流るる社畜は水のように

春巻丸掃(ハルマキ マルハ)

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第8会話 雨は人を狂わせ

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 ……そろそろ行った頃かな。

 安住はトイレやオフィスで5分ほど時間を潰し、オフィスを出る。
 置き傘など無い。置きっぱなしにしてあると恋淵に言ったのは、罪悪感なく折り畳み傘を受け取ってもらうためだ。現実でもフィクションの中でも、あらゆる人々によって手垢を付けられた方法、常套手段である。
 オフィスから家までの距離は、安住と恋淵双方でそんなに差があるわけではなかったが、自分だけが傘を差し、年下の女の子を深夜の雨空の下に放り出して帰るのは、上の役職として、男として、もっと言えば人として、安住は気が引けたのであった。
 じっとしていたこの5分の間でも雨足は少しずつ強くなってきており、建物の中にいても、水の降り注ぐ音がほんのりと聞こえてくるほどになっていた。

 さっさと帰った方が良さそうだ。

 安住が階段を下りて扉を出ると、やはり雨は強く、水が車道のへりを伝って排水溝の方へ流れていっている。
 さあ走って帰るかというところだったが、これはさすがにコンビニで傘を買った方がいいかと悩む。
 あるいはこのままオフィスに泊まり、雨が止んでから帰るのも手……、安住はそう考えたが、ネットの天気予報によるとどうやらこの雨は明日の夜まで続くらしい。これからがいよいよ本降りというわけである。
 入口で止まり、腕を組んで考える。
 考えるところだった。
 
 「安住さん」
 
 カクテルパーティー効果というものがある。周辺の音が騒がしい場合でも、興味のある分野のワードや、話している相手の声は脳の無意識がはたらいてきちんと聞き取れるという現象だ。
 この時の安住にはそれがはたらいた。雨の中でも、はっきりと聞き取れた女性の声。
 安住が横を向くと、そこには黒い傘を差した恋淵が立っていた。
 「あ、あれ、帰ったんじゃなかったの」
 「いえ、そんなことより安住さん」
 恋淵はわざとらしい笑みを浮かべている。
 「傘は?」
 その目に見透かされているような気がして、安住は白状した。
 「あー……ハハ、ありません」
 「そうですよね~、置き傘なんて見たことありませんし。折り畳み傘を持っててその上、更に置き傘まであるなんて、そんなことあるかなと思ったんです」
 「お見通しでしたか……」
 恋淵は安住を手招きする。
 「ほら、入ってください」
 「はい」
 安住は言われるまま、少しかがんで傘の中へ入る。
 肩と肩が触れ合う距離で、二人は歩き出す。
 「持つよ」
 「あ、はい。お願いします」
 安住が右手で持ち手の部分を掴み、恋淵は手を離す。
 安住は瞬時に考えた。女の子に傘を持たせたまま歩いてしまえば、どこかの金持ちかあるいは成金の様相を呈してしまう。結局傘は安住のもとに戻ってくる形となった。
 言われるがまま傘に入って歩き出したところ、安住は尋ねた。
 「恋淵さんこれ、どこに向かってる感じですか」
 「コンビニ行きますよ」
 それもそうだ。コンビニまでの数百メートルならまだしも、このまま二人三脚でお互いの家までゴールするということもない。
 「もう少しこっち寄っていいですよ」
 「う、ん」
 「なんか高校生みたいですね」
 恋淵は笑いながらそう言ったが、安住は既に中年で、高校卒業を丁度折り返し地点にできるほどの歳を重ねている。かつては学生だったと言われても、それは歴史書の内容みたいに遥か昔のことで、安住にとってこの淡い水色のやり取りはどこか絵空事のファンタジーに感じた。
 雨の中、そんな身をよじりたくなる気恥ずかしさで歩みを早めたいところだが、隣には恋淵がいてそうもいかない。
 ゆっくりと春の中を二人は歩いていく。
 「嫌ですね。社会人になってからもう何年も経ってるのに」
 「まあ、でもそんなもんじゃない?」
 「そんなもんですかね」
 「辛くなるとあの頃に戻りたい! ってなって、昔のことばっかり考えちゃったりしてなあ」
 「戻りたいのはちょっと分かりますね」
 「うん、急に田舎が恋しくなったりして。俺も20代の頃は、ほとんど毎日考えてたなあ。1年目とかは特に大変でなあ」
 「それも昔話じゃないですか」
 「うわ、それもそうだ。はあ……、完全に年寄りの昔話だったなあ今」
 「そうかもですね」
 「ほんといつの間にこんな歳食っちゃったんだか……」
 「何言ってるんですか。まだまだ若いですよ、たぶん」
 「たぶんね。人生100年って言うしね」
 「そうですよ」
 「でも身体の歳だけ取って、精神年齢もあんまり成長してる気がしなくてなあ。30代も半ばで未だにこんなこと言うのもアレかもだけど」
 「ありますよね。……家族とか、子供、でもいたら違ったりするんですかね」
 「子供か……」
 「やっぱり望み薄なんですか?」
 「うん、相変わらず薄——

 喫煙所での一件が、安住の脳裏をよぎる。

 ……ん~、まあそうかな」
 「そう、ですか」
 他愛ない話をしている間にコンビニに到着する。真夜中のビルの一階で煌々と光るコンビニの蛍光灯は、安心感と無機質感を兼ね備えている。
 恋淵は先に店内へ入っていった。
 安住は扉の前で傘を振るい、中へ入る。入って横のところに傘の類まとめたコーナーがあり、先に入った恋淵が商品を吟味していた。両手には色の違う2本の折り畳み傘が握られている。
 「……安住さんは黒と紺ならどちらが好きですか?」
 「ん~紺色かな」
 恋淵は普段社内で淡い水色のカーディガンを着用している。寒色系の特に青色が似合う印象がぼんやりとあり、パッと見は2本ともそんなに変わらない普通の折り畳み傘だったが、恋淵が差すなら紺色、と安住はなんとなくそう思った。
 「じゃあこっちで」
 恋淵は紺色の折り畳み傘を持ってレジへ向かった。
 安住は入口から外へ出る。しきりに雨が降り注いでいる。
 目を閉じれば、雨の降る音は頭の中をうるさく反響する。そしてそれは今にも眠ってしまいそうなほどに静かだった。

 「お待たせしました」
 安住が目を開けると、いつの間にか恋淵が隣にいた。
 「はい、どうぞ」
 「ん?」
 恋淵は今しがた買った紺色の折り畳み傘を安住に差し出した。
 「紺色がいいって言いましたよね」
 「え、俺?」
 「はい」
 「俺に?」
 「はい」
 恋淵の表情は至って真剣である。
 「いや言ったけども、それは恋淵さんなら紺色って意味で」
 「あらすいません。買いなおしてきますか?」
 「待った待った! そもそも俺自分の持ってるし」
 「その傘は私が借りてるのでもう私のものです」
 恋淵はそう言いながら安住の懐に入り、安住の手から黒の傘をするりと抜き取った。
 そして左手に持った紺色の傘をもう一度差し出す。
 「はい、プレゼントです」
 「いやいや悪いってそんなの。じゃあ待った、お金だけ」
 安住はカバンを開けようとしたが、恋淵は紺色の傘をぐいと突き出してそれを止めた。
 「それじゃ意味ないですよ! さっき安住さんも自分で言ってたじゃないですか。プレゼントされたらもうプライスレスです。だから0円です」
 「理屈がおかしいって!」
 「いいじゃないですか。折り畳み傘をプレゼントするくらい。そんなにおかしいことですか?」
 「……変じゃないけど、そうだとしても、代わりにあげるのが中古のそれだとさあ」
 「デザインが気に入ったんです。それにこれも、安住さんからのプレゼントだと思えばプライスレスです」
 恋淵は器用に傘を広げて差す。
 恋淵の頑なな態度に押される安住だったが、心中にはどうしても一抹の申し訳なさが残る。
 「いやまあ、あげるのはいいけど……、ん~」
 安住が腹を決めかねていると、見かねた神様がそろそろ帰れと言っているかのように、びゅうと音を立てて一迅の風が吹いた。
 「うお」
 「風も強くなってきましたね」
 「うん」
 「あ、ごめんなさい、ちょっと持ってもらえますか」
 「ん」
 安住は差し出されるまま紺色の傘を受け取った。
 恋淵は走り出す。
 「あ」
 少し離れたところで、恋淵は差した傘と一緒にくるりと身を翻し、ぺことお辞儀をした。
 「お疲れ様です!」
 「ちょっと!」
 恋淵はまた雨の中を走り出す。
 安住は呆気にとられたまま、その姿を、角を曲がって見えなくなるまでずっと見ていた。
 安住はポリポリと頭をかき、鼻からふうと息を吹いた。
 そして紺色の折り畳み傘を開いてみる。思ったよりもしっかりとしたつくりをしていた。
 それに持ち手や留め具の部分をよく見てみれば、そもそもこの傘は元々持っていた傘と色違いのもののようだった。つまりは安住が恋淵にあげた傘も、前にどこかのコンビニで買ったものだったというわけである。

 恋淵の珍しく強引な態度は、安住にはイマイチ分からなかった。
 しかし、恐らくきっと、何か理由があるとするならこれはたぶん、目の前をしきりに降り続ける雨のせいだろう。
 雨は人を狂わせ、抑圧から情動を解放させる。走って水たまりの上を飛び越えてみたり、音がうるさくて聞こえないからと普段より少し大きい声を出してみたり。

 安住は傘を差し、柄にもなく小走りで、雨降る帰路を駆け抜けた。
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