンツを履く。ジャージの上下を身につけると、顔色が悪く、年齢よりも更に上に見えた。
「腹いっぱいだ。助かった……」
あの男が不動産を買ってくれればいいが、最近では飯を奢られるだけでも御の字だ。若く見えない初対面の女に対し、気前よく奢ってくれない相手に当たる確率も上がってきた。
下手すると、俺の歳でも水商売なら雇い止めになる。加齢が反映されつつある女性としての姿は、顔で食っていくのに厳しさを増している。
端に寄せていた布団を広げ、ごろん、と横になる。
「この仕事、もうやだなぁ」
いくら不動産会社に繋ぐだけ、犯罪ではない、といっても。俺にマージンを払っても利益が出るような物件を売りつけ、客にローンを組ませるこの仕事は嫌いだ。だが、水商売で男に触れることはもっと嫌いだ。
遵法意識が吹っ飛んだのは、金がなくなってからだろうか。
好奇心に負けて、大抵のギャンブルには手を出した。若い女性に化けられていた頃はまだ実入りが良かったが、つまらなくなったギャンブルを乗り換えていく内に金も若さも消えていった。
大きな借金をした時、一時的な補填と引き換えに実家からは縁を切られた。稼いでも実家への返済に金が減り、どんどん仕事が黒く近づいていく。
最初は駄目だと思っていた良心も、繰り返す内に塗り潰されていく。
「……まぁいいや。今日は、本が拾えた」
カバンの中から取り出した本は、『人間失格』とタイトルが付けられていた。表紙に貼られていた古本屋の値札を、丁寧に剥がす。
このタイトルだけは知っている。中身は読んだことがない。わくわくと端が黄ばんだページを捲った。
財布の中には金がない。通帳の残額は零だ。実家への返済も待ってもらっているし、公共料金だって家賃だって、何ヶ月前から滞納していることだろう。
けれど、ページを捲る間だけは、それらを全て忘れた。
溜まっていた家賃を理由に家を出ることになったのは、数ヶ月後のことだ。
どうやって金を作ろうとしても、タイミングが合わずに現金にならなかった。残っていた家電家具を売り払い、手荷物だけを背負って家を出る。
一週間ほどなら、ネットカフェでも過ごせるだろう。できるだけ屋外で過ごし、仮眠を取りたい時間だけネットカフェに入った。漫画が大量にあるのが有り難く、時間いっぱいまで読みふける。数百円で過ごす時間が、最大限の贅沢に思えた。
その日は、シャワーばかりの日々の中、何となく風呂に入りたくなった。
残金を数え直し、何度か記帳をしに行ったが、銀行口座の数字は変わらない。風呂を諦めようかと悩んだが、途中で何もかもがどうでも良くなった。
「まあ、いいか」
金が無くなったら無くなったなりに、自分はその境遇に順応して生きていくだろう。
リュックひとつの荷物を背負って、近くで一番安い銭湯へと歩き出した。
銭湯までの道は、古くとも手入れされた日本家屋が並んでいる。銭湯も古かったな、とパソコンのモニタに映った景色を思い出しながら、道を歩く。途中で面白くなって、あちこち寄り道をした。
昔ながらの駄菓子屋を見つけた時には心躍った。手持ちの金はないはずなのに、単価の低い駄菓子屋なら何か買っても許される気がした。
「こんにちは」
ごちゃごちゃして小さな店に、身を屈めながら入る。ただ、狭い店内にこれだけ品数が多い割には、手入れが行き届いていて埃はなかった。
「はいはい。いらっしゃいませ」
店主らしき女性が店に出てくる。
身なりはきちんとしていて、丁寧に洗濯された割烹着が似合っていた。頭には白いものが混じり、パーマを当てている。
待たせているのも申し訳なく、ビニールに飲み物が詰まった菓子を手に取った。その隣の煎餅も。合わせても缶ジュース一本も買えないだけの硬貨を、申し訳なく思いながら支払う。
店を出ると、ぱらぱらと雨が降っていた。晴天だったはず、と空を見つめるが、相変わらず見慣れた水色だ。
「天気雨か」
突っ切っていくにも雨量が多い。急ぐ理由もない。仕方なく、軒下に設けられたベンチに座った。
ビニール袋を開け、パッケージの先端を口に含む。歯を立てると、やけに甘ったるい味わいが喉に絡み付いた。
毛ばたきを持った店主が、俺を追うように外に出てきた。雨が降っている様子を見て、嬉しげに目を細める。
そうして、俺に視線を向けた。
「お兄さん、どこからいらっしゃったの?」
「以前は『──』の辺りに住んでいて、今は……友人の家を転々としています」
はは、と笑って誤魔化す。ネットカフェで最低限の時間だけ寝ています、とは流石に言えなかった。
店主は頬に手を当てると、眉を下げた。善良そうな顔立ちに、心配そうな表情が浮かぶ。
「あら。泊まるところがなくなったら、うちにいらっしゃいね」
「ははは。ありがとう────……?」
ふっ、と俺の背後から影が差した。背が高い誰か、と意識する前に、低い声が覆い被さる。
「キナコさんとこは人が多くて大変でしょう。うちに来るといいですよ」
目の前の店主……キナコさんは俺の背後に向けてちょこちょこと手を振る。
その姿を見るべく振り返ると、上品な色味のダッフルコートと、ジーンズを合わせた美形の男が立っていた。彼は雨に打たれないよう、軒下に入る。
染めたことの無いような黒髪はすっきり整えられ、垂れがちな目元を薄い色のサングラスが覆っている。肌艶はいいが色は白く、あまり外に出歩くことのない職業だと分かった。
靴に目が留まる。高価な国内ブランドの靴だ。つられてコートに視線を這わせると、布地は分厚い。ジーンズもシンプルな形ながら、味のある風合いだった。
極めつけは手持ちの鞄だ。彼は俺より若いだろうが、俺が汗水垂らして半年働いたとして、あの鞄を買えるか分からない。
仕事上の『餌』にするとしても、収入がありすぎて困る人種だ。これくらい金を持っている人物は、不動産の買い方をよく知っている。
彼は頭に乗った雨粒を払った。
「……あ、ははは。……えーと、こんにちは」
「こんにちは。住むところに困っているんですか?」
尋ねられ、まあ、と言葉を濁す。
その男はキナコさんに、いつものヤツを買いにきました、と言う。はいはい、と店主は店の中に入り、菓子を束にして袋に入れて持ってきた。男は鞄から紙幣を取り出し、お釣りは取っておいてください、と言う。
店主も慣れているのか、こんど差し入れに行くわね、と言って紙幣をポケットに仕舞った。そのまま店内に戻って、はたき掛けを始める。
束になって袋に入っているのは、きなこがまぶされた菓子だ。
男は静かにベンチに腰掛けた。男二人が腰掛けると、古いベンチだ。ぎしりと軋む。
「どうぞ」
差し出された棒を受け取る。軽く指の先が触れた。
それを合図にするように、パラパラパラ、と雨がトタン屋根を叩く。
「……どうも」
きなこ棒、という名前だったような気のする菓子を受け取り、口に運ぶ。噛み締めると柔らかく歯に当たった。噛み締めて飲み込むと、ほのかに甘い。
これまで食べたおやつの中でも、飛び抜けて美味しく感じた。夢中で口に運び、全てを胃に収めてしまう。
「美味しかったです」
「良かった。それで、今日は泊まるとこ決まってる?」
「…………。いや、まだ。ネットカフェにでも行こうかなって」
心配しなくてもいい、と微笑みを向ける。男は自分もきなこ棒を取り出し、口に含んだ。白い歯で齧り取って、棒の先を眺めている。
「うち、部屋は余ってるよ」
「…………俺が泥棒とかだったらどうすんの?」
呆れたように言うのだが、男はくすくすと笑うだけだ。
「泥棒だったら、泥棒だって言わないよ」
「もっと人を疑った方がいい」
「僕、眼は良いんだよ。……家は広いよ? 風呂にもゆっくり浸かれるし、絵と骨董と本はたくさんある」
ぴくり、と狐耳が動いたような心地がした。耳が、その言葉をはっきりと拾う。
「本?」
「本、好き? 古い本が多いけど、数はあるよ」
心の中を、本、という言葉だけが占めていた。ネットカフェには漫画しか置いておらず、泊まっている間、雑誌の短編小説を探して読んでいたが、すぐに尽きた。
一泊する間、寝なければ何冊の本が読めるのだろう。通帳の数字を溶かしてきた好奇心が、むくむくと鎌首をもたげた。
「泊まらせて貰えるなら、頼みがあるんだが……」
「なに?」
「貴重品を金庫とかに入れて、俺が絶対に触れないようにしてほしい。あんまり、金があるわけじゃないんだ。魔が差しても困る。……あんた、鞄を見る限り、金には困ってなさそうだからさ」
あぁ……、と丸くなった彼の目を見て苦笑する。
「今の話を聞いて、泊めたくなくなっただろ? 気持ちだけで十分だよ。きなこ棒も、ありがとな」
棒を折って飲み終えたパッケージと共にポケットに入れ、立ち上がる。ギッ、と木が軋む音がした。
折角の本を読める機会を棒に振った。あーあ、と自分の言動にがっかりしつつ、脚を動かす。不審者は、雨の中を走って退散すべきだ。
「待って。────いいよ、貴重品はぜんぶ金庫に仕舞う」
「本気か?」
「本気」
男は立ち上がると、離れた場所で掃除をしているキナコさんに向かって大きな声で、今日は帰るね、と叫んだ。そして手を振る。店主もまた、こちらに手を振り返す。
男は呆然としている俺と向かい合う。近くに立って初めて、彼の方が少し背が高いことに気付いた。
「改めて、始めまして。僕は小崎……小崎晴雨」
「ああ。瓜生和泉だ」
差し出された掌を取る。繋がった手をしげしげと眺めていると、くす、と目の前の男が笑みを零した。
「それ、本名だよね」
「そうだけど…………?」
首を傾げると、男……小崎晴雨は、けたけたと勢いよく笑った。
「やっぱり、悪い人は本名を名乗ったりしないよ」
「…………本名だってのが嘘で、実は偽名だったらどうするんだ」
あまりにも笑われるのでそう言ったのだが、泊めてもらうのに疑念を抱かれてもな、と思い直した。懐から財布を取り出し、身分証を差し出す。
彼は、身分証と俺を交互に見た。
「なにこれ?」
「本名だと言うことを示そうと……」
そう言うと、彼は、ごっ、と息を吐き出した。
ひいひいと叫ばんばかりに笑い続ける。サングラスといい、髪型といい、感情が薄い質なのかと想像していたが、思ったよりも人間味のある性格のようだ。
むしろ、人間から外れているのは、金が尽きて住居を失っている俺の方だろう。
「えっと、瓜生さん? 和泉さん?」
彼は目元を拭うためにサングラスを外した。瞳の色は薄く、美貌の制限が外れたかのように、いっそう眩しく映る。
「名前だと助かる」
「そっか、いい名前だもんね。僕も、名前で呼んでくれると嬉しいな」
実家を勘当されているから姓を名乗りづらい、とも言えず、あいまいな肯定を返す。
晴雨は自分も、と身分証を差し出してきた。律儀なひとだ。告げられた名前を漢字にした時の意外さはあれど、音に間違いは無かった。
「『晴雨』さん、よろしくな」
今の天気にぴったりだ、と外に視線を向けると、いつの間にか雨は止んでいた。
俺に合わせてくれた事に感謝しつつ、軽く頭を下げる。誰かの姓でなく、名前を呼んだのは久しぶりだった。
瓜生 和泉(うりゅう いずみ)
小崎 晴雨(おざき せいう)
小崎 早依(おざき さよ)
キナコ
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▽1
「あ」
ゴミ箱の一番上に、捨てられた文庫本を見つけた。
埃を払い、カバンの中に仕舞った。
綺麗に巻いた茶髪、ふわふわとした白のスカート。淡い色のコートを羽織って、夕方の駅に立つ。
帰り道のビジネスマン、そのスーツやネクタイを見る。そこそこのスーツを着崩している、そして薬指に指輪がない男を見つけ、携帯電話を片手に近寄った。
「すみません────」
にっこりと笑いながら男を見上げ、手元の携帯電話に映る地図を見せる。平凡な男の目が、瞠られるのが見えた。
「この辺、詳しくなくって。行きたいカフェがあるんですけど、道を教えていただけませんか……?」
「ああ。はい……」
断られなければ、こちらのものだ。男の腕に擦り寄り、携帯の画面を見せる。柔らかさのある身体を押し付けつつ、行きたくもないカフェの道筋を詳しく尋ねた。
あえて、分からない振りをする。だらだらと話を引き延ばし、こう男に言わせるのだ。
「じゃあ、案内しますよ」
心の中でにたりと嘲笑って、胸の前で手を合わせる。ぱあっと唇を持ち上げ、本当に嬉しい、というように目を細めた。
「ありがとうございます……! 本当に困ってて────」
ぺこぺこと大げさに礼を言い、物慣れない風を装う。
男が案内のために歩き出すと、不自然なほど近く、隣を歩く。見下ろしてくる視線を受け止めては首を傾げ、ふふ、と表情をつくった。
ビジネス街にある駅を出て、表の通りを歩く。
指定していた店はもう閉店している。それはそうだ。この街に働く人向けの店ならば、ランチと午後の短い時間だけの営業で事足りる。
世間話を交わしつつ、案内された店へと辿り着く。『CLOSE』の看板を見て、大げさなほど落胆してみせた。
「ごめんなさい……! 営業時間を調べてなくて」
男は怒りもせずに、慰めの言葉を放つ。聞き慣れた言葉を受け止めて、本当に申し訳なさそうにしてみせた。
あ、じゃあ。思いついたようにまた手を合わせ、相手を見上げる。
「お詫びに……来る途中にあった店でなにかご馳走したいんですが、お時間いかがですか?」
夕食には早い時間なので軽いものでも、と言い足すと、男は易々と承諾した。やった、と感情に任せて男の腕に触れたように装う。
では、と予め目星を付けておいたチェーン店に案内する。長居しても問題なく、軽い食事がある程度揃っている店だ。軽めの食事と飲み物を頼み、他愛のない会話を交わす。
ふと、思い出したかのようにカバンを開く。大きめの書類が入るように作られているその中から、クリアファイルに挟まれた書類を取りだした。
「実は、この近くには仕事でお邪魔したんです。自社で不動産を扱っていて────」
近辺の不動産の資料を、折角なので、とクリアファイルに綴じて手渡す。
市場価格と比べると、割高な物件らしい。彼が不動産屋に連絡を入れ、購入に至れば俺にマージンが入る。
彼は書かれた電話番号が、俺に繋がると思っているかもしれない。実際は、もうここでお役御免だ。電話が俺に取り次がれることはない。
「長々とありがとうございました」
それからの話は、お忙しいですよね、と簡潔に切り上げる。餌を撒き終えて、もうこの男と話す必要もない。
切り上げる空気になり、財布から代金を支払おうとすると、男が先に伝票を取った。席を立って支払いにいく男に、そんなつもりは、と焦ってみせる。
男が料金を支払い終えると、大袈裟に礼を言った。
駅に戻ろうとする男に対し、こっちなので、と逆方向を指す。ありがとうございました、とぺこぺことお辞儀をして、美味しかったです、と言い添える。
男が駅に向かっていく背中を慎重に見送って、はあ、と息を吐いて踵を返した。
「疲れた……」
別の駅まで歩き、自宅に向かう電車に乗り込む。
イライラしながら人の波に揉まれ、繁華街近くにある駅で降りると、明るい道を通って自宅へと向かう。カツン、カツン、とパンプスの底を鳴らしながら金属の階段を上り、木造アパートにある自室の扉を開けた。
ぱちん、と黄ばんだスイッチを押すと、狭い室内が浮かび上がった。どかどかと褪せた床を踏みならしながら部屋に入り、女性物の服を脱ぐ。
いくつか電球が切れて薄暗い部屋の中に、数年前は美女と持て囃された女がひとり。鏡の前に立つと、変化を解いた。
肩に付かない程度に伸びて跳ねた茶髪と薄い色の瞳。三十を過ぎたばかりの、うだつが上がらない男の姿がそこにはあった。
鏡のある洗面台に近づき、瞼の上に手を当てる。端を転がし、ぺりぺりと二重まぶたを目立たせるための接着剤を外した。くっきりとした二重が細まると、つり目がちな印象が強くなる。
メイク落としを顔にぶちまけ、似合わない仮面を外した。
うっすらと覚えている記憶によると、先祖は狐に魂を分け与えられた存在らしい。
人と狐。両方の姿を取ることができる俺達は、加えて人の姿をいくつか持つことができた。仕事に使っている女性の姿もそうだ。
腰に食い込んだ女性物の下着を脱ぎ落とし、伸びたボクサーパンツを履く。ジャージの上下を身につけると、顔色が悪く、年齢よりも更に上に見えた。
「腹いっぱいだ。助かった……」
あの男が不動産を買ってくれればいいが、最近では飯を奢られるだけでも御の字だ。若く見えない初対面の女に対し、気前よく奢ってくれない相手に当たる確率も上がってきた。
下手すると、俺の歳でも水商売なら雇い止めになる。加齢が反映されつつある女性としての姿は、顔で食っていくのに厳しさを増している。
端に寄せていた布団を広げ、ごろん、と横になる。
「この仕事、もうやだなぁ」
いくら不動産会社に繋ぐだけ、犯罪ではない、といっても。俺にマージンを払っても利益が出るような物件を売りつけ、客にローンを組ませるこの仕事は嫌いだ。だが、水商売で男に触れることはもっと嫌いだ。
遵法意識が吹っ飛んだのは、金がなくなってからだろうか。
好奇心に負けて、大抵のギャンブルには手を出した。若い女性に化けられていた頃はまだ実入りが良かったが、つまらなくなったギャンブルを乗り換えていく内に金も若さも消えていった。
大きな借金をした時、一時的な補填と引き換えに実家からは縁を切られた。稼いでも実家への返済に金が減り、どんどん仕事が黒く近づいていく。
最初は駄目だと思っていた良心も、繰り返す内に塗り潰されていく。
「……まぁいいや。今日は、本が拾えた」
カバンの中から取り出した本は、『人間失格』とタイトルが付けられていた。表紙に貼られていた古本屋の値札を、丁寧に剥がす。
このタイトルだけは知っている。中身は読んだことがない。わくわくと端が黄ばんだページを捲った。
財布の中には金がない。通帳の残額は零だ。実家への返済も待ってもらっているし、公共料金だって家賃だって、何ヶ月前から滞納していることだろう。
けれど、ページを捲る間だけは、それらを全て忘れた。
溜まっていた家賃を理由に家を出ることになったのは、数ヶ月後のことだ。
どうやって金を作ろうとしても、タイミングが合わずに現金にならなかった。残っていた家電家具を売り払い、手荷物だけを背負って家を出る。
一週間ほどなら、ネットカフェでも過ごせるだろう。できるだけ屋外で過ごし、仮眠を取りたい時間だけネットカフェに入った。漫画が大量にあるのが有り難く、時間いっぱいまで読みふける。数百円で過ごす時間が、最大限の贅沢に思えた。
その日は、シャワーばかりの日々の中、何となく風呂に入りたくなった。
残金を数え直し、何度か記帳をしに行ったが、銀行口座の数字は変わらない。風呂を諦めようかと悩んだが、途中で何もかもがどうでも良くなった。
「まあ、いいか」
金が無くなったら無くなったなりに、自分はその境遇に順応して生きていくだろう。
リュックひとつの荷物を背負って、近くで一番安い銭湯へと歩き出した。
銭湯までの道は、古くとも手入れされた日本家屋が並んでいる。銭湯も古かったな、とパソコンのモニタに映った景色を思い出しながら、道を歩く。途中で面白くなって、あちこち寄り道をした。
昔ながらの駄菓子屋を見つけた時には心躍った。手持ちの金はないはずなのに、単価の低い駄菓子屋なら何か買っても許される気がした。
「こんにちは」
ごちゃごちゃして小さな店に、身を屈めながら入る。ただ、狭い店内にこれだけ品数が多い割には、手入れが行き届いていて埃はなかった。
「はいはい。いらっしゃいませ」
店主らしき女性が店に出てくる。
身なりはきちんとしていて、丁寧に洗濯された割烹着が似合っていた。頭には白いものが混じり、パーマを当てている。
待たせているのも申し訳なく、ビニールに飲み物が詰まった菓子を手に取った。その隣の煎餅も。合わせても缶ジュース一本も買えないだけの硬貨を、申し訳なく思いながら支払う。
店を出ると、ぱらぱらと雨が降っていた。晴天だったはず、と空を見つめるが、相変わらず見慣れた水色だ。
「天気雨か」
突っ切っていくにも雨量が多い。急ぐ理由もない。仕方なく、軒下に設けられたベンチに座った。
ビニール袋を開け、パッケージの先端を口に含む。歯を立てると、やけに甘ったるい味わいが喉に絡み付いた。
毛ばたきを持った店主が、俺を追うように外に出てきた。雨が降っている様子を見て、嬉しげに目を細める。
そうして、俺に視線を向けた。
「お兄さん、どこからいらっしゃったの?」
「以前は『──』の辺りに住んでいて、今は……友人の家を転々としています」
はは、と笑って誤魔化す。ネットカフェで最低限の時間だけ寝ています、とは流石に言えなかった。
店主は頬に手を当てると、眉を下げた。善良そうな顔立ちに、心配そうな表情が浮かぶ。
「あら。泊まるところがなくなったら、うちにいらっしゃいね」
「ははは。ありがとう────……?」
ふっ、と俺の背後から影が差した。背が高い誰か、と意識する前に、低い声が覆い被さる。
「キナコさんとこは人が多くて大変でしょう。うちに来るといいですよ」
目の前の店主……キナコさんは俺の背後に向けてちょこちょこと手を振る。
その姿を見るべく振り返ると、上品な色味のダッフルコートと、ジーンズを合わせた美形の男が立っていた。彼は雨に打たれないよう、軒下に入る。
染めたことの無いような黒髪はすっきり整えられ、垂れがちな目元を薄い色のサングラスが覆っている。肌艶はいいが色は白く、あまり外に出歩くことのない職業だと分かった。
靴に目が留まる。高価な国内ブランドの靴だ。つられてコートに視線を這わせると、布地は分厚い。ジーンズもシンプルな形ながら、味のある風合いだった。
極めつけは手持ちの鞄だ。彼は俺より若いだろうが、俺が汗水垂らして半年働いたとして、あの鞄を買えるか分からない。
仕事上の『餌』にするとしても、収入がありすぎて困る人種だ。これくらい金を持っている人物は、不動産の買い方をよく知っている。
彼は頭に乗った雨粒を払った。
「……あ、ははは。……えーと、こんにちは」
「こんにちは。住むところに困っているんですか?」
尋ねられ、まあ、と言葉を濁す。
その男はキナコさんに、いつものヤツを買いにきました、と言う。はいはい、と店主は店の中に入り、菓子を束にして袋に入れて持ってきた。男は鞄から紙幣を取り出し、お釣りは取っておいてください、と言う。
店主も慣れているのか、こんど差し入れに行くわね、と言って紙幣をポケットに仕舞った。そのまま店内に戻って、はたき掛けを始める。
束になって袋に入っているのは、きなこがまぶされた菓子だ。
男は静かにベンチに腰掛けた。男二人が腰掛けると、古いベンチだ。ぎしりと軋む。
「どうぞ」
差し出された棒を受け取る。軽く指の先が触れた。
それを合図にするように、パラパラパラ、と雨がトタン屋根を叩く。
「……どうも」
きなこ棒、という名前だったような気のする菓子を受け取り、口に運ぶ。噛み締めると柔らかく歯に当たった。噛み締めて飲み込むと、ほのかに甘い。
これまで食べたおやつの中でも、飛び抜けて美味しく感じた。夢中で口に運び、全てを胃に収めてしまう。
「美味しかったです」
「良かった。それで、今日は泊まるとこ決まってる?」
「…………。いや、まだ。ネットカフェにでも行こうかなって」
心配しなくてもいい、と微笑みを向ける。男は自分もきなこ棒を取り出し、口に含んだ。白い歯で齧り取って、棒の先を眺めている。
「うち、部屋は余ってるよ」
「…………俺が泥棒とかだったらどうすんの?」
呆れたように言うのだが、男はくすくすと笑うだけだ。
「泥棒だったら、泥棒だって言わないよ」
「もっと人を疑った方がいい」
「僕、眼は良いんだよ。……家は広いよ? 風呂にもゆっくり浸かれるし、絵と骨董と本はたくさんある」
ぴくり、と狐耳が動いたような心地がした。耳が、その言葉をはっきりと拾う。
「本?」
「本、好き? 古い本が多いけど、数はあるよ」
心の中を、本、という言葉だけが占めていた。ネットカフェには漫画しか置いておらず、泊まっている間、雑誌の短編小説を探して読んでいたが、すぐに尽きた。
一泊する間、寝なければ何冊の本が読めるのだろう。通帳の数字を溶かしてきた好奇心が、むくむくと鎌首をもたげた。
「泊まらせて貰えるなら、頼みがあるんだが……」
「なに?」
「貴重品を金庫とかに入れて、俺が絶対に触れないようにしてほしい。あんまり、金があるわけじゃないんだ。魔が差しても困る。……あんた、鞄を見る限り、金には困ってなさそうだからさ」
あぁ……、と丸くなった彼の目を見て苦笑する。
「今の話を聞いて、泊めたくなくなっただろ? 気持ちだけで十分だよ。きなこ棒も、ありがとな」
棒を折って飲み終えたパッケージと共にポケットに入れ、立ち上がる。ギッ、と木が軋む音がした。
折角の本を読める機会を棒に振った。あーあ、と自分の言動にがっかりしつつ、脚を動かす。不審者は、雨の中を走って退散すべきだ。
「待って。────いいよ、貴重品はぜんぶ金庫に仕舞う」
「本気か?」
「本気」
男は立ち上がると、離れた場所で掃除をしているキナコさんに向かって大きな声で、今日は帰るね、と叫んだ。そして手を振る。店主もまた、こちらに手を振り返す。
男は呆然としている俺と向かい合う。近くに立って初めて、彼の方が少し背が高いことに気付いた。
「改めて、始めまして。僕は小崎……小崎晴雨」
「ああ。瓜生和泉だ」
差し出された掌を取る。繋がった手をしげしげと眺めていると、くす、と目の前の男が笑みを零した。
「それ、本名だよね」
「そうだけど…………?」
首を傾げると、男……小崎晴雨は、けたけたと勢いよく笑った。
「やっぱり、悪い人は本名を名乗ったりしないよ」
「…………本名だってのが嘘で、実は偽名だったらどうするんだ」
あまりにも笑われるのでそう言ったのだが、泊めてもらうのに疑念を抱かれてもな、と思い直した。懐から財布を取り出し、身分証を差し出す。
彼は、身分証と俺を交互に見た。
「なにこれ?」
「本名だと言うことを示そうと……」
そう言うと、彼は、ごっ、と息を吐き出した。
ひいひいと叫ばんばかりに笑い続ける。サングラスといい、髪型といい、感情が薄い質なのかと想像していたが、思ったよりも人間味のある性格のようだ。
むしろ、人間から外れているのは、金が尽きて住居を失っている俺の方だろう。
「えっと、瓜生さん? 和泉さん?」
彼は目元を拭うためにサングラスを外した。瞳の色は薄く、美貌の制限が外れたかのように、いっそう眩しく映る。
「名前だと助かる」
「そっか、いい名前だもんね。僕も、名前で呼んでくれると嬉しいな」
実家を勘当されているから姓を名乗りづらい、とも言えず、あいまいな肯定を返す。
晴雨は自分も、と身分証を差し出してきた。律儀なひとだ。告げられた名前を漢字にした時の意外さはあれど、音に間違いは無かった。
「『晴雨』さん、よろしくな」
今の天気にぴったりだ、と外に視線を向けると、いつの間にか雨は止んでいた。
俺に合わせてくれた事に感謝しつつ、軽く頭を下げる。誰かの姓でなく、名前を呼んだのは久しぶりだった。
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