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22 オーケストラ
しおりを挟む夜。
かおりの演奏時刻が近づいた。
車で仮眠をとっているかおりを起こす時間になった。辛い役目だ。
僕は、かおりの頬を優しく撫でた。
「かおり、起きて。かおり……」
「……はい……」
「大丈夫?」
「はい」
かおりは、掛けていた僕のコートを畳んで返そうとした。
「ありがとう。畳まなくていい」
僕はそのまま無造作に受け取った。今日は僕もスーツを着ている。本当は、コートは必要ない。いつも、かおりのために持っている。帰宅が深夜になるため、移動する車で眠るかおりを包むためだ。僕が直接抱きしめられなくても、せめて僕のコートがかおりを包んでいれば、僕自身が慰められる想いだった。
僕は、主催者や関係者に挨拶してかおりの到着を告げ、控え室まで連れていった。落ち着いている。大丈夫だろう。
連日のレッスンの疲れもあるだろうに、かおりは何も言わずに毎日黙って練習を積んでいた。レッスン後のかおりの様子を見ると、教授のレッスンは相当厳しいようだった。僕にも覚えがある。直前ともなれば精神の限界まで厳しくなる。だからこそ本番はそれから解放される最高の瞬間でもあるのだ。涙の跡などはなかったが、そんなものは顔を洗えばなくなる。疲れ、精神的な悩みは表情でわかる。技術的なことではない。いくらかおりが若くても、かおりが出場するのは高校生部門ではなく、年齢制限のない一般部門だ。それも一位になったのだ。一位になるまでも必死だったが、今日は一位の演奏者として演奏しなければならない別の厳しさがある。普段からおとなしいとはいえ、口が重くなるのは当然だろう。僕に見せつけるようにベタベタしていた教授が、遠い過去にいた人物のようだった。
僕より遥かに高いところにいる、世界レベルの男性に厳しく鍛えられる幸運を、教授に感謝すると同時に、心のどこかで手加減してやってほしいと願うこともしばしばだった。これが、僕の甘さなのはわかっている。多分、僕はレッスンを見ていられないだろう。
だが、かおりは僕に弱音をはいたり、疲れたとかやめたいとか、一度も言わなかった。子供の頃から必死に僕のピアノについてきたように、今は教授の求める音楽を必死につかもうとしているのだろう。そんなかおりが愛しくてたまらなかった。僕はもう、後ろから見守るだけだ。
もしもかおりが音楽に対して不安になったり、怖くなったりしたことが判ったら、僕は甘やかしてしまうだろう。前は、そんな気持ちではなかったのに。かおりを抱きしめてしまったからだろうか……。
ドレスに着替えたかおりは、大人の女性のピアニストの表情をしていた。良い緊張感を身に纏い、肌に触れられないくらいだった。
これまで、発表会でもコンクールでも、かおりは長い髪を自然におろしたままだった。何もしなくても、真っ直ぐで綺麗な髪だった。僕は髪留めを用意しておいた。包装してもらったが、僕の手で留めてやりたくて、ここしばらく御守りのように手にしていた。
細くて長い、さらさらしたかおりの耳上の髪を少しねじって後ろで止めた。光が当たるとキラキラする、クリスタルがついている。鏡に映して見せると、かおりはとても嬉しそうにした。それは紛れもなく、僕だけに見せる笑顔だった。小さい時から変わらずに、否それ以上に可愛くて、抱きしめたいほどだった。ステージにさえ、一人で行かせたくないと思った。去年のあの緊張感を思い出す。人生を賭けるつもりで臨んだステージだ。
僕は、ドレスの裾に注意しながらかおりをステージ袖まで連れていった。
出番直前まで、かおりはステージ袖で真っ直ぐに立ち、下を向き、手を合わせ、目を閉じて、精神を集中させていた。これは、僕が教えたことだ。
教授は、オーケストラの指揮者に楽譜を見せながら、真剣な表情で音楽上の注文をしていた。
かおりの得意なこと、音色、歌わせ方、リズム感、かおりの音楽の全てを最大限に生かすための打ち合わせだった。指揮者は、教授の言うことを瞬時に理解し、その一つ一つに対して、目で了解のサインを送った。
教授、感謝します。
まもなく開演となる。
5分前のベルが鳴った。
僕は、ステージ袖でかおりを見守っていた。
教授がかおりの肩を抱き、最後に優しく頬にキスをした。
「スパスィーバ」
かおりは、目を閉じたままロシア語でありがとうと言った。
教授が僕の方に来てハグをした。いつもの、ちょっと悪戯な態度ではなかった。
「かおりを見れば君のことがわかる。シンイチ、いい男になった。うまくやれよ」
初めてなんじゃないかと思う程、ロシア語で優しい言葉を掛けてきた。何だ? 僕は何も言えないうちに、教授は客席に消えてしまった。
かおりがロシア語をどのくらい理解できるのかわからない。聞こえただろうか。かおりはまだ一人で精神集中していた。大丈夫だ。
開演のベルが鳴った。
コンサートマスターが立ち上がり、ステージ上の演奏者が調弦した。拍手が起こり、指揮者がかおりをステージへ誘った。かおりは中央に出て、客席に向かって礼をした。お辞儀をすると、拍手がさらに大きくなった。演奏前は僅かな緊張からか、控えめに微笑むだけの、かおりの表情が見える。それから、楽団員にも礼をした。
2台ピアノでのコンチェルトも素晴らしかったが、本物のオーケストラは格別だった。
音量が違った。迫力が違った。
かおりはまだ17才の女の子だけど、決して子供が背伸びをしたような音楽ではない。大人の男性の演奏とももちろん違う。純粋で、17才という若さあふれるかおりの良さを最大限に表現できる選曲だった。子供の頃からのきちんとした鍛錬の成果、手や体に無理のない、クラシックにおける幅広いジャンルの勉強、安定した確かな技術を武器に、教授仕込みの洗練された音楽性、オーケストラをたくさん聴いた耳を持つ者のみが可能な多彩なる音色を奏でていた。
一音たりとも不完全な音のない、丁寧で、迷いのない、切なさと情熱も感じさせる1楽章だった。
2楽章のインテルメッツォは、まるで僕に愛を語りかけてくれているかのような、極上の美しさだった。2台ピアノの時も美しかったが、これと比べたら、あの時はまだ少女のような愛らしさだった。こんなに短期間でここまで変わるなんて……。自分にはそんな才能はない。かおりといると、しばしばそんなコンプレックスを刺激される。否、わかっていたことだ。その対象は尊敬であり憧れだ。ライバルですらない。せめて一番近くにいたい。
それから、何か天から呼ばれたような感覚があった。そんなことは、初めてだった。
最終楽章は2台ピアノの時よりもわずかにテンポアップして、更に瑞々しく、歯切れの良いリズムが生き生きとホールに響き、輝いていた。
神がかっていた、というのはこういうことなのかと圧倒された。それくらい、信じられないような豊かな音量、バランスのよい響き、美しいとか素晴らしいとしか言えない、目映い音楽だった。ステージのかおりの弾き姿は、後ろから見ていても、まるでレッスンの如く真横で教授が一緒に弾いているようだった。
最後の音がなくなった次の瞬間、割れるような拍手が起こった。オーケストラの楽団員は、楽器を持っているため拍手をしないが、代わりに音を立てて足を踏み鳴らす。それは、客席の拍手と合わせてものすごい音だった。かおりは間近で感じる初めてのそれにびっくりして固まり、しばらく立ち上がれないようだった。
指揮者が笑ってかおりを立たせて、握手と抱擁をしてくれ、お客様の方を向いてお辞儀をするよう促してくれた。
かおりの笑った横顔が見えた。
かおり、大成功だ。
素晴らしかったよ。
かおりは前を向いてお辞儀をするために、一歩、二歩と、少し前に出た。
お客様全員を見渡すために、3階席まである高さの、上の方を見た……その瞬間、顔を歪め、両手で目を覆って、膝から崩れ落ちた。
僕の体は迷わずそちらへ動いた。
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