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初恋の部:愛莉
想定外の出来事3
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ウ~とかすかに先輩はうなる。
「どこか痛みますか?」
声をかけながら覗き込んでも、気がついた訳でないようだった。
先輩はしばらくは苦痛にうなされていた。
頭や肩に巻かれた包帯が、なんだか痛々しかった。
看護師さんを呼ぼうと、枕元にあるナースコールに手を伸ばした時。
スウッと目が開いた。
少し切れ長で大きな瞳は、濡れた黒曜石のように底が見えない。
あんまり綺麗で深い瞳だったので、息を飲んでしまった。
先輩は何度か瞬きして、幻のようにまぶたを閉じると、再び目を開けて辺りを見回した。
おぼつかない様子に、私はハッとした。
「気が付きましたか? 看護師を呼びますね」
出来るだけやわらかに伝えると、天井を見上げたままで先輩は何度か瞬きした。
「ここ、どこ?」
透きとおって、とても綺麗な声だった。
ああ、と私は思わずつぶやいた。
階段落ちの後は気を失っていたので、救急車に乗ったことも知らないだろうし、いきなり大きな病院の病室ではさぞ驚いたことだろう。
「大学病院です。駅の階段から突き落とされたの、覚えていませんか? 警察には、犯人の顔や特徴は伝えました。佐々木さんの弁護士は少し退室されてますけど、ちゃんと病院内にいらっしゃいます」
「ああ、弁護士って榊でしょ? あんた、誰?」
何もなかった顔を装って先輩は周りをキョロキョロしているので、私は子供みたいだと思わず笑ってしまった。
「巻き添えです。たまたま佐々木さんの後ろにいたので、一緒に階段を落ちました。一応かばってくださったので、私は無傷でしたが……そろそろ手を離していただけませんか?」
「手?」
私の右手を握っていることに今初めて気づいたのか、左手も伸ばして先輩は確かめている。
そのたどたどしい不自然な動きに、なんだか違和感を覚えた。
そういえば、私を見ているのに先輩とは一度も視線が合わない。
おかしすぎる。
「……もしかして、見えないんですか?」
その可能性に驚いてしまい、顔をのぞき込んで目の前で手をヒラヒラさせてみたら、ただの宝石に変わったみたいに瞳は反応しなかった。
「なぁんだ、夜じゃない訳?」
お気楽な口調で、先輩は他人事のようにヘラヘラと笑っただけだ。
この明るい状態が夜にしか見えないなんて、盲目状態で一大事のはずなのに。
私は枕元にあるナースコールを押して、それだけではもどかしく慌てて立ち上がった。
検査では、どこにも異常はなかったはずなのに。
「すぐにドクターを呼びますね」
でも、飛び出そうとした私はいきなり腕を強くひかれて、その場に引き留められた。
「いてよ。どうせナースコールしたんでしょ?」
冷静なんだか投げやりなんだかわからない口調に、私は戸惑ってしまう。
見えないことも、どうでもいいようだった。
こんな時、どうすればいいのかわからない。
ちょうど榊さんが帰ってきたから、私はホッとした。
「あ、榊さん。佐々木さんの目が……」
「榊~? 俺、目が見えないんだけど」
甘えた声を出すので、私はびっくりした。
クールで無駄口を叩かないところが、美形らしくてミステリアスだと聞いていたのに。
噂の全てを裏切って、うちの末っ子よりも子供の口調だった。
ものすごく違和感があるんですけど。
おや? と榊さんは驚いた声をあげた。
「検査結果では打ち身しかない健康体だったんですが……ドクターに確認してみましょう。再検査かもしれませんね」
検査かよと先輩は不満そうだったが、日頃の行いが悪いからだと榊さんは返す。
俺の普通なのと口をとがらせるのに、非常にぐうたらでロクデナシそのものですからなんて、見た目のソフトさを裏切る榊さんの毒舌にもなんだか圧倒された。
それでも、遠慮のない悪態をつかれることが、先輩は嬉しそうだった。
悪態をつかれたくて、甘えたことばかり口にしているようだった。
でも、私はハッとした。
先輩のことは気になるけど、このまま病院にいる訳にはいかない。
私はとにかく部外者なので、切り出した。
「あの、私、そろそろおいとましてもよろしいですか? かなり予定が狂ったので……」
立ち上がろうとしたら、先輩に握ったままの手を引き戻された。
ずっと痛いぐらいつかまれていて、まったくゆるまない。
どうにかしてひっこ抜こうとしたけれど、華奢に見えても先輩は男の人の力そのもので握っているので、どうすることもできなかった。
「それでは、今後の相談をしましょう。この後のことは、私が手配します」
「とんでもない!」
スッポンみたいな先輩を無視しながら話す榊さんはとても親切だった。
次の飛行機のチケットを手配するし、日本に残るならホテルを用意すると当たり前に言われて、私は焦ってしまった。
日程を考えると、確かに祖母の実家には行けない。
だけど自宅に戻れば済む話なのだ。
高級ホテルなんて気を使われてしまうと、非常に恐縮してしまう。
私たちのやり取りを聞いていた先輩は、何を勘違いしたのかチュッと私の手にキスをした。
「じゃぁさ、俺んちにくれば? 部屋だっていっぱいあるし、誰もいない高級マンションだよ」
ありえない! と私はひどく驚いて手を抜こうとしたけど、先輩はすごい力で握ったままだ。
「かわいいね」
なんて甘いことを言いながら、私の手を自分の頬に押し当てる。
キャーッと叫ばなかった自分を褒めたくなった。
陶磁器のように滑らかな頬がスリスリするので、クラクラとめまいがしそうだ。
視線は合わないけれど、なぜ上目遣いなのだろう?
この人、フェロモンが多すぎる。
「冬真様、初めて会った女性に失礼ですよ?」
さすがに榊さんが冷たい声で注意してくれた。
でも先輩はヘッチャラのままで、私は必死で手を抜こうとしているのに、つかむ力をまったく緩めない。
「だって、俺、見えないし。それに俺を突き落とした奴の証人とかなってもらうんだろ? じゃ、まとまってた方が効率よくね?」
甘えた声でそんなことを言うので、私はどうでもいいから離してくれとお願いする。
階段を落ちた後からずっと何時間も強くつかまれたままなので、右手がしびれて仕方ない。
「ん~? 聞こえない。冬真って呼んでくれなくちゃ、離れなくなったみたい」
私はさすがにあきれてしまった。
この人、噂よりもずっと甘えたがりで、どうしようもない人かもしれない。
見かねたのか「調子に乗りすぎです」と、ピシッと榊さんが手をはたく。
先輩はしぶしぶ手を引いた。
「これは重症ですね。入院しかありません」
鍵をかけて病棟に缶詰だと言うので、勘弁してくれよとぼやきながらも、先輩はネコのように甘えている。
「榊。あのさ、俺、帰りたいんだけど。病院なんかいたら、病気になっちゃうでしょ?」
このサイズまで育っているのに、恥ずかしがりもせずに全力で甘えている人なんて初めて見た。
榊さんはたしなめているようでもちゃんとかまっているし、ずいぶん付き合いがいいんだなと思うしかない。
子供みたいなことを言ってばかりだと私はあきれていたけど、扉の隙間から看護師さんが病室に入りたくて入れない顔をしているのを見てしまった。
「あの、とりあえず、診察に行きましょう。先に検査を受けなくては、今後のことを決められません」
私がうながすと、榊さんは軽くこめかみを押さえた。
失礼しましたと、やわらかに謝罪を口にする。
医師の指示に従いましょうと釘を刺されて、先輩は口をとがらせていた。
私がやれやれこれで家に帰れると思っていたら、先輩は検査なんかしないとごねはじめた。
榊さんに甘えているだけにも見えるけれど、私は先輩の子供じみた我儘ぶりに開いた口がふさがらない。
保育園のうちの弟だって、ここまでごねたりしない。
今すぐ帰るとか、帰れる状態か診察をうけないとわからないでしょうとか、二人は再び押し問答をしている。
これでは平行線のままだろう。
会話に割り込んでとにかく看護師さんが待っているとうながすと、先輩はひどく面白がっていた。
「お姉さんしっかり者だね~名前は?」
お姉さん?
意外な表現に、言葉に詰まった。
年上と間違われている?
私が驚いていると、そっと人差し指を口に当てて、内緒にしなさい、と無言で指示している榊さんと目があった。
どうせ見えないのだし、今後の面倒が減るのでちょうどいいのだと、その表情が伝えてきた。
「アイリーンです」
私はとっさにそう答えていた。
本名じゃないけど、愛称だから馴染みがある。
ついさっき、ドイツにいる伯父と話したからかもしれない。
「……は?」
さすがに先輩はすっとんきょうな声をあげた。
やっぱり驚くと思った。
私は祖母のおかげでドイツ語も話せるけれど、生まれも育ちも日本人なのだ。
もちろん日常会話は、日本語発音そのままだ。
絶対に嘘くさいと思っているに違いない。
榊さんには祖母のことも話しているので、そう名乗る理由も知っているものだから、先輩の間の抜けた顔がおかしかったらしく、必死で笑いをかみ殺している。
「似合わないけれど、私の名前はアイリーンです。車イスがきました。乗ってください。検査が終わるまで待っていますから」
私が開き直ると、先輩はさらに妙な顔になった。
うわ~そこまで疑わなくてもいいのに。
榊さんはこらえきれなくなったのか、とうとう吹き出した。
「まぁ想像力が乏しいので驚くでしょうね」
クスクスと明るく笑って、先輩にささやいた。
「見えないうちに、想像力を磨いてください」
ほっとけよ、と先輩は横を向いた。
その仕草が本当に子供っぽかったので、私もつられるように笑ってしまった。
先輩は噂と違って、可愛らしい。
榊さんへの反応は、ひたすら甘えたがりの子供だった。
ただ、廊下で検査が終わるのを待っていると情にほだされた私が伝えると、先輩は切ないすがる表情になって、ひどく心に残った。
手を離してはいけない時の、寂しい顔だった。
側にいる人が必要だと、全身で訴えている。
どうして、そんなに寂しいのだろう?
ハッとして、すぐに私は自分を戒める。
ダメダメ。
こんなふうに情をかけてズルズルしたら、引き返せなくなってしまいそうだ。
さっき右手に頬ずりされたことを思い出して、本当に手癖が悪いんだからと戸惑いつつも赤くなってしまう。
なにしろフェロモンの多い人だ。
私はそういった類の免疫がまるでない。
先輩には榊さんがついているし、私が気にする必要はないだろう。
なにしろ華やかで、芸能人よりも遠い人だから。
とにかく、関わらないに限る。
冬真先輩のように綺麗で賢くて他人の憧れの人は、この病院から一歩出ると赤の他人で、明日すれちがっても私に気づきもしないのだから。
診察が終わったらその場できっぱりと別れて、榊さんにも私のことは秘密にしてもらおう。
うん、それでいいのだ。
先輩の目が見えなくて、ちょうどよかった。
どこまでも現実味のない人だったなぁと、綺麗な姿を思い出していた。
「どこか痛みますか?」
声をかけながら覗き込んでも、気がついた訳でないようだった。
先輩はしばらくは苦痛にうなされていた。
頭や肩に巻かれた包帯が、なんだか痛々しかった。
看護師さんを呼ぼうと、枕元にあるナースコールに手を伸ばした時。
スウッと目が開いた。
少し切れ長で大きな瞳は、濡れた黒曜石のように底が見えない。
あんまり綺麗で深い瞳だったので、息を飲んでしまった。
先輩は何度か瞬きして、幻のようにまぶたを閉じると、再び目を開けて辺りを見回した。
おぼつかない様子に、私はハッとした。
「気が付きましたか? 看護師を呼びますね」
出来るだけやわらかに伝えると、天井を見上げたままで先輩は何度か瞬きした。
「ここ、どこ?」
透きとおって、とても綺麗な声だった。
ああ、と私は思わずつぶやいた。
階段落ちの後は気を失っていたので、救急車に乗ったことも知らないだろうし、いきなり大きな病院の病室ではさぞ驚いたことだろう。
「大学病院です。駅の階段から突き落とされたの、覚えていませんか? 警察には、犯人の顔や特徴は伝えました。佐々木さんの弁護士は少し退室されてますけど、ちゃんと病院内にいらっしゃいます」
「ああ、弁護士って榊でしょ? あんた、誰?」
何もなかった顔を装って先輩は周りをキョロキョロしているので、私は子供みたいだと思わず笑ってしまった。
「巻き添えです。たまたま佐々木さんの後ろにいたので、一緒に階段を落ちました。一応かばってくださったので、私は無傷でしたが……そろそろ手を離していただけませんか?」
「手?」
私の右手を握っていることに今初めて気づいたのか、左手も伸ばして先輩は確かめている。
そのたどたどしい不自然な動きに、なんだか違和感を覚えた。
そういえば、私を見ているのに先輩とは一度も視線が合わない。
おかしすぎる。
「……もしかして、見えないんですか?」
その可能性に驚いてしまい、顔をのぞき込んで目の前で手をヒラヒラさせてみたら、ただの宝石に変わったみたいに瞳は反応しなかった。
「なぁんだ、夜じゃない訳?」
お気楽な口調で、先輩は他人事のようにヘラヘラと笑っただけだ。
この明るい状態が夜にしか見えないなんて、盲目状態で一大事のはずなのに。
私は枕元にあるナースコールを押して、それだけではもどかしく慌てて立ち上がった。
検査では、どこにも異常はなかったはずなのに。
「すぐにドクターを呼びますね」
でも、飛び出そうとした私はいきなり腕を強くひかれて、その場に引き留められた。
「いてよ。どうせナースコールしたんでしょ?」
冷静なんだか投げやりなんだかわからない口調に、私は戸惑ってしまう。
見えないことも、どうでもいいようだった。
こんな時、どうすればいいのかわからない。
ちょうど榊さんが帰ってきたから、私はホッとした。
「あ、榊さん。佐々木さんの目が……」
「榊~? 俺、目が見えないんだけど」
甘えた声を出すので、私はびっくりした。
クールで無駄口を叩かないところが、美形らしくてミステリアスだと聞いていたのに。
噂の全てを裏切って、うちの末っ子よりも子供の口調だった。
ものすごく違和感があるんですけど。
おや? と榊さんは驚いた声をあげた。
「検査結果では打ち身しかない健康体だったんですが……ドクターに確認してみましょう。再検査かもしれませんね」
検査かよと先輩は不満そうだったが、日頃の行いが悪いからだと榊さんは返す。
俺の普通なのと口をとがらせるのに、非常にぐうたらでロクデナシそのものですからなんて、見た目のソフトさを裏切る榊さんの毒舌にもなんだか圧倒された。
それでも、遠慮のない悪態をつかれることが、先輩は嬉しそうだった。
悪態をつかれたくて、甘えたことばかり口にしているようだった。
でも、私はハッとした。
先輩のことは気になるけど、このまま病院にいる訳にはいかない。
私はとにかく部外者なので、切り出した。
「あの、私、そろそろおいとましてもよろしいですか? かなり予定が狂ったので……」
立ち上がろうとしたら、先輩に握ったままの手を引き戻された。
ずっと痛いぐらいつかまれていて、まったくゆるまない。
どうにかしてひっこ抜こうとしたけれど、華奢に見えても先輩は男の人の力そのもので握っているので、どうすることもできなかった。
「それでは、今後の相談をしましょう。この後のことは、私が手配します」
「とんでもない!」
スッポンみたいな先輩を無視しながら話す榊さんはとても親切だった。
次の飛行機のチケットを手配するし、日本に残るならホテルを用意すると当たり前に言われて、私は焦ってしまった。
日程を考えると、確かに祖母の実家には行けない。
だけど自宅に戻れば済む話なのだ。
高級ホテルなんて気を使われてしまうと、非常に恐縮してしまう。
私たちのやり取りを聞いていた先輩は、何を勘違いしたのかチュッと私の手にキスをした。
「じゃぁさ、俺んちにくれば? 部屋だっていっぱいあるし、誰もいない高級マンションだよ」
ありえない! と私はひどく驚いて手を抜こうとしたけど、先輩はすごい力で握ったままだ。
「かわいいね」
なんて甘いことを言いながら、私の手を自分の頬に押し当てる。
キャーッと叫ばなかった自分を褒めたくなった。
陶磁器のように滑らかな頬がスリスリするので、クラクラとめまいがしそうだ。
視線は合わないけれど、なぜ上目遣いなのだろう?
この人、フェロモンが多すぎる。
「冬真様、初めて会った女性に失礼ですよ?」
さすがに榊さんが冷たい声で注意してくれた。
でも先輩はヘッチャラのままで、私は必死で手を抜こうとしているのに、つかむ力をまったく緩めない。
「だって、俺、見えないし。それに俺を突き落とした奴の証人とかなってもらうんだろ? じゃ、まとまってた方が効率よくね?」
甘えた声でそんなことを言うので、私はどうでもいいから離してくれとお願いする。
階段を落ちた後からずっと何時間も強くつかまれたままなので、右手がしびれて仕方ない。
「ん~? 聞こえない。冬真って呼んでくれなくちゃ、離れなくなったみたい」
私はさすがにあきれてしまった。
この人、噂よりもずっと甘えたがりで、どうしようもない人かもしれない。
見かねたのか「調子に乗りすぎです」と、ピシッと榊さんが手をはたく。
先輩はしぶしぶ手を引いた。
「これは重症ですね。入院しかありません」
鍵をかけて病棟に缶詰だと言うので、勘弁してくれよとぼやきながらも、先輩はネコのように甘えている。
「榊。あのさ、俺、帰りたいんだけど。病院なんかいたら、病気になっちゃうでしょ?」
このサイズまで育っているのに、恥ずかしがりもせずに全力で甘えている人なんて初めて見た。
榊さんはたしなめているようでもちゃんとかまっているし、ずいぶん付き合いがいいんだなと思うしかない。
子供みたいなことを言ってばかりだと私はあきれていたけど、扉の隙間から看護師さんが病室に入りたくて入れない顔をしているのを見てしまった。
「あの、とりあえず、診察に行きましょう。先に検査を受けなくては、今後のことを決められません」
私がうながすと、榊さんは軽くこめかみを押さえた。
失礼しましたと、やわらかに謝罪を口にする。
医師の指示に従いましょうと釘を刺されて、先輩は口をとがらせていた。
私がやれやれこれで家に帰れると思っていたら、先輩は検査なんかしないとごねはじめた。
榊さんに甘えているだけにも見えるけれど、私は先輩の子供じみた我儘ぶりに開いた口がふさがらない。
保育園のうちの弟だって、ここまでごねたりしない。
今すぐ帰るとか、帰れる状態か診察をうけないとわからないでしょうとか、二人は再び押し問答をしている。
これでは平行線のままだろう。
会話に割り込んでとにかく看護師さんが待っているとうながすと、先輩はひどく面白がっていた。
「お姉さんしっかり者だね~名前は?」
お姉さん?
意外な表現に、言葉に詰まった。
年上と間違われている?
私が驚いていると、そっと人差し指を口に当てて、内緒にしなさい、と無言で指示している榊さんと目があった。
どうせ見えないのだし、今後の面倒が減るのでちょうどいいのだと、その表情が伝えてきた。
「アイリーンです」
私はとっさにそう答えていた。
本名じゃないけど、愛称だから馴染みがある。
ついさっき、ドイツにいる伯父と話したからかもしれない。
「……は?」
さすがに先輩はすっとんきょうな声をあげた。
やっぱり驚くと思った。
私は祖母のおかげでドイツ語も話せるけれど、生まれも育ちも日本人なのだ。
もちろん日常会話は、日本語発音そのままだ。
絶対に嘘くさいと思っているに違いない。
榊さんには祖母のことも話しているので、そう名乗る理由も知っているものだから、先輩の間の抜けた顔がおかしかったらしく、必死で笑いをかみ殺している。
「似合わないけれど、私の名前はアイリーンです。車イスがきました。乗ってください。検査が終わるまで待っていますから」
私が開き直ると、先輩はさらに妙な顔になった。
うわ~そこまで疑わなくてもいいのに。
榊さんはこらえきれなくなったのか、とうとう吹き出した。
「まぁ想像力が乏しいので驚くでしょうね」
クスクスと明るく笑って、先輩にささやいた。
「見えないうちに、想像力を磨いてください」
ほっとけよ、と先輩は横を向いた。
その仕草が本当に子供っぽかったので、私もつられるように笑ってしまった。
先輩は噂と違って、可愛らしい。
榊さんへの反応は、ひたすら甘えたがりの子供だった。
ただ、廊下で検査が終わるのを待っていると情にほだされた私が伝えると、先輩は切ないすがる表情になって、ひどく心に残った。
手を離してはいけない時の、寂しい顔だった。
側にいる人が必要だと、全身で訴えている。
どうして、そんなに寂しいのだろう?
ハッとして、すぐに私は自分を戒める。
ダメダメ。
こんなふうに情をかけてズルズルしたら、引き返せなくなってしまいそうだ。
さっき右手に頬ずりされたことを思い出して、本当に手癖が悪いんだからと戸惑いつつも赤くなってしまう。
なにしろフェロモンの多い人だ。
私はそういった類の免疫がまるでない。
先輩には榊さんがついているし、私が気にする必要はないだろう。
なにしろ華やかで、芸能人よりも遠い人だから。
とにかく、関わらないに限る。
冬真先輩のように綺麗で賢くて他人の憧れの人は、この病院から一歩出ると赤の他人で、明日すれちがっても私に気づきもしないのだから。
診察が終わったらその場できっぱりと別れて、榊さんにも私のことは秘密にしてもらおう。
うん、それでいいのだ。
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