君が奏でる部屋

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新婚時代の想い出

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 新婚旅行に行くと決めてから、僕は忙しくなった。もちろん、そんな忙しさも嬉しくてたまらない。大学側に、入試時期の仕事を外してもらうようお願いし、もう一つの大きな仕事であるフレンチレストランのBGMの方も調整した。ピアニスト仲間は何人かいる。出身大学は皆違う。予め判っていれば分担できる。突然の交替にも対応しあえる仲間で、今までにも助けられた。



 僕とかおりの師である教授は急逝してしまったが、奥様がフランスにいる。僕もかおりもたくさんお世話になった。会いに行こう。時差を考えて連絡を取ってみた。

「奥様、慎一です。お久しぶりです」

 そう言っただけで、もう何も言えなくなりそうだった。かおりと結婚したことを報告すると、奥様は喜んでくれた。またゆっくり会える。僕は手短に、二月後半に二週間の休みを取ってフランスに行くこと。妻がリサイタルするつもりで準備していることを伝えた。

「ワカッタ。コチラで準備スル。マッテテ!」

 僕は有り難く好意に甘えることにした。


 電話をしたのは深夜だ。かおりには明日話そう。僕は、先に寝かせたかおりを抱きしめて眠った。



 翌日。

 朝食時に、僕はかおりに昨夜の話をした。

「奥様にフランスに行く連絡をした」

 かおりが嬉しさでいっぱいの表情になった。僕は、もうそれだけで満足しそうだった。

「細かいことは奥様が準備してくださるそうだ。かおりはリサイタルのプログラムをまとめて。曲目解説も書いてごらん。ひとまず日本語で。フランス語にするのは後でいいから……出来たところまででいいから、今夜僕に見せて。練習も、後でいい。……そうだな。練習は明日から。明後日はパスポートを取りに行こう。週末は買い物」

「はい。……買い物?」

「ドレスはこっちで揃えておいたほうがいいだろう。じゃ、行ってくる」

 かおりを軽く抱きしめてキスをして、僕は外に出た。




 今日は大学で学生のレッスンだった。初任の時から男子学生だけ。皆総じて真面目だ。最後のレッスンの学生に、いつものような勢いがなかった。

「演奏がどうこうじゃない。何かあったのか?」

 学生は思い当たることがあるようだ。

「僕に全てを話さなくても構わないが、演奏に出ている。今は学生だからいいけれど、仕事だったら演奏に影響しないように気をつけないと。今は練習期間だと思って。もうすぐ試験だ。せっかく良い成績だからキープして……」

「先生は」

「……どうぞ?」

「……先生は学生結婚だと先輩方からお聞きしました。先生は失恋したこと……ありますか?」

 あぁ、そういうことか。

「……ない。でも、幼なじみで、少し歳が離れているから、僕が大学を卒業するまで伝えずに、ずっと片想いしていたよ」

「そうなんですか……」

「長かった。でも、その頃の感情がなかったらコンクールに通らなかっただろうし、講師にもなれなかった。全てを共感することも慰めることもできないが、我々は時間と音楽が助けてくれる」

 レッスンの残り時間もあと10分になった。僕は、彼の為にショパンの『幻想曲』を弾いた。片思いを卒業した時に弾いた、学生時代最後の思い出の曲だ。

 今はわからないだろうが、それすら得難い経験と感情だ。人間が音楽を奏でる意義に通ずるものがあるだろう。

 学生をレッスン室に残して、部屋を出た。





 帰宅すると、かおりは朝と同じ格好のままだった。リビングのテーブルに、楽譜と本を山のように広げて集中している。プログラムと曲目解説文の準備だな。僕は気づかれないようにその場を離れ、遠くのソファからその様子を眺めた。


 かおりが集中している時、中断させたくないほどの直向きさがある。自分でコントロールできないみたいだけれど、僕にはない才能だ。しかし、過集中にはデメリットもある。合唱ピアニストの仕事を始めるまでに、何とかしないといけないだろうか。いつ、どんなときに支障が出るだろう……良い面を潰さないようにサポートしたい。




 どのくらいそうしていたのだろうか……僕が朝、出掛けてからずっとだろうか。邪魔しない僕も大概だな。僕は一人で笑った。その後、ガタッと音がした。かおりが突っ伏してペンがテーブルの下に落ちた。

「かおり!」

 僕は駆け寄った。

「かおり……」

 集中が切れて眠っているだけか……。僕は妻を抱き上げて、ベッドに寝かせた。これでは、今日も相手をしてもらえないな。夕食も一人か……。少し不満に思いながらリビングに戻った。


 勝手に片付けても、かおりは怒ったりしない。多分、広げたことも忘れているだろう。僕は楽譜を棚には戻さず、揃えて積み上げた。ノートには、曲目解説らしき文章がしたためられていた。ほとんどは、まだメモしただけの状態だ。かおりは小さな頃から真面目な女の子だった。ゆっくり時間をかけた丁寧な文字、奇をてらうことのない素直な文章は、昔のままだ。


 僕は、便箋を持ってきてアドバイスを書いた。


『かおり、よく集中していて、眠ってしまったからベッドに寝かせた。僕が出掛けてから調べたのか?よく書けたね。曲の候補もたくさんあるみたいだね。二週間の休みを取ったが、毎日リサイタルができる程の量だよ?後で相談して決めよう。僕と一緒に美術館に行ったり、街を散策する時間も作って。連弾もあったね。一緒に演奏するの、楽しみだ。昔からいつも言っていることだが、まず歌えるように。

 解説を読ませてもらった。お客様が元々知っていること、今は調べればすぐにわかることも多い。かおりが何故それを弾くのか、どんなところを聴かせたいと思うか、演奏者である『かおりの言葉』が欲しい。そして『かおりの演奏が聴きたい』と思わせて。そうすれば『かおりの演奏が素晴らしかった』といつまでも心に残る音と演奏、それを思い出させる文章になるだろう。かおりにはそれができる。

 新婚旅行、遅くなってごめん。でも、大人になって、ますます綺麗になったかおりと、同じ名前で旅行に行けること、楽しみにしているよ。どうか、無理なく準備してほしい。かおり、愛してる』



 アドバイスというより手紙だな。

 後でゆっくり読んでほしい。

 伝える時間、教える時間より、一緒に食事したり、一緒に眠りたいから。


















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