君が奏でる部屋

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70 夢と現実

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 夢であってほしい。

 かおりを探したい想いでいっぱいだった。僕は、実家の狭いベッドから出てリビングに行った。

 母親がキッチンで何か作っていた。母親はピアニストで音大講師で、演奏会や練習の為に時間も曜日も不規則な仕事だから、僕たちのために作れる時にいろいろなものを作っておいてくれた。家の中にあるものは、僕もかおりも、何でも食べてよいことになっていた。もちろん、いつも食事が用意されているわけではなかったが、冷凍された野菜やハム、パスタやパンケーキミックスなど、僕たちが簡単に調理できる食材は必ず揃えてあった。僕とかおりは小さい頃から練習はもちろん、おやつも夕食も、そんな風にして一緒だった。


「慎一、起きたの?何か食べる?選択肢は多くないけど、トースト、スープ、サラダと煮物があるわよ?自分で好きなだけ食べてね!」
 朝から賑やかだな……。

「かおりの家に行ってくる」
 パジャマではなかったが、寝ていた服のままで家を出た。無性に、かおりの家を探したかった。

 いつものように、勝手に鍵を開けて入ると、かおりの靴があった。かおりの靴は、全て新居に運んだわけではない。何かを期待している自分と、期待しないようにと囁く自分がいた。

「やぁ慎一くん、いらっしゃい。久しぶりだね。遠慮しないで、今まで通りいつでも入ってきてね」
 お父さんはいつも通り穏やかで、ちょっとだけ僕に顔を見せて、奥へ戻っていった。……変わらないな、ありがたい。ここは僕にとっても実家同然。むしろ実家よりも安らげる家だ。

 ピアノがないかおりの家は、リビングで一緒に過ごした想い出がいっぱいだ。

 ベビーベッドの中にいる、にこにこしたかおりを眺めて過ごしたこと。

 かおりと床に寝そべって、かおりが気に入った絵本を何回も何回も読んであげたこと。

 かおりが書いた絵に、僕が勝手に何か書き足してかおりが目を輝かせたこと。

 家じゅうのティーカップをテーブルに並べて、紅茶の葉と濃さを変えて飲み比べたこと。

 かおりの宿題を見たり、勉強を教えたこと。

 お父さんに、かおりと結婚したいと話したこと。

 かおりと真剣に話をしたこと。

 制服姿のかおりを抱きしめたこと。

 今も、ここで待っていたら「先生?」と言って、にこっと笑ったかおりが現れるような気がする。

 リビングには、まるでかおりがいるようで、いない。





 かおりの部屋にも行ってみた。もともと生活感のない家に、きちんと整頓された部屋。整えられた寝具、畳まれた洋服……の他に、まるでさっきまで着ていたかと思うようなパジャマ。かおりが気に入った、ブルーのマタニティのパジャマだった。

「慎一さんに身の回りのものを買ってもらえるの、うれしい。女の子が欲しかったならピンクにするけど、男の子が欲しいからブルーを着て寝ることにする!」
とにこにこしていたっけ。

 男の子が欲しくても性別はわからない。
「かおりは、ピンクもブルーも似合うよ。僕は、かおりも赤ちゃんも元気だったら、どちらでもいいからね」
 僕は、かおりにそう言ったんだ。


 かおりも赤ちゃんも、元気だったら。


 本当に、どちらでもいい。 


 かおりも赤ちゃんも元気だったら……。


 そのパジャマに触れてみたかったが、冷たさを感じるのが怖くて手を出せなかった。



 かおり……。


 泣きそうになる。泣いたら何かに負ける気がして、堪える。その時、かおりの笑い声が聞こえた気がした。


 気のせいか。

 気のせいではない……?
 かおりと、もう一人が笑っている。
 どこから?……僕は立ち上がって、声が聞こえたところを探した。


 この部屋は……入ったことがない。かおりのお母さんの部屋だろうか。いつの間にかお父さんが後ろにいて、どうぞ、と言って開けてくれた。

 不思議な感覚だった。息を吸うと、鼻に何かを感じた。不快ではないが、何だ?


 かおりと、かおりのお母さんがトランプをしていた。
「あ、慎一さん、おはよう」

 僕はよくわからなかった。

 僕は、おそるおそる聞いた。
「……かおり、今日は何月何日?今は何ヵ月?」

 かおりはにこっと笑って答えた。
「今日は11月17日の日曜日。今は8ヶ月で、明日から9ヶ月の一週目。毎朝、慎一さんが教えてくれるでしょ?今日から私が教える係?」


 僕は混乱した。


 僕は、手を伸ばしてかおりの頬を撫でた。
 あたたかい。

 何だ……?……あれは夢……?






 かおりの手を握った。
 柔らかくて、かおりが握り返してくれた。


 お腹に手をあてた。
 手のひらに胎動を感じた。


 かおりの目を見た。
 かおりが見つめ返してくれた。


 かおりを抱きしめたら、
「え?あの、あの、どうしたの?」

 かおりは困っていたけどいやがらないでいてくれた。いつものかおりだ。


「……怖い夢を見たの?」
 かおりが優しく聞いてくれた。

 あぁ、そうか、そうなんだ。

「……うん」
「大丈夫よ」

 かおりが抱きしめ返してくれた。

 少し落ち着いた僕は、部屋に飾られた大きなサイズの絵画に気づいた。繊細なタッチ、柔らかい色づかい、とても丁寧で、どれだけの時間をかけて描かれたものだろうかと思った。綺麗で、目が離せなくなった。


 かおりが、
「これは、ママが書いた絵なの」
と教えてくれた。

「もしかして、大学にある絵と……」
 僕は思わず聞いてみた。

「……そう、対になってる。私が描いたの。大学で4年かけて、この二枚を描いたの。一枚はここに、もう一枚は大学の玄関に飾ってくださって、まだあるみたい。……気づいてくれて、ありがとう」


 かおりが、奥にあった小さな絵も見せてくれた。
「ママ、見せてもいいでしょ?今書いているのはこれだって。色がつき始めた。前は下絵だったの。毎朝、学校に行く前に見て、帰ってから見てた。今は、週末に見るから、たくさん進んでいてびっくり楽しみなの」

 かおりが卒業式の日に言っていたのはそれだったのか。……そうだったのか。かおりの感性は、お母さん譲りだったんだ。大学に飾られた絵画を見て、かおりの音色を連想した僕は、秘密の大発見をしていたんだ。やっぱり素敵だ。僕の母親がかおりのお母さんを好きなのが、痛いほどわかる。僕はその絵に感謝する気持ちだった。

 かおりとかおりのお母さんは、言葉がいらなかったんだ。僕とかおりが音で会話していたように、お母さんの書く線の筋や方向、重ねられていく色で、かおりには充分に伝わっていたのだろう。そして、かおりは表情でそれに対する返事ができただろう。

 その風景は、まるでルノワールの『読書する少女たち』のようだった。そうか、この鼻に感じるのは油彩の薫りだ。


 かおりのお母さんが、
「かおり、今度は慎一くんと『ジジ抜き』をしたら?」
と言った。

 かおりのお母さんと話をしたのは、初めてかもしれない。それにしても、かおりとかおりのお母さんは『ジジ抜き』をしていたのか?これまた会話は不要だなと、可笑しくなった。

「どうして『ジジ抜き』?『ババ抜き』じゃなくて?」 
「二人だとババがすぐにわかっちゃう……。」
 僕は、堪らずに笑ってしまった。

「それで『ジジ抜き』なの?」
「うん。最後までわからなくて、最後になってもわからないところが、納得いかないの」

「『ジジ抜き』だって途中からわかるだろう?僕は遠慮しておくよ」
 かおりと、かおりのお母さんを見た。背格好も雰囲気も同じ、綺麗な長い髪。物静かで、微笑みが似合う美しい女性。かおりは歳を重ねても、こんなに綺麗なんだろうかと、今までとは異なる鼓動が聞こえてきそうで、恥ずかしくなった。

「家で練習してくるよ」
 僕は玄関に向かった。

「うん。平山さんのコンチェルト、来週だものね」
「そうだな」

 玄関まできてくれたかおりの髪を掬って、髪にキスをした。

「綺麗だ」

 かおりは僕に髪を取られたまま、僕の胸に顔を埋めた。何か囁くに違いない。僕は注意深く、聞き逃さないように耳を傾けた。
「小さい頃、先生が、ママの髪をキレイって言ってたから、同じようになりたかったの」

 そうだったのか。覚えていないな。僕の母親はわざわざ無駄にくるくると巻いている。何もしなくても、自然に下ろしただけの綺麗な長い髪が、僕は好きだった。

 僕は階段で一階に降りて、自分の実家に戻って練習をした。

 今でも、夢ではないだろうかと半ば信じられない気持ちだったが、ピアノで弾けば手のひらに音の空気を握るような感触があり、フォルテで弾けば全身の細胞が興奮した。夢なんかではない。 



 僕は、一旦全ての残響を無くしてから、胸の前で十字を切った。

 それから、全てのことに感謝する想いで練習を積んだ。

















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