君が奏でる部屋

K

文字の大きさ
123 / 151
新婚時代の想い出

6 私は何の役なの?

しおりを挟む


 家に帰ったら、ソファに座らせられてお説教かな。それともベッドかな。私は緊張した。ソファでもベッドでも、慎一さんは私を求めるだろう。それ自体はいやじゃない。
 でも、慎一さんの機嫌が悪い時はいやだな。いじわるされたり、痛いくらいにきつく抱きしめたり、ほんのちょっと乱暴にされる。ちゃんと謝るから、機嫌を直して甘い声で誘ってほしい。


 家に着いた。

「かおり、自分の練習をして」

 意外な言葉だった。「ごめんなさい」を言いたかった。私は練習をする前に、松本さんとやりとりをした五線紙を見せた。


「あの……私、最初は怖かったの。レッスン室を出たら松本さんがいて、私を待っていたみたいで。そのまま帰ったら、家の場所を覚えられてしまうと思ったから、図書館で慎一さんを待ってたの。そうしたら松本さんもついてきて、隣に座って、五線紙で話しかけてきたの……。慎一さんのこと尊敬してるって。だから、悪い人じゃないかもしれないって思って……。言い訳してごめんなさい。練習します」

 だめだ。言えば言うほど泣きそうになる。

 慎一さんは五線紙のメモを見てから静かに言った。

「あんな男の、たったこれだけで警戒心がなくなるなんて、かおりは他人を……男を信用しすぎ。図書館にいてくれたのはよかったけど、『ドン・ファン』と二人で外に出されたらどうするつもりだったの?」
「どん、ふぁん……戯曲に出てくる?」

 慎一さんは額に手をあてて、立ち上がった。

「もういいよ。かおり、譜面もらったでしょ?弾いてごらん」
「はい」

 私は、鞄から楽譜を出して、音を出さずに予見した。フランス語の愛の歌だった。ワルツみたいな、一小節を一拍で数える、テンポの速い曲。前奏をお洒落に表現する必要がある。
 歌が始まってからは、歌にあわせて進めばいいかな。テンポが変わるところ……、戻すところはここ。
 私はフランス語の歌詞が読める。……慎一さんの前で、慎一さんじゃない男の人のために愛の曲を弾くことに抵抗があった。慎一さんのことを思って弾いたら、松本さんへの思いと勘違いされない?私はどう弾いたらいい?

「かおり、難しそうで弾けない?やらなくてもいいけど」
「ううん、弾きます」

 私はつとめて冷静に弾いてみた。慎一さんはこういう時、ミスタッチを注意することはない。初見でも曲の感じをつかんでいるか、曲の大切な部分が音楽的にわかっているかどうかを見る。きっと、歌い手にとって必要な音と構成を理解してサポートできるかどうかを見る。わかってる。でも……頭ではわかっている筈なのに、最後まで、何もかもがうまくいかなかった。


「かおり、どうだった?」

 私は何も言えなかった。自分で自分がわからなくなった。

「かおりはソロも上手だし、伴奏も上手だ。オケの音を表現できるし、こういう歌の伴奏も、相手の出方や相手の気持ちを見ながら上手に伴奏できるだろう。かおりは今、何が足りないかわかる?」




 私は、答えられなかった。何もわからなかったわけではない、と思うのに。慎一さんへの気持ち、慎一さんの私へ気持ちが何なのか不安で、気持ちが音に乗っていかなかった。……それを、伝えることができなかった。

「かおり、伴奏は仕事だ。仕事の時は気持ちを切り替えないと。練習の時も同じ。音を出したくないとか、気分が乗らないとか、相手には通用しないんだ。今の演奏を松本が聴いたら、多分他のピアニストを探すんじゃないかな。そして『次』の依頼は来ない。引き受けるかどうかは別として、そうなったらかおりはどう思う?時間をあげるから、練習しながら考えてごらん。何の曲でもいい。この伴奏じゃなくても、音階でもエチュードでも何でもいい」

 慎一さんはそう言って、家を出ていった。

 鍵を閉めた音が大きく響いて聞こえて、私の心をぎゅっとさせた。慎一さんのちょっとした嫉妬で、抱きしめてくれるのかと思ったのに……それもちょっと辛いけど、全然違った。こんな風に一人にされたことは、それだけで堪えた。

 慎一さんの厳しい言葉は、久しぶりだった。ううん、教授のレッスンの方がずっとずっと厳しかった。その教授にずっと習っていた慎一さんは、私が教授に習っている間は優しくしてくれた。教授がいなくなってから、私は……ピアノを弾かなくなってしまった。慎一さんも、ピアノのことは言わなくなった。少しずつ練習を再開したけれど、私の手は、私の心の状態によって弾けたり弾けなかったりする。





 松本さんから渡された譜面を見つめた。彼は何故これを歌うんだろう。何のために。作曲家はどんな人で、どんな曲なんだろう。音を出したくなかった私は曲を調べることにした。

 今は初見で一回弾いたけれど、練習する前に曲を調べるのは習慣にしてきた。小さい頃から、慎一さんがそう教えてくれた。

「かおちゃん、シューマンはどういう人だったんだろう?優しそうな人かな?怖そうな人かな?シューマンはクララのことが好きだったんだって。クララはどんな女の子だったのかな?かおちゃんの学校にクララが転校してきたら、かおちゃんは何て話しかける?どうやって仲良くなる?何して遊ぶ?」

 いつもそんな風に、曲のレッスンをする前に私に優しく問いかけてくれた。考えるきっかけをくれた。

 質問は、徐々に高度になっていった。私はすぐに答えられなかったけれど、いろいろ考えるようになった。私より5つ年上の慎一さんは、私が頭の中で想像して、自分なりに答えを出すまで必ず待っていてくれた。単語しか出てこない時は、補ってくれた。

 そのうちに、次の曲の練習をするまでに、小学校の図書館で休み時間に自分で調べる習慣がついた。私がどんなに予習をしておいても、慎一さんはいつもその少し先のことを教えてくれた。

「シューマンとクララが結婚した時は、ペリーが日本に来た頃だよ。学校で習った?」
とか、
「シューマンがブラームスに出会った時、日本は明治時代になった頃だよ」
など、外国の気候、食べ物、歴史、文化、私がその時に学校で習っていることに関連づけて、私にわかるようにお話してくれた。

「しんちゃんは、何でも知ってるのね」
と言うと、
「僕も行ったことはないよ。本で読んだり、学校の先生が教えてくれたんだ。かおちゃんも、もうすぐ習うよ。その前に、ピアノで表現してみよう?」
と言ってくれた。

 私が、
「クララとシューマンは、お父さんと皆でずっと仲良く出来ればいいのに。しんちゃんとかおちゃんみたいに……」
と言ったら、慎一さんは嬉しそうにしていた。

「僕たちは特別だ。シューマンがどんな気持ちでこの曲を作ったのか、考えてから練習するんだよ?」
「はい」

 そう、私達は特別。
 兄弟でもない、家族でもない。恋人でもなかった。同じ社宅で両親同士がお友達だったから、私達は一緒に育った。小さい頃は「しんちゃん」と呼んでいた。いつも優しかった「しんちゃん」。小さい頃に「お兄ちゃん」と呼んだ時、珍しく静かに怒られた。

「かおちゃん。僕は、かおちゃんのお兄ちゃんじゃない。かおちゃんのオムツを替えたこともないし、お着替えをさせたこともないし、一緒にお風呂に入ったこともない。僕は、かおちゃんのお兄ちゃんじゃないんだよ。お兄ちゃんと呼んではいけないよ」

 その時は、こわくて、何故かさみしかったような気がしたのを覚えている。今はわかってる。慎一さんは、特別な人。いつも私を大切にして守ってくれたことも。慎一さんは答えを知っていても簡単に教えないで、私が自分で出来るようにと、時間をかけて導いてくれた。


 私は、そんなことを思い出しながら一人で曲について調べた。

 もう、一人でできるから。















しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

【R18】幼馴染がイケメン過ぎる

ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。 幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。 幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。 関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。

最後の女

蒲公英
恋愛
若すぎる妻を娶ったおっさんと、おっさんに嫁いだ若すぎる妻。夫婦らしくなるまでを、あれこれと。

処理中です...