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音大時代の想い出
5 初めてのおこづかい
しおりを挟む私は「おこづかい」をもらったことがなかった。
学校は歩いていけるし、特にほしいものもなかったし、特に使いたいこともなかった。
そんな私が、初めて買いたいと思ったものは……。
私のピアノの先生が演奏会に出演されるので、聴きに行った。平日の夜だったから、学校から帰って制服から私服に着替えて急いで行った。……だからっていうわけじゃない。もっと前に気づいて、準備しておけばよかったんだ。
私の知らない、音楽大学の世界。学生でもある先生の普段の世界。
先生は、演奏後にロビーで待ち合わせて一緒に帰る約束をしてくれた。密かに楽しみだった。先生のピアノも大好きだし、先生のことが大好きだから。
私のレッスンの時にも聴かせてくれた、リスト作曲の『スペインラプソディー』は、華やかで素敵な演奏だった。演奏の後、ずっとそのまま座っていたいくらいだった。でも、プログラムはあと一人演奏者がいる。演奏が始まったら外に出られなくなる。
最後の演奏があるのに、たくさんの人が客席から出ていった。
私は無理矢理体を起こして、ロビーに向かうドアを開けた。ドアはすごく重かった。
廊下は騒がしかった。演奏会の会場は大抵静かなのに、何だろう?私は不安になって、少し怖くなって、でもロビーに行った。
ロビーから、騒がしい方向をちらっと見ると、女の人がたくさんいた。
次の瞬間に見えたのは、廊下に出た先生が、その女の人たちに囲まれて、お花やプレゼントを渡されているところだった。
私は咄嗟に化粧室に入った。
何故だかわからないけれど、見ちゃいけないような、見たくないような、私がそこにいてはいけないような気がして。
素敵な演奏を聴かせてもらって幸せだったのに、もう、怖くてたまらなかった。
どのくらい、立ち止まっていただろうか。
「失礼ですが、……かおりさん?」
知らない女の人に話しかけられた。どうして私の名前を……知らない男の人に話しかけられないようにと注意されたことはあるけれど、私の名前を知っている女の人だし、名札を着けていたから、大学の先生かな。
「……はい、かおりです」
「突然ごめんなさいね。今日の演奏者からこれを頼まれたの。わかるかしら?」
紙を見せてくれた。
化粧室にいる女の子に伝えてほしい
「教授の家にいて」
髪の長い165センチ位の中学生
名前は「かおり」
あ、これは先生の字だ。少し急いで書いたみたいだけれど、私のことが書いてある。
「はい、わかります」
「よかった。教授ってもしかして教員住宅の?直ぐ近くだけどわかるのね?」
「はい、大丈夫です。でも、ホールの出口がわかりません……」
「ふふっ、では正門まで行きましょうか」
私はその女の人の後についていくことにした。そうしたら、直ぐに教授に会った。
教授は女の人に、
「カオリ!この子は僕の生徒だ。君、ありがとう」
と英語で言って私を抱きしめた。
教授には何回かお会いしたこともあるし、先生の先生だし、ピアノを教えてもらったこともある。知らない人じゃないけど、パパとも先生とも違う男の人で、いつもドキドキする。頬にキスをするし、肩を抱いてくるし、抱きしめられることもある。静かで穏やかなパパよりも熱い。でも、パパと同じ感じもする。
教授は、私には少しだけ日本語でお話してくれるけれど、あまりわからないみたいだった。私は一生懸命英語でお話した。
「先生の演奏がすごく良かった。私ももっとピアノが上手になりたいです」
教授はとても真剣な目で私を見つめた。
あ、この目は、先生と同じだ。
教授のお宅で、私は3ヶ月前に発表会で弾いた『オルガンのためのプレリュードとフーガ』を弾いた。これも、今日先生が弾いたリストの作品。バッハが作曲して、リストが編曲した。今日のリストの演奏の華やかさを思い出して弾いた。発表会の時よりも輝いた音で弾けた気がする。
今練習しているバッハ作曲ブゾーニ編曲の『シャコンヌ』も弾いた。これはまだあまり練習をしていないから途中まで。教授はロシア語で何か仰ったけれど、私にはわからなかった。でも、教授は弾いてくださったから、たぶん、こういうことかなって。私はその場で真似してみた。
先生が来た。
先生はシャワーを浴びてくるみたいだった。教授は私を見ていたからそのまま練習した。教授が私の手や腕を取って、力の使い方を教えてくれたみたいだった。ロシア語だったから、何て言っているかはわからなかったけれど、優しくて、力が抜けていくのがわかった。……それから、私の手を、そのまま、鍵盤の上に戻してくれた。
その後の音は、まるで自分が押した音ではないかのような……不思議な感触、優しい音色だった。魔法みたいだった。教授は、静かに笑って、とても満足そうだった。
先生がシャワーを浴びて出てきた。今の私の音、聴いてくれたかな?先生と目が合った。初めて見る表情だった。どうしてだろう。……先生の髪が濡れていた。
お夕食までの間、先生はさっきまで着ていたタキシードって言うのかな?スーツを畳んで鞄に入れていた。鞄には靴も入れていたから大きかったけれど、……楽譜しか入っていなかったみたいだった。たくさんのお花やプレゼントを渡されていたように見えたけど、それらは何も持っていないように見えた。受け取らなかったのかな……。
先生に家まで送ってもらう間、教授といた時の緊張感がなくなって、電車の中で立ったまま眠っていたみたいだった。先生と一緒なのは、ほっとする。パパといる時みたいに。先生は優しいから。
家に着いてから、パパに今日のことをお話した。先生にプレゼントを渡したかったのかどうか聞かれた。プレゼントを渡したかったかどうかより、悲しかったことを、うまく話せなかった。
次の日曜日の朝、パパがお金をくれた。
「これをかおりにあげよう。パパと一緒にお買い物に行ってみるかい?」
「うん、行く。じゃあ、先に練習に行ってくる」
「どのくらい?」
「一時間」
「わかった。それまでに支度をしておくから」
私は先生の家に行った。
ここは社宅で私のパパと先生のお父さんは同じ会社。私のママと先生のお母さんが同窓生で仲良し。私も先生も、両方の家の鍵を持っていたから、いつでも行っていいことになっていた。
先生の家では、先生のお母さんがいて、お料理をしていた。私はご挨拶をしてリビングにあるピアノで練習を始めた。
少ししてから先生がリビングに来た。部屋着姿だった。そんな、飾らない先生のことも好きだった。
「おはよう、かおり。今日は早いね」
「おはようございます。今日はパパとお買い物に行くので、一時間だけ練習に来ました」
「わかった。それを弾いたら後でエチュードを聴かせて。少し見るから」
「はい」
先生は向こうに行って、戻って来たときにはきちんとした服に着替えていた。綺麗な水色のシャツだった。私は姿勢を正してモシュコフスキーのエチュードを弾いた。
この前、教授に教えてもらった音の押し方、音の出し方、手と腕の使い方を思い出しながら弾いた。
「かおり、力が抜けて手の使い方が良くなってる。音そのものが良くなった。教授に教えてもらった?」
「はい。言葉はわからなかったけれど、こうかな?って」
「それでいい。とてもいいから、忘れないように。僕も、そう弾いているよ。教授のように上手く伝えられなかったけど」
「……教授には、……私の弾き方がダメだって言われていません。……あの、先生の音に近づけましたか?」
先生は、何も言ってくれなかったけれど、でも、でも何か、嬉しそうに見えたような……。違うかな。
「そのエチュードはもうOK。明日から次のエチュードにしよう。今日は好きな曲を弾いてごらん。奏法を変える時はイメージが大切だから」
私はテーブルの向こうの棚の、お目当ての楽譜を探しに行った。確か、私の目の高さより、少し上の、この辺にあったはず……。
先生が私の近くに来た。
「かおり、何を探している?」
「……リストの『献呈』……」
「あぁ、それならここに」
先生が腕を上げて、もっと私に近くなった。
ピアノのレッスンでもいつも近くにいるのに、私はドキドキした。
パパには、もっとぎゅうっとするのに、先生とは、触れるか触れないかくらいでドキドキするなんて……。
先生が楽譜を取り出してくれた。
「まだ弾けないけど、……大好きだから……」
「『献呈』が好きなの?」
「……はい」
先生が好きなんです……なんて言えないけど。
私は『献呈』の最初の部分だけを、指の重さと、手の重さと、腕の重さを考えながらおさらいした。
言葉の重みも……。
私は、言葉では上手く伝えられない。伝えたら、先生が困るかもしれないし。小学生で弾いた『愛の夢』は、もう恥ずかしすぎる。でもパパは、私が先生のことを好きなのを知っている。教えたわけじゃないのに。
一時間さらった。
「今日はこれでおしまい?」
「はい、今日はパパとお出かけするので。ありがとうございました」
「わかった。じゃ、また明日ね。パパと楽しんできてね」
「はい、さようなら」
パパと一緒に、先生へのプレゼントを買いに行った。
デパートで、男性用のハンカチを買った。白と水色と、どちらにしようか迷った。パパは、にこにこしているだけで、こちらがいいよ、とは言わなかった。
でも、私が、
「教授にも御礼に、買おうかな?」
と言ったら驚いていた。教授の色は濃い色だと思ったから、迷わなかった。
綺麗に包んでもらった。先生のがこちらで、教授のがこちら、とわかるようにしてもらった。
パパとは美術館に行くことにしていたけれど、その前に、教授のお宅に寄って見ることにした。電話番号も知らないし、いらっしゃらなかったらまた今度、くらいの軽い気持ちだった。今日だったらパパも一緒にご挨拶できるし、お会いできるといいなと、インターフォンを押した。
出てきたのは、先生だった。
「先生?」
「かおり?お父さんも。……こんにちは」
「慎一くん、これはこれは。教授にお会いできるかなと。かおりが御礼をお渡ししたいと言ってね。教授は御在宅かな?」
「えぇ、どうぞ」
朝も会ったのに、また会えた。私は何だか嬉しかった。
教授が出てきて、私は先日の御礼にと、包んでもらったプレゼントを渡した。教授は、そんなに?っていうくらい喜んで、パパにも挨拶をしてくれた。パパは、少しだけどロシア語で教授と会話していた。明らかに私のことで御礼を言っているんだなってわかった。先生にもプレゼントがあるんだけど、今じゃなくて、二人の時にしようかな。
パパと教授が話していたから、先生が私に聞いた。
「かおり、これからパパとどこに行くの?」
「動物園です」
先生は一瞬止まった後、笑顔で、
「そうなんだ。行ってらっしゃい」
と言って、ピアノのところに戻っていった。
パパは話を切り上げて、二人で挨拶をして外に出た。
「教授はいい先生だね。かおりのことを大切に思っているね。よかったね」
「うん。先生にも会えたし、来てよかった!動物園行こう?」
「動物園?美術館だろう?」
「……そうだった。……あ、私、これから動物園に行くって先生に言っちゃったかも」
「先生に、言い直しに戻るかい?」
「ううん、レッスンしてるから、行かない。動物園に行く」
「……動物園でも、パパはいいけどね。先生はどう思ったかな?」
「えっ?」
私は、背の高いパパを下から見上げた。
先生と同じくらいなのかな?と思いながら。
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