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講師時代の想い出
4 演奏
しおりを挟む夕方。
最後の授業の後の広いレッスン室。
二組のコンチェルトの試演会。二組だけでも、リストのピアノコンチェルトは約20分強、シューマンのピアノコンチェルトは30分弱といったところだ。僕はクジを作り、それぞれに引いてもらった。
シューマンが先だ。
「一番が如月。二番が平山。一番、どうぞ」
如月さんと小林さんが演奏した。僕は、この二人の演奏を聴いたことがなかった。音楽大学の大学院の定員は少ない。小林さんはこの大学出身なら、大学の学部でも上位者だった筈だ。他大学からの院進学者の如月さんの演奏は、聴いてみたいと思っていた。大学毎のカラーの違いというものがあるだろうかと。そういう興味もあった。
演奏が始まった。
成る程……。確かに、この大学ではあまり多くないタイプかもしれない。しかし、誰かに似ている。この大学卒で、この大学院卒で、真面目で礼儀正しくて、華のある女性……。確かにいた筈だ。
……判った。僕の母親だ。この大学は、昔は音楽教師やピアノ講師になるお嬢様が多かったという。その中で一際目立った音と演奏で、大学も大学院も首席で卒業したという僕の母親。天才肌というタイプではなく、「たくさん練習したわ、それだけよ」という謙遜の仕方をすると聞いた事がある。想像がつく。納得できる。
母親は、多くの受験生、音大生のレッスンをしても、母親と同じタイプの演奏をする生徒はいない。なのに、生徒同士の演奏は似通っている。不思議だった。僕は小学四年生まで母親に習い、五年生からはロシア人の教授に習った。僕のためになる、僕にとって良い指導者を探してくれたと父親から聞いた。僕が母親の演奏から離れたのはそのあたりからだろう。そして後に妻も平山も、教授に教わった。僕達三人は同門同士で、特別な関係だ。しかし、もう教授はいない。
作曲家毎の演奏スタイル、門下の傾向、大学のカラー、演奏者の個性、技術、表現力、情熱……。僕は様々なことを考えていた。
平山の番になった。
平山の演奏は既に何回か聴いているが、安定している。そして、確実に精度を上げていた。僕達は同じ歳だ。平山はコンクールの高校生部門で一位を獲り、それから教授のプライベートレッスンを受けていた。音楽の道に進むことを両親に反対され、別の大学に進学したが、翌年音大を受験し、特待生として僕の後輩となった。頭が良く、知的でセンスがあり、それでいて情熱を感じさせる演奏をする。暗い曲ばかり好んだ僕とはタイプが違い、明るい曲も似合う。いいピアニストになることは間違いない。
妻のオーケストラの音色も見事だった。僕達は、たくさんの演奏会を、オーケストラの音をふんだんに聴いて育った。そして妻はそれを自分のものにしていた。
僕の生徒ではあるけれど、僕よりも上だった。それは、小さい頃から感じていた。
だからこそ僕は、「そこまでではない自分は、練習することで身を立てるのだ」という意識があったのだ。
とても良かったよ。
でも、もう帰ってくれ。
演奏後。
僕は何も言わなかったが、妻は、
「すみません、お先に失礼いたします」
と言って退出した。
僕が言った通り、誰にも話しかけられないうちに帰った。
如月さんと小林さんは揃って「えっ?」という表情をしていた。
「自分のことでも、平山のことでも、何でもいい。人前で通してみてどうだった?」
僕は妻のフォローはせずに、如月さんに感想を求めた。
「はい。まずは、このような機会を作っていただいて、本当にありがとうございました。自分の反省点としては……」
如月さんは、自分の反省点という言いにくいことも、きちんと発表していた。まだまだ完成とは言えないところ、それを誰かのせい、他のせいにせず、自分の課題として受け止めていた。あ、これは流石だな、本気で取り組み始めたのが少し遅かっただけで、まだまだ上手になるなと思わせた。
平山も、自分の課題として発表した後、如月さんの良いところなど、二人で質疑応答の時間となった。長年、母親の門下会でのやりとりを見てきて感じたことだが、女同士で積極的な意見交換をするのをほとんど見たことがない。高校生や学部生同士とは明らかに違うやり取りに、僕は場を作ってよかったと満足した。
小林さんにも発表してもらった。小林さんはソロは上手いのかもしれない。如月さんのオケパートを妻が弾いていたら、また違った演奏ができたかもしれない。学生が学生の伴奏をするとなると、伴奏者次第で印象も完成度も大きく変わってくる。しかし、経験することで伴奏者も育つというもの。むしろ、経験することでしか得られない。
本当は妻にもこのやりとりを聞いて勉強してもらいたかったが、今はそうも言っていられなかった。
妻は今、妊娠しているかもしれない、そういう状況だったのだ。
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