「うん、いいよ」

真朱マロ

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第一話 「うん、いいよ」

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「うん、いいよ」

 それが美菜の口癖だった。
 俺が聞く限り、そう言いながら陽だまりみたいに笑っていた。
 だけど美菜の口癖を聞くたびに、もう少し考えて返事をしろよと、なぜだかイラッとする。

「うん、いいよ」

 ホラ、またそんなふうに答えている。
 日直を代わって欲しいなんて頼まれて、もうすでに今週は三度も日誌を手にしている。
 確かに頼むほうも、部活で急な呼び出しが入ったとか、委員会の当番があるとか、仕方ない事情がある。

 でも、同じ人にばかり頼むのは、問題があるのではないだろうか。
 絶対にことわらないとわかっていているから、みんなそろって、美菜に声をかけている。

 まるで便利屋さんだ。
 本人は気がついていないみたいだけど。

 妙に気になるものの、俺と美菜は仲がいい訳でもないし、特別に親しい間柄でもない。
 そもそも今現在、美菜自身に特別親しい友人がいる訳ではない。

 5月の終わりに転校してきたばかりで、まだ六月の半ば。
 クラスの雰囲気に慣れてきたものの、一人だけ違う制服が少し浮いて見える。
 それでもクラスの中には溶け込んでいた。

 愛想がいいと表現するよりも、お人よしと呼ぶのがぴったりくる子だ。
 大人しそうな顔をしているが物おじしない性格なのか、誰にでも挨拶をするし普通に話しかける。
 そう、俺にだって普通に声をかけてくる。

「桐生君、今日は日直が一緒だね。黒板消すの手伝ってくれる?」

 ニコニコと朗らかに笑いかけられて、俺はため息をつくしかなかった。
 自慢ではないが、日直などしたことがない。
 別にさぼりたい訳ではないが目つきも柄も悪いので、今まで相棒から自主的に代理人をたてられていた。
 俺だって日直なんて面倒なことをするぐらいなら、顔が怖いだのお近づきになりたくないだの言われても、大して気にならない。

「お前、誰に言ってんだ?」

 とりあえず聞いてみると、美菜は「ん?」と不思議そうに首をかしげた。
 教室に残っていた連中がギョッとして、カバンを片手にそそくさと出ていくのもわかっていないようだった。

「桐生君って一人だけだと思ったけど違ったのかな? 私、まだ同級生の名前、全員覚えてないから、ごめんね」

 天然なのか、わざとなのかわからない。
 普通にしていてもにらんでいるとか凄んでいると間違われる目つきの悪い俺を前にして、美菜はほんわかと笑って頭をかいている。

「困っちゃったな~日直が誰かわからないや」

 誰かに聞こうと振り返ったようだが、教室の中はガランとしていた。
 俺にからまれるのが嫌で、全員が逃げたのだ。

「別に、困らなくてもいいけどな」
「日直のお仕事だよ? 桐生君じゃないなら、手伝わなくていいんだよ?」
「俺、桐生だけど?」
「なんだ、それならそうと言ってくれればいいのに。間違えたのかと思っちゃった」

 意地悪だな、とクスクス笑っていた。
 なんだかこちらが拍子抜けするぐらいほがらかに笑って、黒板の上を綺麗にしてほしいと頼んできた。
 俺が黒板を消している間に日誌を書けばいいのに、美菜は下の方をせっせと綺麗にしている。

 一生懸命なのはわかるが、どことなく動きがスローだ。
 全体的にとろくさい感じだし、同級生の女子より背も低くて手も小さかった。

「いいなぁ、桐生君は背が高くて」
 どうやら、小柄なのを気にしているらしい。

「別に、このぐらいの奴は普通にいるし」
「そんなことないよ~私なんて背伸びしても上まで届かないもん」

「なんで俺と比べるんだ?」
「違うよ、背が高いといいことありそうだから」

 比べてないもんと軽くふくれる。
 その自然な感じを、なんとなくだけど俺は可愛いなと思った。

「ほどほどが一番だろ? 俺なんて電車の入口で、油断してると、頭打つぞ」
「え? 想像つかないなぁ」

 笑いだすかと思ったのに、う~んとなぜか頭を悩ませている。
 そして、おっとりした動きで、俺を見上げた。

「桐生君はオルカみたいだから、そのぐらい簡単にくぐりぬけるでしょう?」
「なんでオルカなわけ」

 オルカとは、シャチのことだろう?
 海の生き物なのは最高に嬉しいが、やっぱり怖くて厳ついイメージなのだろうか?
 そうだとしたら、平気そうにしてる美奈にも怯えられそうで、ちょっと傷つく……うん、ほんの少しだけだが、想像だけで傷ついた。
 俺の内心なんてお構いなしに、美奈はふわふわした綿菓子みたいに笑った。

「だって、毎日、サーフィンしてるから。すごく上手だよね、だからそっくりだなぁって」

 なんでそんなことを知っているんだ?
 思わず言葉を失う俺に、美菜はポンと手を打った。

「私の家、浜辺の喫茶店だから。私の部屋から、直接海が見えるんだよ」

 そういえば、五月の連休に古民家を改装して喫茶店がオープンしていた。
 俺は入ったことがないけれど。

「毎日浜で波乗りしてる人が、同じクラスだったから最初はびっくりしたの。桐生君って、海以外に足を運んでないのに損しているよね」

 そうとも。
 ケンカだのカツアゲだの娯楽街だの、噂されているそんな場所に行く暇があったら、浜辺で波に乗っている。
 小学生のころから空手を習っているので、ケンカも強い事にされているだけだ。
 試合では負けたことがないが、ケンカなど絶対にしない。

「損だと思わなけりゃ、けっこう楽だぞ」

 今まで面倒な当番だの役員だの、くじで当たりひいても「気にしなくてもいいよ」と免除されてきたのだ。
 教室の掃除なんて、小学生以来かもしれない。

「なら、今日は外れのくじを引いちゃったね」

 そんなふうに悪びれなく笑う。
 美菜はなんとなく、シマリスとかハムスターとかそんな感じだ。
 こうやって普通の女の子と当たり前の会話を交わすことなど、俺にはめったにない事だ。
 サーフィンをしていると体格も手伝って目立つせいか、遠巻きにキャーキャー騒いでいる子たちが夏限定で現れるが、声をかけられたことは当然ながらない。

「なぁ?」
 呼びかけると、ん? とクリッとした目が俺を見上げてくる。
「俺と付き合わないか?」
 パチパチッと瞬きして、美菜は笑った。

「うん、いいよ」

 いつもの感じで、スルッと答えた。
 少しぐらい考えろよ、と嬉しいようなイラッとするような、もどかしい返事だった。
 ただ、美菜は信じられない台詞を続ける。

「日直が終わったら、どこに付き合えばいいの?」

 天然なのか、わざとなのかわからない。
 ただ、悪びれない陽だまりみたいな笑顔で、可愛らしく笑っていた。
 だから俺は、脱力するしかなかった。

「とりあえず、浜、行くか?」
「うん、いいよ。ちょうど家の前だし、待ち合わせしても遅れないよね」

 美菜の答えは想像通りだった。
 嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑っているけど、まったくわかっていない気がする。

 前途多難だ。
 俺も苦笑交じりに、笑うしかなかった。
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