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51、一つが二つに
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彼女は叩かれて横を向いたまま、赤くなった頬をそっと指先で触れた。視線だけ、ちらりとこちらを見る。
「叩かれたのなんて、初めてだわ」
「誰も、そうやって叱ってくれなかったんでしょうね」
ブランシュの頬もまた、ひりひりと痛みを覚えていた。他者を傷つける痛みを、彼女は知らされずに生きてきた。それがどれほど恐ろしいことか、今のブランシュは身をもって思い知らされてきたというのに……
「そうね。お兄様は、うるさく小言を述べていたわね。でも、それだけ。お父様は気にしなくていいとおっしゃってくれた」
だから気にしなかった。
ブランシュは未知の生き物を相手にしている気分になった。他者へ振るった暴力は結局は自分に跳ね返ってくるというのに、彼女はそれがどうしたと言わんばかりの態度だ。
「そんな顔をしないでよ」
甘えるように少女がブランシュに抱き着いてくる。
「あなただって、マティアスが手に入って嬉しいんでしょう?」
耳元で囁かれる言葉は砂糖菓子のように甘く、くらりとする。
「違う。わたくしは――」
「誤魔化しても無駄よ。だってあなたはわたくしだもの」
「わたくしは、あなた……」
そう、と首元に回された手が緩やかに締め付け、首筋に息がかかる。
「二つに見えても、本当は一つのもの。どんなに過去の記憶がなくなっても、根本の性格は変わらない」
「そんな、こと……」
「その証拠にあなたはマティアスを好きになった」
どきりとする。心臓が跳ねて、それを見透かされたように胸元へ手を当てられる。顎に唇の柔らかな感触。ブランシュ、ともう一人の自分が告げる。
「あなたは自分を求めてくれるマティアスが愛おしくて仕方がない。彼があの女のもとへ行かず安心している。ね、あなたもわたくしと同じでしょう?」
ブランシュはその言葉に悍ましさと吐き気がして、彼女を突き飛ばしていた。恐怖で引き攣った顔を晒しながら、自分にもう一度問いかける。
「どうしてあなたは自殺なんかしたの」
あどけなく、可憐な少女は目を細めて答えてくれる。
「醜悪な心を消し去って、綺麗な人間になれば、マティアスに愛してもらえると思ったから」
「醜悪な心……」
「そう。今あなたがわたくしを糾弾したように、許されないことばかりしてきた。でもね、わたくしにはそんなつもり微塵もなかった。物事の善悪に対して感じ方が違うのね。だから、そんな人間が正しいことをしようと思っても、できないの」
ブランシュは彼女が理路整然と説明することに薄ら寒いものを感じた。常識があるようで、どこか壊れている。
「彼の同情が引きたくて、池に飛び込んだのではないの?」
「もちろん、それもあるわ。でも、一番の目的は真っ新な自分になりたかったの」
「真っ新な自分?」
「ええ。わたくしを作り上げてきた過去を捨てて、何も知らない自分に。マティアスと同じように悪いことを悪いと思えて、何の見返りもなく良いことができる、そんな思考を持った自分に」
以前、兄のジョシュアが言っていた。
記憶を失った今のブランシュは、もう一人の、違う道を歩いてきたブランシュではないかと。病弱で苦しんできた過去がない分、曲がることなく、真っすぐに育ったブランシュ。
マティアスが好意を持ってくれるブランシュ。
「記憶を失ったのは、意図的なの?」
「まさか! でも、神さまに必死でお願いしたから、叶えてくださったのかもしれないわ」
神さえ自分に味方してくれたのだと言いたげな口調であった。
「あなたをマティアスは愛した。あなたはわたくし。わたくしの愛はようやく彼に届いたということ」
うっとりとした表情で語る姿はどこにでもいる、恋する少女そのものだ。
(あなたは……)
「ふふ。そんな顔しても駄目よ」
トンと人差し指で胸を衝かれる。
「真っ新な自分、と言ったけれど、根っこの部分は同じだもの。あなたがわたくしであることには変わらないわ」
そうでしょ? と問いかける瞳に、ブランシュは目を伏せる。違う、と言えなかった。
「最初は自分がどんな人間かわからなくて、気を遣って、自分を抑え込んできた。でもマティアスと接して、少しずつ欲が出てきて、我儘になってきたとは思わない?」
「……そうね」
認めよう。この少女は間違いなくもう一人の自分。ブランシュ自身だ。
「ねぇ、ブランシュ。あなたは十分役目を果たしてくれた。マティアスのことも、思う存分独り占めできたでしょう? だからそろそろ、わたくしに代わってよ」
今度は肩口に頭を乗せ、ぴたりと寄り添ってくる少女の目をブランシュは見つめた。
「どういうこと?」
「記憶を全て取り戻して、本来のわたくしに戻るということ」
「わたくしに消えろということ?」
違うわ、と優しい声音で間違いを正す。
「あなたはわたくしだもの。消えはしないわ」
「……」
「ね、ブランシュ。もうマティアスはわたくしたちのもの。彼はわたくしのそばで一生幸せに生きていくの」
だから、ね? と甘い声は麻薬のように思えた。素直に従ってしまいたくなりそうな、知らずに手足を絡めとられてしまっている感じ。
少女はこうして相手の懐に飛び込むのが上手なのだろう。いろんな人の心を利用して、踏みつけにして、マティアスを手に入れようとした。
そんな彼女に、ブランシュが逆らえるはずがない。
「――ええ。ブランシュ。わたくしも、そう思うわ」
彼女の背中へそっと腕を回す。少女は上手くいったと微笑み――
「こほっ」
喉元から不快感がせり上がってきて咳をした。
「え?」
口元から赤い液体が垂れ落ちる。血だった。
「な、なんで、がはっ」
お腹のあたりが捩じれるような痛みを感じ、とっさに下を見れば、真っ赤に染まっていた。
「な、なに、これ、あなた、何をした、の……」
途中で言葉を詰まらせたのは、目の前の自分も同じように口から血を零していたからだろう。そして少女は悟った。これはブランシュが望んだことだと。
「なんで……」
「ブランシュ。わたくしも、同じ考えよ」
「なら、どうして……!」
今自分は死にかけているのだ。しかもブランシュが望んでいることだという。
「あなたは、わたくしのはずでしょう……!?」
「ええ。マティアスには幸せになって欲しい。その一点だけは、わたくしもあなたと同じ考えよ」
離れようとした自分をブランシュは引き寄せ、抱きしめる。そうすると激痛が走り、悲鳴を上げる。目の前のブランシュも同じだろうに彼女は歯を食いしばり、呻きながらも言い放った。
「だから彼を不幸にする者は誰であろうと許さない」
たとえ自分自身であろうと。
「わたくしの存在がマティアスを苦しめるというのならば、わたくしはもう一度、今度こそ、死を選ぶわ」
マティアスに愛されるためじゃない。マティアスを解放して、幸せになってもらうために。
「だから、彼にあなたは会わせられない。このままわたくしと、水の底へ沈んでもらうわ」
腕の中の少女は気が狂ったように暴れ出した。どこにそんな力があるのかと思うほど激しい抵抗だった。
「いやっ! 離して! 許さない! 許さない!」
少女の慟哭が鋭い刃物となってブランシュの身体を容赦なく突き刺す。けれどブランシュは決して彼女を離さず、足元からゆっくりと引きずり込まれていく泥の中へ身を沈めていく。
「ようやく手に入ったのに! やっと彼をわたくしのものにできたのにっ……!」
(ごめんね、ブランシュ……)
彼女が嫌だと拒絶するように、ブランシュも譲ることはできなかった。
彼女もまた、誰にも負けないくらいマティアスを愛しているから。もう一人の自分自身よりも、ずっと――
「叩かれたのなんて、初めてだわ」
「誰も、そうやって叱ってくれなかったんでしょうね」
ブランシュの頬もまた、ひりひりと痛みを覚えていた。他者を傷つける痛みを、彼女は知らされずに生きてきた。それがどれほど恐ろしいことか、今のブランシュは身をもって思い知らされてきたというのに……
「そうね。お兄様は、うるさく小言を述べていたわね。でも、それだけ。お父様は気にしなくていいとおっしゃってくれた」
だから気にしなかった。
ブランシュは未知の生き物を相手にしている気分になった。他者へ振るった暴力は結局は自分に跳ね返ってくるというのに、彼女はそれがどうしたと言わんばかりの態度だ。
「そんな顔をしないでよ」
甘えるように少女がブランシュに抱き着いてくる。
「あなただって、マティアスが手に入って嬉しいんでしょう?」
耳元で囁かれる言葉は砂糖菓子のように甘く、くらりとする。
「違う。わたくしは――」
「誤魔化しても無駄よ。だってあなたはわたくしだもの」
「わたくしは、あなた……」
そう、と首元に回された手が緩やかに締め付け、首筋に息がかかる。
「二つに見えても、本当は一つのもの。どんなに過去の記憶がなくなっても、根本の性格は変わらない」
「そんな、こと……」
「その証拠にあなたはマティアスを好きになった」
どきりとする。心臓が跳ねて、それを見透かされたように胸元へ手を当てられる。顎に唇の柔らかな感触。ブランシュ、ともう一人の自分が告げる。
「あなたは自分を求めてくれるマティアスが愛おしくて仕方がない。彼があの女のもとへ行かず安心している。ね、あなたもわたくしと同じでしょう?」
ブランシュはその言葉に悍ましさと吐き気がして、彼女を突き飛ばしていた。恐怖で引き攣った顔を晒しながら、自分にもう一度問いかける。
「どうしてあなたは自殺なんかしたの」
あどけなく、可憐な少女は目を細めて答えてくれる。
「醜悪な心を消し去って、綺麗な人間になれば、マティアスに愛してもらえると思ったから」
「醜悪な心……」
「そう。今あなたがわたくしを糾弾したように、許されないことばかりしてきた。でもね、わたくしにはそんなつもり微塵もなかった。物事の善悪に対して感じ方が違うのね。だから、そんな人間が正しいことをしようと思っても、できないの」
ブランシュは彼女が理路整然と説明することに薄ら寒いものを感じた。常識があるようで、どこか壊れている。
「彼の同情が引きたくて、池に飛び込んだのではないの?」
「もちろん、それもあるわ。でも、一番の目的は真っ新な自分になりたかったの」
「真っ新な自分?」
「ええ。わたくしを作り上げてきた過去を捨てて、何も知らない自分に。マティアスと同じように悪いことを悪いと思えて、何の見返りもなく良いことができる、そんな思考を持った自分に」
以前、兄のジョシュアが言っていた。
記憶を失った今のブランシュは、もう一人の、違う道を歩いてきたブランシュではないかと。病弱で苦しんできた過去がない分、曲がることなく、真っすぐに育ったブランシュ。
マティアスが好意を持ってくれるブランシュ。
「記憶を失ったのは、意図的なの?」
「まさか! でも、神さまに必死でお願いしたから、叶えてくださったのかもしれないわ」
神さえ自分に味方してくれたのだと言いたげな口調であった。
「あなたをマティアスは愛した。あなたはわたくし。わたくしの愛はようやく彼に届いたということ」
うっとりとした表情で語る姿はどこにでもいる、恋する少女そのものだ。
(あなたは……)
「ふふ。そんな顔しても駄目よ」
トンと人差し指で胸を衝かれる。
「真っ新な自分、と言ったけれど、根っこの部分は同じだもの。あなたがわたくしであることには変わらないわ」
そうでしょ? と問いかける瞳に、ブランシュは目を伏せる。違う、と言えなかった。
「最初は自分がどんな人間かわからなくて、気を遣って、自分を抑え込んできた。でもマティアスと接して、少しずつ欲が出てきて、我儘になってきたとは思わない?」
「……そうね」
認めよう。この少女は間違いなくもう一人の自分。ブランシュ自身だ。
「ねぇ、ブランシュ。あなたは十分役目を果たしてくれた。マティアスのことも、思う存分独り占めできたでしょう? だからそろそろ、わたくしに代わってよ」
今度は肩口に頭を乗せ、ぴたりと寄り添ってくる少女の目をブランシュは見つめた。
「どういうこと?」
「記憶を全て取り戻して、本来のわたくしに戻るということ」
「わたくしに消えろということ?」
違うわ、と優しい声音で間違いを正す。
「あなたはわたくしだもの。消えはしないわ」
「……」
「ね、ブランシュ。もうマティアスはわたくしたちのもの。彼はわたくしのそばで一生幸せに生きていくの」
だから、ね? と甘い声は麻薬のように思えた。素直に従ってしまいたくなりそうな、知らずに手足を絡めとられてしまっている感じ。
少女はこうして相手の懐に飛び込むのが上手なのだろう。いろんな人の心を利用して、踏みつけにして、マティアスを手に入れようとした。
そんな彼女に、ブランシュが逆らえるはずがない。
「――ええ。ブランシュ。わたくしも、そう思うわ」
彼女の背中へそっと腕を回す。少女は上手くいったと微笑み――
「こほっ」
喉元から不快感がせり上がってきて咳をした。
「え?」
口元から赤い液体が垂れ落ちる。血だった。
「な、なんで、がはっ」
お腹のあたりが捩じれるような痛みを感じ、とっさに下を見れば、真っ赤に染まっていた。
「な、なに、これ、あなた、何をした、の……」
途中で言葉を詰まらせたのは、目の前の自分も同じように口から血を零していたからだろう。そして少女は悟った。これはブランシュが望んだことだと。
「なんで……」
「ブランシュ。わたくしも、同じ考えよ」
「なら、どうして……!」
今自分は死にかけているのだ。しかもブランシュが望んでいることだという。
「あなたは、わたくしのはずでしょう……!?」
「ええ。マティアスには幸せになって欲しい。その一点だけは、わたくしもあなたと同じ考えよ」
離れようとした自分をブランシュは引き寄せ、抱きしめる。そうすると激痛が走り、悲鳴を上げる。目の前のブランシュも同じだろうに彼女は歯を食いしばり、呻きながらも言い放った。
「だから彼を不幸にする者は誰であろうと許さない」
たとえ自分自身であろうと。
「わたくしの存在がマティアスを苦しめるというのならば、わたくしはもう一度、今度こそ、死を選ぶわ」
マティアスに愛されるためじゃない。マティアスを解放して、幸せになってもらうために。
「だから、彼にあなたは会わせられない。このままわたくしと、水の底へ沈んでもらうわ」
腕の中の少女は気が狂ったように暴れ出した。どこにそんな力があるのかと思うほど激しい抵抗だった。
「いやっ! 離して! 許さない! 許さない!」
少女の慟哭が鋭い刃物となってブランシュの身体を容赦なく突き刺す。けれどブランシュは決して彼女を離さず、足元からゆっくりと引きずり込まれていく泥の中へ身を沈めていく。
「ようやく手に入ったのに! やっと彼をわたくしのものにできたのにっ……!」
(ごめんね、ブランシュ……)
彼女が嫌だと拒絶するように、ブランシュも譲ることはできなかった。
彼女もまた、誰にも負けないくらいマティアスを愛しているから。もう一人の自分自身よりも、ずっと――
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