流るる社畜は水のように

春巻丸掃(ハルマキ マルハ)

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第6会話 突如降って湧いた春

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 ここなら誰にも見つからない。そう思っていた。


 四角いコンクリートの木が方々にそびえ立つこの都会。本物のジャングルでは極彩色の鳥がせわしなく鳴いていそうなところだが、この灰色の石の街ではせいぜい信号機の上で機械の鳥がパッポーと鳴くか、酔っぱらいどもの咆哮が聞こえてくるくらいである。
 この密林の喧騒から少しでも遠ざかるには、とにもかくにも一人になることが重要であり、安住はそうした心から、夜のビルの中をかきわけこの喫煙所に辿り着いた。

 この喫煙所はいわゆる穴場である。ビルとビルの間の誰も通らないようななわての小道を入り、時折現れる分かれ道を正しい方向に曲がることで、この灰皿の置かれた行き止まりにようやくたどり着く。
 入ってくる道以外の三方向をビルの壁に囲まれており、この3~4メートル四方の空間には心地良い閉塞感がある。壁に窓はついているようだが、その奥に人影すら見えたこともなく、人目は一切ないと言っていい。
 ここはオフィスの喫煙所という憩いの場所を追われた安住が見つけ出した、秘密基地というわけである。
 銀色の四角柱の灰皿の中は、安住が自身で吸ったタバコ以外は銘柄の違うタバコが一種類あるのみで、それも数本程度しか入っていない。つまりは他に利用者がいないでもないということだが、深夜という時間も相まってか、安住がタバコを吸い始めたここ何か月で誰かがいたことは一度も無かった。

 無かったのだが、その日はいつもとは違った。
 普段どおり、くすんだ青色のベンチに腰掛けてぷかぷかとタバコをふかす。
 すると、コツコツという足音が遠くから、しかし確実に、こちらに近づいてくる。
 誰だろう。高野が何かあって俺を呼びに来たか? いや、高野にこの場所は教えていない。それどころかこの場所は誰にも教えていない。
 わざわざこんな夜中のこんな場所に来る人間。なんてロクな奴じゃないに決まっている。
 酔っぱらい、怪しげな勧誘、変態……、もしくは何かの証拠を隠滅しにきた反社会的な勢力……、もしやこの丑三つ時に現世を彷徨う幽霊……、不安がとめどなく頭をよぎる。
 それにこの喫煙所、三方向を囲まれているのは人目を避けるのには丁度いいが、少し見方を変えればそれは袋小路、逃げ場が無いということでもある。
 つまり、何かが起きても逃げられない。その上、助けを求めることも困難。


 思考の整理がつかぬまま、その時は来た。
 人影が暗闇で一瞬立ち止まる。素知らぬフリをし、慌ててスマホに目を落とす。何かよくないものが目に入ってはいけない。本当に何かの隠滅すべき証拠だったり、見ると魅入られる幽霊何某なにがしさんだったりしたらそれこそ殊更だ。
 音が消えた。長い長い静寂。実際は数秒であるはずの時間が、ことわりを無視して延びていく。指に挟んだタバコだけが、じりじりと時間を経過させている。
 足音の主はこちらの様子を伺っているようである。少しの静寂のあと、揺れる煙の奥の暗闇からぬらりと現れた人影は、真っすぐこちらの方に向かってきている。
 「おい」
 ……女性の声だ。身体が一瞬ビクつく。
 ハイ、ほとんど反射的に返事をし、跳ね上がる心臓を隠しながら、恐る恐るその方向を見る。
 すると、そこにいたのは……、


 「よう」

 タイトスカートからスラリと伸びる脚に、肩の上あたりで整えられた髪型。空色のジャケットに左手を入れて立っている。
 「……なんだ、みどりかよ……。はあ」
 現れたのは安住の同期、碧だった。碧は安住の斜め前に立つ。
 「めちゃくちゃビクッてなってたぞ今」
 「だって怖いだろ。こんな夜中に」
 「まあな。誰もいないと思ったら誰かいてびっくりした。安住だったから良かったけど。」
 久方ぶりに見る碧の顔に、安住はいつもと違う印象を受けた。
 「なんか、今日……、アレだな。整ってるな」
 「素直に美人だって言やあいいのに」
 安住は何も言わずベンチを少し横にずれる。碧はその隣にすとんと座った。
 「あ~疲れた」
 碧はそう言いながら右手を自分の左肩に回して揉んでいる。
 安住の勤める会社では大体の人間が終電を逃す前に帰宅している。碧もその例に漏れずいつもはある程度のタイミングで仕事を切り上げて帰っているが、今日に限ってはまだオフィス付近におり、しかもこの終着で二人が出くわすというのは二重に珍しいことだった。
 「なんでまだいるの」
 「出張。名古屋まで行ってとんぼ返り」
 「へ~、それでか」
 安住がそう言うと、碧は首を傾けて安住の方をチラと見た。
 「って何が?」
 安住と碧は所属する部署が違い、日常では廊下ですれ違ったりする程度の付き合いである。そして安住は、普段の碧が今日のような所謂をしていないことを知っていた。
 意図を即座に読み取った碧は安住をからかうように言う。
 「どうした~? 何がなんだって~?」
 「いやだから、まあ普段はそういう恰好してないけど、今日はその、めかし込んでるなって」
 碧は笑いながら安住の肩をペシッと叩いた。
 「めかし込むってなんだよ。そういう時は素直に、今日はオシャレだね~とか、いつもよりキレイだね~ってテキトーに言っときゃいいんだよ。女なんて」
 碧は懐からタバコを出す。安住がライターを点けると、碧は咥えたタバコをそのままかざして火をつけた。あわせて安住も、もう一本取り出して火を点ける。
 「自然に言おうとすると、逆に言葉に詰まるというかなあ~……」
 「アンタそんな女性経験ないんだっけ」
 「……ずっと変わんねーよ。学生時代が最後」
 安住が最後に女性と懇意になっていたのは学生時代である。卒業を機に関係が破棄されてからは仕事に没頭し、それ以降はなんとなく出会いが無く、年齢的にはまだ大丈夫だとなんとなく行動もせず、寂しさをなんとなく紛らわしている内に、いつの間にかどん詰まりが目の前になっていた。
 その恋愛事情はまさに、この袋小路の喫煙所のようであった。
 「アンタ結婚は?」
 「しねえだろうなあ、たぶん。まだ間に合うって言ってもな~、そもそも40近くなるにつれて結婚願望自体、段々薄れてきたっていうかなあ」
 タバコはじりじりと短くなっていき、灰は灰皿の中へ落ちていく。
 「ふーん」
 安住がふうと息を吐くと、煙は高く黒い空を舞って、もくもくと消えていった。
 「碧はどうなの」
 「野暮なこと聞くんじゃないよ」
 碧は背もたれに肘を置いた。
 「入った当初は、碧はどっかで結婚して産休入ってそのまま蒸発~みたいなルートだと思ってたけどなあ」
 碧が首を上に向けて煙を吐くと、それはほわほわと霧散して消えていった。
 「アタシもその路線で行こうと思ってたんだけどねー。何がいけなかったんだ……」
 「性格?」
 「あ? アタシよりいい女なんていねーよ」
 「笑わせる」
 吐いた煙は混ざり合い、消えていく。
 安住は碧の方をじっと見た。
 「碧」
 「ん?」
 「もしかしてここよく来る?」
 安住が見ていたのは碧ではなく、碧の咥えたタバコだ。そのタバコは灰皿の中に捨てられている銘柄と同じものである。
 「うん。昼休憩だけ」
 「ああ、お前だったのか」
 「何が?」
 「いや、俺のじゃない銘柄が入ってたから」
 安住はタバコで灰皿の中を指す。
 「ああ、おお! なるほど。じゃあそのメビウスは安住だったか。ふーん」
 碧もまた、邂逅しないもう一人の存在には気づいていた。
 「アンタ昼は来ないの?」
 「なるべく夜に1、2本吸うだけにしてるからな」
 「そうかい。よくねそれで」
 「最近だしな。また吸い出したの」
 「ああ、そういえばそうだ。禁煙してたじゃん安住」
 「ふとした拍子に吸ったらまた止めらんなくなってな」
 「禁煙失敗した奴の9割はそれだよな。なんとなく吸って、それでぜーんぶ崩れて終わるんだよ~」
 碧はそう言ったが、安住は一応聞いた。
 「お前禁煙したことあんの?」
 「無いけど」
 「無いじゃねえか」
 「一般論だよ一般論」
 「ていうかお前、そんな重いの吸っててガタ来ないわけ?」
 碧が今口に咥えているのは、身体によくない成分が他タバコと比べてそれなりに多いものだったと安住は認識している。
 「いいんだよ。ほら、メンソール入ってるから」
 「ゼロカロリー理論みたいだな」
 無論、メンソールの有無はさほど関係ない。
 「健康診断、今年は?」
 「なーーんもない。オールA」
 「身長は?」
 「2ミリ」
 「伸びてた?」
 「うん」
 「どういう身体の構造してんの」
 「伸びしろだよ、伸びしろ」
 碧の身長は170センチを超えており、30代の今もなお伸びている。特に今日は靴のヒールも相まって、あわや安住を抜かんとするほどの高さまで来ている。
 碧はタバコを潰し、灰皿に投げ入れた。
 「アンタこの後戻んの?」
 「うん。状況は変わらずな」
 「大変だねえそっちは。じゃ、そんなアンタにこれをやろう」
 碧はポケットから何かを取り出して安住に渡した。
 「何これ」
 「出張の土産」
 それはあんこの挟まったお菓子、名古屋土産の定番だった。
 「ありがと」
 安住はポケットにお菓子を入れ、立ち上がる。
 灰皿にタバコを捨て、秘密基地を出た。

 
 狭い路地を縦に並んで進む。
 大きい通りにさしかかる辺りで、碧が後ろから安住に話しかけた。
 「安住」
 「ん~?」
 「アンタさ」
 碧はこう言った。
 
 「アタシと結婚しない?」
 
 突然の提案に、思考が一瞬止まる。
 そのまま安住は立ち止まり、そして振り返る。
 「は?」
 碧は真っすぐ安住の方を見ているが、影が差していて安住からは顔が見えなかった。
 安住はさすがに聞き返す。
 「いや、えっ、何言ってんのお前……」
 碧は両手を突き出してぷんぷんと振った。
 「すまん説明が悪かった。よくあるだろホラ、お互い何歳まで良い人がいなかったら~ってやつ。それだよそれ」
 「あ、ああ」
 「だからお互い40なったら。どう?」
 碧は右腕で左の腕を掴む。
 「いやそれは、急が過ぎるだろ」
 「いいからなんかパッと言やあいいんだよ。その……、うん」
 「軽々しく決められることじゃねーだろ……」
 碧は深呼吸し、安住の方に近づいていく。
 二人の距離が近くなるにつれて、安住は身を強張らせる。
 碧は安住の腕に手をかけ……、そしてするりと横を抜けた。
 「ま、いいか。40まで待ってやるよ」
 「あ、ああ、うん」
 「じゃあ、お疲れ~」
 「お疲れ」
 碧は駅の方向へ歩いていった。

 オフィスに戻った安住はぼんやりとパソコンの画面を見ている。
 ぼんやりとした頭で安住は考えた。
 このままいけば40歳には碧と結婚する。いや、碧は俺の2個下だったからえーと……、何年後だ? 40歳でピッタリ結婚するということ? 40歳でほんのりとお付き合いを始め、少し経った頃に結婚? そもそも40歳の男女はいったい何をするんだ……? お金に式に親への挨拶に報告に子供に……
 碧は俺を……、俺をからかう冗談だろうか。そもそもこの歳になって愛だの恋だのと……いや、それは関係ないか。しっかり考えないと。しっかり、考えないと。しっかり……。
 ……ん~。

 突如振って湧いた春。春というには遅すぎるかもしれないが、碧の提案は安住にとって願ってもない機会である。数年後に結婚できるほとんど確約に近いような約束。同じコミュニティで長きを共にした気心の知れた歳の近い相手。性格も合う。どちらかと言えば好き。
 歯に衣着せぬ言い方をすれば、ちょうどいい結婚相手なのである。
 
 そうなのだが……、疲れた安住の頭では考えようとしても整理がつかないのであった。


 安住がポケットに手を入れると、碧からもらったお菓子が入っていた。
 袋を開け、口に放り込む。
 よく分からなかったが、とにかく甘かった。
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