君が奏でる部屋

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60 祈り、そして希望

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 5月の最終日に、かおりと平山がソリストコンチェルトのオーディションに出場する。リストの変ホ長調のコンチェルトだ。かおりに何かあったら、僕が代役でオケパートを弾くつもりで、僕もレッスンしながら練習した。

 かおりに何かあったら……。

 学生のオーディションに、講師や教授は参加できない。だが、オケパートの学生が急病だったら講師でもやむを得ないと判断されるだろうか。かおりの代役を考えるなら、他の参加者の代役も出来るようにしておくか。僕はオーディション参加者の曲目リストを眺めた。

 かおりが弾いたシューマン、僕が弾いたチャイコフスキー、平山のリストは大丈夫として。

 他の参加者はバッハ、ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームス、ショパン、ガーシュウィン、バルトーク、サン=サーンス、プロコフィエフ、メンデルスゾーン、ラフマニノフ、グリーグ……。ものすごく勉強させられるな。

 かおりに何かあったら……。

 最近、そればかり考える。何もなければいい。違う。生理痛も、悪阻も、どちらも嫌だ。かおりが望むなら、授かっていてほしい。そして願わくは悪阻などありませんように。毎日毎日、祈るような気持ちで過ごした。



 5月上旬の連休も、特別なことはせず、僕もかおりも練習したり家事をしたり、一緒に食材の買い出しに行ったりして、かおりの様子を見て過ごした。かおりはもともとおとなしいし、毎日穏やかに生活していれば、情緒が安定していて、何も変わらないように見えた。

 このあたりは都内といっても庶民的で、商店街があり、八百屋にはおかみさんがいて、魚屋には親父さんがいて、喫茶店には気のいいマスターがいて、4年も通っていればお互いに顔見知りになっていた。いつまでも住みたい街だ。

 かおりが新居での生活に少し慣れてきた頃から、僕はできるだけ一緒に買い物に連れて行き、挨拶をした。

 馴染みの魚屋には、いつものおじさんがいた。
「こんにちは。ご無沙汰してます」
「あれぇ、槇君が女の子連れているなんて初めてじゃない?彼女?」

「結婚してこの近くに住んでいるんです。卒業したけどまた来ますので、よろしく」
「あれ、槇君卒業したの?早いねえ、結婚も!そりゃこんなにかわいい子なら早く結婚してつかまえとかなきゃね!音大の子?」

「うん。魚の選び方とか、教えてあげてくれるかな。二人共慣れていないから、当面は切り身だけで」
「任せときな!」




 八百屋さんではあまり買い物をしたことはなかったが、何故かおばあちゃんのような存在だった。
「おかみさん、こんにちは。おかげさまで卒業したんだ。妻のかおり。この近くに住むから、まだまだお世話になります」
「あら、槇くん。聞いたよ~、大学の先生になったんだって?綺麗な奥さんもらって~。そうなの~。料理はできるの?」 

「ははっ、二人とも実家暮らしだったから僕と同じくらいかな。一緒に料理覚えていくよ。しばらく二人分だから、買いすぎたりしたら注意してあげてくれますか」
「音大の子でしょ?わかるよ~。はいはい、悪くならないように、ちょっとずつ買いにおいで。美容にいい果物もね」

「ありがとう。おかみさん暑がりだったでしょ?そろそろ暑くなるから体こわさないようにね」
「ありがとうね~、槇くん」


 喫茶店はいくつもある。
 外から覗くと今日は営業中でも学生はいないみたいだ。ちょうどいい。中に入ると、マスターも奥さんもいた。僕はかおりの肩を抱いて紹介した。

「こんにちは。お久しぶりです。奥さんのかおり。」
「あぁ、槇くん!結婚したって皆大騒ぎしてたよ。噂の奥さん、美男美女だ!来てくれて嬉しいよ。どうぞ座って!マグカップ、どれがいい?」

 僕はかおりの肩を抱いたまま、並んだマグカップの方を向かせた。

「かおり、ここは好きなマグカップに注いでくれるんだ。僕のも選んで?」 
「うわぁ~、槇くんが女の子に優しくしてるの、初めて見たかも。」

「そう?彼女にはずっと優しくしていたけどね」
「わぁ~、槇くんてそんなこと言うんだね」

「普通だよ」
「いいや!こんな槇くん、見たことないよ?槇くんが来ていなくたって、ここではつれない槇くんの話題が上らない日はないし、高橋くんとは違うからね~」

「マスター、それ以上は……」
 僕は笑って目で制した。
「おっと失礼」



 かおりは買い物に行く僕についてきて、すれ違う人、お店の人、僕がいろいろな人と話をする度ににこっと笑って丁寧にお辞儀をしたり、小さい声で挨拶をしていた。

 飲み物の自動販売機ですら買い物をしたことがなかったらしいかおりが一人で買い物に行って、困ったことがあったら助けてもらったり、かおりから助けを求めることができればと願う一心だった。

 僕たちが住んでいた社宅も環境も、このような人間関係はなく、近くに出かけるのも車だし、買い物は外商だった。商店街が物珍しかったわけではなく、人間同士の交流はいいものだ。かおりも慣れてくれたらと思う。


 そんな日常で、僕は毎日さりげなくかおりの額に手を当て、頬を包み、かおりの暖かさを測った。かおりの平熱は低く、生理前に体温が上がってようやく人並みになる。今もまだ暖かい。それでも36度後半か、37度にはならない。かおりは意識しているのだろうか。

 夏に向かい、日差しが強くなり、眩しがるかおり。気温が上がり、体温も上がり、暑がりになるかおり。これから具合が悪くならないか、心配だ。家と職場が近くて本当によかった。連休明けは、どんな生活になるのだろうか。楽しみというか、怖いというか、こんな気持ちは初めてだ。演奏の本番前の緊張感とは、種類が別物だ。命がかかっている、その重みだろう。




 連休最終日。

 未だに体温が高く、少しぼんやりしたかおりの手を握って、一緒に買い物に出かけた。僕はもう、この時には半ば確信があった。妊娠していなければ、少しひんやりした、いつもの体温に戻るはずだった。かおりは既に薄着で、風邪の心配もしたくなる程だった。今に始まったことではないが、この時期からそんなに薄着で、夏はどうするつもりなのかと考えながら、かおりをドラッグストアに連れて行った。

 妊娠検査薬を探した。
 棚の前でかおりに見せて、買ってみるかどうか聞いた。かおりは箱を凝視し、書かれた文字を隅から隅まで読み、頷いた。

「飲む薬じゃないんだ?」
 僕は軽く驚いたが、何でもないことのように答えた。
「飲む薬じゃないみたいだね。」

 帰宅してからは、鼓動が更に速くなる思いだった。検査するタイミングが早いと、正確な結果が出ないと書いてあった。一人で向こうに行ったかおりが、結果を持ってパタパタと走ってきた。

 あぁ、望んだ結果になったか。

 見せてもらうと、陽性のところに薄い線が、終了のところに濃い線があった。薄いけれど、確かにそれは線だとわかるものだった。かおりは下を向いて、でもとても嬉しそうにしているのがわかった。

 僕は、本当に赤ちゃんができたという事実にびっくりした。本当にできるんだ?信じられない。簡単だったし、嬉しかったし、皆驚くだろうなと、いろいろな思いが交錯した。

 かおりをふわりと優しく抱きしめた。

 かおりのお腹の中にいる、赤ちゃんも一緒に抱きしめたつもりだ。もう、何も迷うことはない。あの夜、ホテルの庭園で僕が迷ったのは何だったんだ?そして、僕を迷いから救いだしたのは何だったんだ?……それはすぐに思い出した。僕を見る、かおりの眼差しと真剣な気持ちだった。

 かおりと結婚できて、今までも幸せだったのに、こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだと思った。抱きしめた腕の中に、かおりと僕の赤ちゃんがいるなんて。かおりの背中に、涙が落ちた。

 僕がそんな神聖な気持ちでいたのに、かおりは動きたいらしく、腕の中でうずうずしていた。

「マヤちゃんにだけは報告してもいい?結婚する報告が遅れた時、すごく怒られたの。今までで一番怖かった」
「僕よりも?」

「同じくらい」
「わかった。どうぞ」

「ベッドでおとなしくしてきます」
「よろしい。これからは走ったり、重いものを持ったり、体を冷やしたりしてはいけません。わかるね?」
「はい!」

 かおりはベッドの中でマヤちゃんにメールをした。ベッドの中にいるかおりは、音も立てずにウキウキして、何だか可笑しかった。


 かおりがママになる。
 僕がパパになる。

 うん、いいかも。

 賑やかな母親がおばあちゃんか。
 「おばあちゃん」とか言ったら怒るかもな。
 楽しみだ。


 慎ちゃんでもいいけど、名前を考えよう。
 どんな子に育つだろうか。

 楽しみだな。















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