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25 居残り
しおりを挟む昨日、学校の後でオーケストラとのコンチェルトが終わって、ようやくほっとした。
思ったとおりに弾けて、すごくすごく幸せだった。いろいろあって疲れたけど、よかったなぁ。先生も優しくて、夢みたいな一日だった。
今朝起きたら、先生がベッドの下にいたのはびっくりした。これは、お友達の秘密事項である「お泊まり」をしてしまったのかしら……。この場合、泊まったのは先生だし、パパが毛布をかけたみたいだから、秘密……でもなさそう。
先生も、秘密だとは言わなかった。毛布を畳んで、
「これ、お父さんにありがとうって返して。また」
と言って帰った。
私の右手首に、シャララと何かが動いた。コンチェルトの前に先生がつけてくれた髪留めだった。髪を結ぶゴムに、透明なキラキラしたものが幾つかついている。学校にはつけていかないから、そうっと外して綺麗な箱に入れた。
学校が終わったら、いつも先生は教授のレッスンに車で連れていってくれて、レッスンが終わる時間にまた現れて家まで送ってくれる。
レッスン前は緊張していて、頭の中で昨日のレッスンを思い出す作業をしている。練習しないまま次のレッスンなのは小さい頃から慣れているけれど、曲は長いし難しいし、教授が仰ることはすぐにはわからない。求めるレベルも高いし、悩む時間もない。帰りの車の中は、唯一ほっとできる時間なのに、疲れていて、いつも以上に何も言えない。本当は、先生と何かお話をしたいのに。
先生は、
「何も言わなくていい。疲れてるだろう。寝ていきなさい」
と優しく頬と頭を撫でてくれて、先生のコートで私をつつんでくれる。
私がにこってすると先生が喜ぶのを知っているのに、それすら出来ないくらい、レッスン後は疲れていた。
教授はほとんどロシア語しか話さない。先生の奥様はフランス人のピアニストで、私は初等部から学校でフランス語の授業があったから、奥様のフランス語で教授の仰ったことを理解する、ということをした。教授の仰ることは、言葉じゃなくて、音楽性や精神性のことが特に難しくて、奥様が優しく、いろいろな説明をしてくださるけれど、フランス語だし、学校の授業内容より難しいから、わかるまでに時間がかかり、わかってから出来るようになるまでに時間がかかった。
教授は毎日何時間もレッスンをしてくれて、それは全くつらいことではなく、先生に近づけることであり、先生に喜んでもらえることであり、そして何より、私自身もピアノが好き。
教授の家ではいつも、レッスンの途中で夕食を食べさせてくれる。見たことのないお料理や、外国の家庭料理、デザート、珍しい食材、調味料、レストランでのマナー、エスコートに慣れること、それからもっとお肉を食べなさいとか、かおりはやせすぎだからもっと太りなさいとか、グラマーになるとシンイチが喜ぶとか、シンイチにはあまりお酒を飲ませるなとか、特にシンイチは何とかってお酒が良くないとか、よくわからないこともたくさん教えてもらった。
それは、レッスンでピアノのことだけを教えてもらうのと同じくらい大切なことのように感じられ、ピアノを弾く時間が少なくてお話が多いこともあった。それなのに、ピアノを教えていただくよりもよくわかるようになったことがたくさんあって不思議だった。
先生が私のことを好きって言ってくれたのは、私がコンクールで一位を頂いて結婚しようって言ってくれた時だった。でも、私が産まれた時から好きだったって。それまで、ずっと言わずに大切な生徒として接してくれた。教授も奥様も、その時の先生と同じ感じがして、私はたくさんの人にありがとうっていう気持ちでいっぱいになる。
先生に教えてもらったこと、教授と奥様に教えてもらったことを、いつか私も他の人に伝えてあげたいと思う。先生は私のことを音大の先生になる資格があると言った。でも、資格があっても私にはまだ自信がない。何をしたら自信がつくのかもわからない。だから、今自分が出来ることを勉強しなきゃって思う。だから私は、学校のテストが全部出来るようにって、毎日予習をしている。夜は眠いから朝に。
いつだったか先生が、
「キスから先は結婚するまでしないから予習しておいて」
って言ってた。そろそろその予習をしなきゃいけない。何の教科書に書いてあるのかな。先生は、大学生だから大学の教科書なのかな。高等部の教科書に、そんなこと書いてあったかな。
誰に聞けばいいんだろう。先生かパパ……。
キスから先って何?
結婚したらするのね?
何だろう。
6時間めの保健体育は、アニメのDVDを見た。テーマは男女交際で、男の子と女の子が仲良くなっていくこととか、男の子は女の子の体に興味があるとか、女の子は男の子にいやなことをされそうになったら断らなきゃダメとか、赤ちゃんができるまでのこととか、男の子と女の子が裸でベッドで抱き合っているシーンがあって、それらは私にはあてはまらないような感じだった。
だって私は、産まれた日からタオルにくるまれただけの姿で先生にずっとだっこされてたって聞いたし。先生はもう大人の男性で、男の子じゃないし。お友達は子供の頃から決まった婚約者がいたり、彼氏がいたりして、私みたいに一度も彼氏がいないって人は誰もいないってことに気がついた。
私はそんなことを考えながら聞いていて、クラスのお友達はアニメを見てキャーキャーさわいだりしていたのに、保健の先生は私に注意をした。口調は優しいので、怖くはないんだけど、どうして私だけなの? どうして皆に静かに観ましょうって言わないのか不思議だった。
「藤原さん、聞こえていますか」とか。
「藤原さん、ちゃんと観ていますか」とか。
おしゃべりしないでいるのに、私って保健の先生から見たらそんなに態度が悪く見えるのかと思ったら悲しくなって下を向いたら、また、
「藤原さん、ちゃんと観ましょうね」
って有り様だった。
顔をあげたら、アニメの中で裸の男の子が裸の女の子の胸をさわっていて、びっくりして恥ずかしくって、やっぱりまた下を向いてしまったりした。
「皆さん、今日の授業はこれでおしまいです。ちゃんと観た人は騒いでいましたが、よく覚えておいてくださいね。そして、困ったことや不安なこと、質問があったらいつでも保健室に来てくださいね」
お友達がキャーキャー言うのは、観ていたからなんだと納得した。
「藤原さんは、先生から見て少し心配なことがあるので、放課後、保健室に来てください。もう一度一緒に観ましょう」
え……そうなの?
マヤちゃんが大きな声で、
「先生! 実は私も心配なことがあるので藤原さんと一緒にもう一度観たいです!」
と言ったら皆が笑った。
保健の先生は、
「あなたは大丈夫。居残りにお付き合いは不要です」
と言って教室を出ていった。
私の前の席のマヤちゃんが私の方に体ごと振り返って言った。
「かおりー!もう一度観るなんて大丈夫? 刺激強くない? 意味わかってる? まだ先生としたことないんでしょ? キスが2回なんだよね?」
本当は……あれからキスした回数は増えたけど、何回になったかはわからなかったし、それは報告していなかった。
「マヤちゃんから見ても、私って今の内容がわかっていないの?」
「うん、それは絶対にわかってないよ。もう一度観るべき! 一緒に行きたかったけどダメって言われちゃったから、一人で頑張って行っておいで。保健室までついて行こうか?」
「そうなんだ……確かに保健体育は予習してなかった。大丈夫。場所もわかるし一人で行く」
「いってらっしゃーい!」
居残りなんて、私は初めて。皆、居残りがある時は大抵何人かいて、とても楽しそうにどこかの教室に移動する。私は一人だし、楽しみだなんて思えない。何がわかっていないかもわからないから質問もできないのに、どうしよう。マヤちゃんは私がわかってないことがわかるらしい。どうしよう。私は何がわからないんだろう。
ドキドキしながら保健室の扉を開けると、保健の先生が温かい紅茶を淹れているところだった。お部屋いっぱいに、紅茶のいい香りがした。
「ちゃんと来てくれたのね」
保健の先生は優しかった。
「……先生、……授業中……態度が悪くてごめんなさい」
私は、やっとのことでそれだけ言うと、涙がこぼれてしまった。
「あらあら、やっぱり心配だわ。怒ってないのよ、座って。お話したいだけなの」
保健の先生が紅茶と綺麗な色のマカロンを持ってきてくれて、ソファに並んで座った。
「藤原さんは、大人の男性とおつきあいしているんでしょう?」
「ピアノの先生です。つきあっている……っていうんでしょうか……高等部を卒業したら、3月末に結婚することになっています」
「まぁ、そうなのね。よかった。心配が減ったわ」
「……えぇっと、何に心配をおかけしてしまっていたのでしょうか」
「少し前から、元気がないように見えたの。藤原さんは、お勉強は全く問題ないから、恋の悩みかなって思っていたの。心配いらなかったかしら」
「あ……そういえば、私の先生が、私に対して少し冷たいことがあって、どうしたらいいかわからなかったことがありました」
「それは解決したのね」
「はい。わからないことは先生かパパに聞いて、教授にはお勉強のことだけ聞くって決まりました」
「教授ってどんな方なの?」
「ロシア人のピアニストです。私は今、その方にもピアノを習っていて、先生の前で私を抱きしめたり、頬にキスをしてくるんです。私もちょっと戸惑いますが、でも、教授がしてくるキスはパパと同じような気がしますし。でも、外国人の男性は普通なんですって?」
「そうですね。とてもよくわかりました」
保健の先生は笑った。そして、私が知りたかったことのいくつかを教えてくれた。
今日のDVDの内容は、男の子も大人の男性も同じで、親愛のキスをしたがること。男性が女性の体に触れたい気持ちがあること。そして赤ちゃんができることを、保健の先生の言葉で、私がわかるように話してくれた。紅茶を飲みながら過ごす時間は、私が想像していた居残りとは全然違った。
最後に、と保健の先生から『私と先生の関係』を聞かれた。
私のピアノの先生だってことはさっきお話したのに……。私が質問の意味をわかっていない?
さっきのマヤちゃんとの会話を思い出した。
(かおり! 意味わかってる? 先生としたことないでしょ? キスが2回なんだよね?)
違ったら恥ずかしい。でも、私がわかっていないのだとしたら教えてもらわないと。
「……あの、先生に、……2回だけ、キスをされたことがあります」
と、勇気を出して言ってみた。
保健の先生は、安心したような顔になった。
「あなたのピアノの先生は、あなたをとても大切にされているのね。あなたも、先生を大切にするように、あなた自身のことも大切にしてね。もし、これから何か悩むことがあったら、いつでも来てね。大学生になっても、結婚しても、いつでも来てね」
保健の先生が優しく言ってくれて、私はほっとして、これから不安になるようなことは何もないような気がして、また涙がこぼれてしまった。何の涙だったのかは、よくわからなかった。
悲しい、でもない。
嬉しい、でもない。
先生のことが大好きなのに、今日だけは会いたくなかった。少しだけ一人でいたい。今まで、そんな風に思ったことはなかったのに。
この気持ちが何なのか。
今日はピアノのレッスンがないから、一人でゆっくり考えられるだろう。
私は保健の先生に挨拶をして保健室の外に出た。
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