旦那様はとても一途です。

りつ

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第3話

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「はあ」
「アルベルト様。手が止まっていますわ」

 アルベルトの形良い眉がわずかにぴくりと動いたが、私は気づかないふりをした。

「ああ、それからそちらの書類を確認されましたら、次はこちらをお願いいたします」

 ため息をつく暇もなくぽんぽんと次の仕事を差し出す。アルベルトはそんな私をちらりと見て、今度ははっきりと不服そうな表情をした。私はあくまでそれに気づかない振りをする。

 フランツとの会話に吹っ切れた私は、もう遠慮せず、言いたいことははっきり言おうと決めたのだ。

 アルベルトが認めたくなくとも、たとえ形ばかりの偽物でも、私たちは夫婦になった。

 夫婦となったからには、これから嫌でも一緒に過ごさなくてはならない。早いうちに私という人間を知っておいた方がよい。

「きみはもう少し、夫に対して思いやりというものがないのか? リーゼロッテならば、こういう時気遣う眼差しで私を労わってくれる。優しい言葉をかけてくれる」

 案の定、アルベルトは私の性格に対して改善を申し出た。

 しかもリーゼロッテ嬢の名を持ち出して、非難するあたり、相当腹に据えかねているとみえた。

 同じ部屋にいた使用人たちは、アルベルトの言葉に、さっと顔を強張らせる。妻を非難するのに他の女性を引き合いに出すのはあまりにも愚策だ。

 あるいは私のあまりにもはっきりとした物言いの方に青ざめているのかもしれない。普通の奥方なら、ここで堪忍袋の緒が切れる所だろうから。

 でも生憎と私は普通じゃない。アルベルトがわざとリーゼロッテ嬢のことを持ち出したのにもきちんと気づいていた。

 元恋人の名を出せば(彼にとっては今でも大切な恋人なのかもしれないが)、私の逆鱗に触れ、あわよくば私がこの屋敷を出ていく。そんな筋書きが彼のお望みなのかもしれない。それか単に八つ当たりしたいだけか。

 まあとにかく彼の魂胆が透けて見えたので、私はヒステリックに喚いたりはしない。手にしていた書類を机に置き、夫と向き合う。

「アルベルト様」

 逆に落ち着いて対応するべきだと冷静な自分が告げていた。

「あなたはリーゼロッテ様のような可憐さが私に務まるとお思いですか」
「まさか! ……いや、そういうことではなくて」

 即答したことで、少し気まずそうに目を逸らす夫。
 私は事実であるので、特段気にしない。むしろここで、嘘でもあると言われた方が、顔をしかめただろう。

 言いたいことは何でも正直に言ってくれた方が私は好きだった。

「誰かに見守ってもらわないと仕事ができないなんて、まるで家庭教師をつけてもらったばかりの子どもみたいですよ。あなたはもう十分立派に成人した大人なんですから、うじうじ文句を言わずに仕事に専念してください」

 私がぴしゃりとそう言うと、彼はまだ何か言いたそうだったが、自分の行いに思うところがあったのか、渋々と仕事に向き合い始めた。使用人たちはそんな私たちの様子にほっと胸をなで下ろす。

 夫婦関係は使用人たちにもひどく影響する。彼らからすれば、この冷え切った私たちの関係はまさに針のむしろに座らされる心地。非常によくない。

 ……と言っても、まずはアルベルトだ。

 彼が変わってくれなければ、私にも打つ手がない。一刻も早く彼にはリーゼロッテ嬢のことを忘れて欲しい。引き裂かれた恋に心酔する状況から目を覚まして欲しい。

 だがここで終わらないのがお約束というものであろう。



「もう、私はおしまいだ」

 数カ月経ったある日のこと。

 アルベルトは体調が悪いと朝から部屋に引きこもっていた。食事も喉を通らないようで、心配した従者に促されて様子を見に来てみれば、彼はシーツを被っており、どんよりとした空気で部屋の端に蹲っていた。

 私は反射的に、一筋の光すらも漏らすまいとぴったりと閉められていたカーテンを開け、ついでにどんよりと湿り切った空気を入れ替えるために窓を開け放った。

 爽やかな風が吹き込み、私は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

 そして、意を決してぐるりと振り返った。

「それで、どうしたんですか」

 シーツを被った彼は、まるでハロウィンに出てくるオバケのようだった。小さな子どもが仮装したらさぞ微笑ましい姿だったと思う。だが背丈の高い成人男性が被ったところで、ちっとも可愛げは皆無だった。

 弱り切った彼の顔には、いつもの明るさはない。

 いや、私と出会った時からずっと彼の表情は強張ったものか、憂鬱にみちたものだった。優しく微笑むのは愛しい恋人の前だけだ。

 彼は私をちらりと見ると、冒頭の言葉を吐きだし、ぼそぼそと愛しのリーゼロッテ嬢がついに結婚してしまい、別れを告げてきたことを私に述べた。

 私はなんだ、そんなことかと内心肩透かしを食らった気分だった。

 そんなことでいちいち使用人たちを心配させるなと思ったが、彼は私と違い、非常に繊細な生き物なのだ。取り扱いには十分気をつけなければならない。

「アルベルト様のお気持ち、十分お察し致しますわ」
「あなたにはわからない。私がリーゼロッテをどんなに愛しているか、彼女と結婚したかったか」

 あなたのおかげで、十分わかりましたよという言葉を私は必死で飲み込んだ。ここで彼を責めても、何の意味もない。

「アルベルト様。リーゼロッテ様も、きっとあなたと同じように苦渋の決断で結婚なさったのだと思いますわ」

「ああ、わかっている。だからこそ、やるせないんだ。自分が情けない。こうなる前に、彼女となんとか結婚するべきだった」

 私は困ったように彼のつむじを見つめた。まるで駄々をこねる子どもだと思った。

 さてどうしたものか……。

 このまま放っておくこともできたが、彼のことだから思いあまって自殺でもするかもしれない。それはあまりにも後味が悪い。残された私の立場というのもある。

 それにやはり見目麗しい青年のひどく憔悴した表情は、さすがの私でも可哀そうに思えてきた。
 やれやれと腰を下ろし、私は彼の肩にそっと手を置いた。

 それが意外だったのか、彼はぎょっと顔を上げた。頭から被っていたシーツがはらりと落ち、赤い目をした旦那様が現れる。

「アルベルト様。よくお聞きなさい。あなたは今、生まれて初めて愛する者と引き裂かれるという場面に遭遇し、人生で一番のどん底にいる気分を味わっています。ですが、底があるからには、必ず頂上があります。そしてあなたはそれを今は登っていくだけ。彼女と別れたことが一番の不幸だというならば、これから先に起こることは、すべて取るに足らない、いいえ、むしろ幸福なことばかりですわ。元気をお出しなさい」

 スラスラといつか本で読んだ内容を、心を込めて目の前の青年に言い聞かせた。
 彼は、私がこんなにも近くで、熱を込めて語るのが珍しいのか、私の顔を呆けたように眺めていた。

「アルベルト様。私たちは、結婚し、夫婦となりました。私はあなたを支える妻として、あなたの愛するリーゼロッテ様のような振る舞いはできないでしょう。ですが、あなたを支え、導くという点では、負けるつもりはありません。むしろ彼女以上に上手くやっていく自信さえ、あります」

「……それは、夫婦としてどうなのだろうか」

 確かに世間一般の夫婦としては、少し違うかもしれない。でも、別にいいではないか。

「些末な問題ですわ。世間がどうお思いになろうが、私は構いません。世間も最初は恰好の噂の的としてもてはやすでしょうが、すぐに飽きてしまいます。彼らにとっては、毎日の生活が満たされていれば、それに勝るものはないのですから。さあ、アルベルト様、立って下さい。辛い時こそ、仕事に専念するものですよ」

「きみは、こんな時でも仕事の話をするのだな」

 どこか呆れたような口調でアルベルト様は言った。それに私は少し笑い、はいと答えた。

「私だったら、こういう時こそ仕事に専念して、悲しみを昇華させますわ」
「それはたくましいな……」

 落ち込んでいる自分が馬鹿らしくなったのか、アルベルトは私の手を取ってしぶしぶ立ち上がった。シーツを被っていたからか、せっかく癖のない髪の毛がぼさぼさだ。泣いていたせいで目は真っ赤になっているし。

「きみは、じつに変わっている」

 彼は珍獣でも見るかのような眼差しで、私の全身をくまなく観察していた。

 今初めて己の妻となった人物がどういう人間かを知ったような彼が可笑しく、私は友に笑いかけるような面持ちで答えた。

「私は普通の女性がなさる慰めを知らないので。さあ、食堂の方に参りましょう。あなたの好きな料理とお酒をたっぷり用意させます。散々落ち込んで、お腹を満たせば、たいていの人間は元気になるよう神様がお作りになっているのです」

 アルベルトはもう好きにしてくれと私の言われるがままになった。

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