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38、新しい生活
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(慕われていたのね……)
普段のマティアスと接していれば、わかることだ。
(彼らにとって、マティアスは幼い頃から仕えてきた大切なご主人様)
家令の年齢からすれば、息子のように思って見守ってきたと考えられる。そんな一人息子が悪い女に目をつけられ、また甚振られようとしている。しかも今度は主人も嫌がっていない。心配するな、と言われても無理な話である。
「……わかっているわ。もう二度とマティアスを傷つけ、悲しませたりしない」
「ありがとうございます」
ふぅ、と小さくため息をつき、話を元に戻す。
「それで、今度は帳簿を見せてほしいのだけれど」
「かしこまりました。すぐご用意いたします」
奥様が? と困惑されるかと思ったが、家令はすぐに見せてくれた。しかし……
(うーん……よくわからない……)
これはまず見方からいろいろ教えてもらわなければならない。教えてもらっても、わかるか自信はないけれど……。
「こちらは奥様に関する帳簿でございます」
「わたくしに関する?」
「はい。使用人など、別途に分けて記しているのです」
「へぇ……」
一冊で収まるわけではないのか、と知った。どれどれ、とページをめくって目を通していく。
「シャルレーヌ宝石店、クルーエ店……この金額が、使った額?」
「はい」
「ずいぶん事細やかに書いているのね」
「奥様に関しては特別なのでございます」
何やら含みのある言い方であるが、じっとブランシュは店の名前やら購入した商品名を眺めていく。
(あら?)
「この、コリーナ孤児院やグラネ医院ってのは?」
「寄付金でございます」
「寄付……」
貴族の奥方は……というより高貴な者は弱い者に手を差し伸べる義務がある、という考えに基づき、慈善活動にも勤しまなければならないらしい。
(でも、ブランシュまでそんなことしていたなんて……)
ちょっと、いやだいぶ驚きである。
(しかもきちんと毎月してある……)
「ねぇ、これってマティアスがするよう言ったの?」
「いいえ。奥様が好きに使えるお金の中から、奥様が自由にその用途をお決めになりましたので、旦那様は何もおっしゃっていないはずです」
「じゃあ、わたくし自ら、ってこと?」
ますます信じられない、と彼女は枠の中に記入された数字を見つめる。けっこうな額であった。
「この孤児院と病院は、ブランシュと何か関係があるのかしら?」
「さぁ、そこまでは……ただ、どちらも親を亡くされたり、病気で満足に生活できない子どもたちがいる施設ですね」
(病気で……)
もしかして自分との境遇に重ね合わせたのだろうか。
(力を貸したかったのかしら……)
ブランシュは丁寧に書かれた数字を上からそっと撫でた。
それからブランシュは少しずつ、ルメール家の妻として覚えるべきことや、やるべきことを実践していった。
もちろん何事もそう簡単にはいかず、周りの手を借りながら、時に失敗しながら、であるが、これはこれで新鮮だとくよくよ悩まず、次に繋げようと前向きに受け止めるようになった。
(こういう時は、自分の図太い性格が役に立つわね)
そして失敗を重ねるのは、何も自分だけではない。
「ああっ、奥様! ごめんなさい!」
紅茶を床にぶちまけてしまったブランシュ付きのメイド、ヴァネッサが顔を真っ青にして謝ってくる。彼女がこうした失敗するのは、もう何度目のことだろう。
(まさかわざと零して、わたくしの態度を試しているのかしら)
使用人への叱り方。失礼をされた時の対応にも、人柄は出る。むしろピンチに陥った時こそ、妻としての真価を問われる時。
「ごめんなさい、ごめんなさい、奥様。すぐに片付けますから!」
カップに触れようとした手を、ブランシュはそっと重ねて止める。
「まだ熱いから、素手で触ると火傷してしまうわ」
幸いカップは毛の長い絨毯の上に落ちたので割れてはおらず、ヴァネッサが怪我をすることはなかった。
「あなたは火傷しなかった?」
「あ、はい。わたしは何とも。盛大にぶちまけてしまったので、奥様の方が危なかったです……」
「……まぁ、お互い無事で何よりだわ」
とにかくさっさと片付けようとヴァネッサに伝えると、彼女は目を真ん丸と見開いた。
「どうしたの?」
「あ、いえ。奥様ってお優しいのだなと」
今初めて気づいたという口調にブランシュは呆れてしまう。
「わたくし、今まであなたに紅茶を零されるのは十回以上された気がするのだけれど……」
「す、すみません! 今までずっともう終わりだと思って、何も考えられなくなって、気づいたら片付けが終わっていたので、ひょっとすると紅茶を零したのは、すべてわたしの白昼夢ではないかと」
「あら、そう……って、さすがにそれは無理があるでしょう」
白昼夢見過ぎである。そしてそんなに自分が恐ろしいのかとブランシュは内心ショックを受ける。
「ねぇ、わたくしってそんなに怖い?」
「そりゃ、い、いえっ、奥様はとても優しい方であらせられて……!」
目が泳いでいる。
「ヴァネッサ。怒らないから、本当のことをおっしゃい?」
にっこり微笑むと、ひいっとヴァネッサは白状した。
「はい。実は先輩方から奥様はとんでもない方だと教えられていたので、わたしもいつ首にされるのではないかと気が気ではありませんでした」
ああ、やっぱり他の使用人たちからあれこれ教えられていたのだ。
「それでよく、わたくしの世話を引き受けようと思ったわね?」
「奥様付きのメイドをしてくれるなら、お手当も増やすと……あっ、いえ、一番は奥様にお仕えるできることが光栄でして!」
「いいわ。お金のためね」
むしろ一番納得できる理由である。
「奥様……お怒りになられましたか?」
「別に。お金は大事でしょう。若い娘はいくらあったって困らないでしょうし」
「……わたしは田舎に住む家族に仕送りしているんです」
「仕送り……」
「はい。弟が身体が弱くて、母も父も年だから、心配で……わたし、少しでも力になりたくて、お話を受けしたんです」
「……そう」
ブランシュは自分の浅慮さを恥じた。ヴァネッサは自分のためではなく、大切な家族のためにお金を稼いでいるのだ。
(ヴァネッサだけじゃないわね……)
他の使用人たちにも、家族がいる。故郷を出て、仕事のある王都で働いている。稼いだお金は自分の生活費と擦り合わせながら仕送りをしている。
(そんなことちっとも考えたことがなかった)
自分の世話をするのは当たり前。とても名誉なこと。彼らがどんな生活を送っているかなど、気にもかけなかった。
(わたくしは、仕えられる者として相応しかったかしら……)
答えは否、だ。気に入らないことがあれば使用人に当たり散らしていた。いくら使用人に毅然とした態度を取るのが正しいとしても、乱暴に振る舞うこととはわけが違う。
「……あの、奥様?」
黙り込んでしまったブランシュに、ヴァネッサがびくびくしながら声をかけてくる。
「何でもないわ」
「ほ、本当ですか?」
「……以前のわたくしはあなたたちに横暴だったかもしれない。でも、今は反省しているわ。だから、そんなにびくびくしないでいいわよ」
信じられないかもしれないけれど。
でもここまで溝が深まったのも、ブランシュが招いたことだ。ブランシュ自身でどうにかしていくしかない。
「あの、奥様」
「あなたが私を信用できないのはよくわかるわ。でももう一度だけ……」
「い、いえっ。そうじゃなくて……わたし、これまでずっと奥様のことを誤解していましたけれど、今日そうでもないとわかって、嬉しかったです」
ヴァネッサはそう言うとはにかむように笑った。
「これからも奥様に精いっぱい仕えさせていただきます!」
よろしくお願いします! と彼女は大きな声で宣言すると、紅茶を淹れなおしてくるとぱーっと部屋を出て行った。
「……カップも片付けていきなさいよ」
もう、とティーカップを拾い上げながら、ブランシュはうっかり泣きそうになった。
普段のマティアスと接していれば、わかることだ。
(彼らにとって、マティアスは幼い頃から仕えてきた大切なご主人様)
家令の年齢からすれば、息子のように思って見守ってきたと考えられる。そんな一人息子が悪い女に目をつけられ、また甚振られようとしている。しかも今度は主人も嫌がっていない。心配するな、と言われても無理な話である。
「……わかっているわ。もう二度とマティアスを傷つけ、悲しませたりしない」
「ありがとうございます」
ふぅ、と小さくため息をつき、話を元に戻す。
「それで、今度は帳簿を見せてほしいのだけれど」
「かしこまりました。すぐご用意いたします」
奥様が? と困惑されるかと思ったが、家令はすぐに見せてくれた。しかし……
(うーん……よくわからない……)
これはまず見方からいろいろ教えてもらわなければならない。教えてもらっても、わかるか自信はないけれど……。
「こちらは奥様に関する帳簿でございます」
「わたくしに関する?」
「はい。使用人など、別途に分けて記しているのです」
「へぇ……」
一冊で収まるわけではないのか、と知った。どれどれ、とページをめくって目を通していく。
「シャルレーヌ宝石店、クルーエ店……この金額が、使った額?」
「はい」
「ずいぶん事細やかに書いているのね」
「奥様に関しては特別なのでございます」
何やら含みのある言い方であるが、じっとブランシュは店の名前やら購入した商品名を眺めていく。
(あら?)
「この、コリーナ孤児院やグラネ医院ってのは?」
「寄付金でございます」
「寄付……」
貴族の奥方は……というより高貴な者は弱い者に手を差し伸べる義務がある、という考えに基づき、慈善活動にも勤しまなければならないらしい。
(でも、ブランシュまでそんなことしていたなんて……)
ちょっと、いやだいぶ驚きである。
(しかもきちんと毎月してある……)
「ねぇ、これってマティアスがするよう言ったの?」
「いいえ。奥様が好きに使えるお金の中から、奥様が自由にその用途をお決めになりましたので、旦那様は何もおっしゃっていないはずです」
「じゃあ、わたくし自ら、ってこと?」
ますます信じられない、と彼女は枠の中に記入された数字を見つめる。けっこうな額であった。
「この孤児院と病院は、ブランシュと何か関係があるのかしら?」
「さぁ、そこまでは……ただ、どちらも親を亡くされたり、病気で満足に生活できない子どもたちがいる施設ですね」
(病気で……)
もしかして自分との境遇に重ね合わせたのだろうか。
(力を貸したかったのかしら……)
ブランシュは丁寧に書かれた数字を上からそっと撫でた。
それからブランシュは少しずつ、ルメール家の妻として覚えるべきことや、やるべきことを実践していった。
もちろん何事もそう簡単にはいかず、周りの手を借りながら、時に失敗しながら、であるが、これはこれで新鮮だとくよくよ悩まず、次に繋げようと前向きに受け止めるようになった。
(こういう時は、自分の図太い性格が役に立つわね)
そして失敗を重ねるのは、何も自分だけではない。
「ああっ、奥様! ごめんなさい!」
紅茶を床にぶちまけてしまったブランシュ付きのメイド、ヴァネッサが顔を真っ青にして謝ってくる。彼女がこうした失敗するのは、もう何度目のことだろう。
(まさかわざと零して、わたくしの態度を試しているのかしら)
使用人への叱り方。失礼をされた時の対応にも、人柄は出る。むしろピンチに陥った時こそ、妻としての真価を問われる時。
「ごめんなさい、ごめんなさい、奥様。すぐに片付けますから!」
カップに触れようとした手を、ブランシュはそっと重ねて止める。
「まだ熱いから、素手で触ると火傷してしまうわ」
幸いカップは毛の長い絨毯の上に落ちたので割れてはおらず、ヴァネッサが怪我をすることはなかった。
「あなたは火傷しなかった?」
「あ、はい。わたしは何とも。盛大にぶちまけてしまったので、奥様の方が危なかったです……」
「……まぁ、お互い無事で何よりだわ」
とにかくさっさと片付けようとヴァネッサに伝えると、彼女は目を真ん丸と見開いた。
「どうしたの?」
「あ、いえ。奥様ってお優しいのだなと」
今初めて気づいたという口調にブランシュは呆れてしまう。
「わたくし、今まであなたに紅茶を零されるのは十回以上された気がするのだけれど……」
「す、すみません! 今までずっともう終わりだと思って、何も考えられなくなって、気づいたら片付けが終わっていたので、ひょっとすると紅茶を零したのは、すべてわたしの白昼夢ではないかと」
「あら、そう……って、さすがにそれは無理があるでしょう」
白昼夢見過ぎである。そしてそんなに自分が恐ろしいのかとブランシュは内心ショックを受ける。
「ねぇ、わたくしってそんなに怖い?」
「そりゃ、い、いえっ、奥様はとても優しい方であらせられて……!」
目が泳いでいる。
「ヴァネッサ。怒らないから、本当のことをおっしゃい?」
にっこり微笑むと、ひいっとヴァネッサは白状した。
「はい。実は先輩方から奥様はとんでもない方だと教えられていたので、わたしもいつ首にされるのではないかと気が気ではありませんでした」
ああ、やっぱり他の使用人たちからあれこれ教えられていたのだ。
「それでよく、わたくしの世話を引き受けようと思ったわね?」
「奥様付きのメイドをしてくれるなら、お手当も増やすと……あっ、いえ、一番は奥様にお仕えるできることが光栄でして!」
「いいわ。お金のためね」
むしろ一番納得できる理由である。
「奥様……お怒りになられましたか?」
「別に。お金は大事でしょう。若い娘はいくらあったって困らないでしょうし」
「……わたしは田舎に住む家族に仕送りしているんです」
「仕送り……」
「はい。弟が身体が弱くて、母も父も年だから、心配で……わたし、少しでも力になりたくて、お話を受けしたんです」
「……そう」
ブランシュは自分の浅慮さを恥じた。ヴァネッサは自分のためではなく、大切な家族のためにお金を稼いでいるのだ。
(ヴァネッサだけじゃないわね……)
他の使用人たちにも、家族がいる。故郷を出て、仕事のある王都で働いている。稼いだお金は自分の生活費と擦り合わせながら仕送りをしている。
(そんなことちっとも考えたことがなかった)
自分の世話をするのは当たり前。とても名誉なこと。彼らがどんな生活を送っているかなど、気にもかけなかった。
(わたくしは、仕えられる者として相応しかったかしら……)
答えは否、だ。気に入らないことがあれば使用人に当たり散らしていた。いくら使用人に毅然とした態度を取るのが正しいとしても、乱暴に振る舞うこととはわけが違う。
「……あの、奥様?」
黙り込んでしまったブランシュに、ヴァネッサがびくびくしながら声をかけてくる。
「何でもないわ」
「ほ、本当ですか?」
「……以前のわたくしはあなたたちに横暴だったかもしれない。でも、今は反省しているわ。だから、そんなにびくびくしないでいいわよ」
信じられないかもしれないけれど。
でもここまで溝が深まったのも、ブランシュが招いたことだ。ブランシュ自身でどうにかしていくしかない。
「あの、奥様」
「あなたが私を信用できないのはよくわかるわ。でももう一度だけ……」
「い、いえっ。そうじゃなくて……わたし、これまでずっと奥様のことを誤解していましたけれど、今日そうでもないとわかって、嬉しかったです」
ヴァネッサはそう言うとはにかむように笑った。
「これからも奥様に精いっぱい仕えさせていただきます!」
よろしくお願いします! と彼女は大きな声で宣言すると、紅茶を淹れなおしてくるとぱーっと部屋を出て行った。
「……カップも片付けていきなさいよ」
もう、とティーカップを拾い上げながら、ブランシュはうっかり泣きそうになった。
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