114 / 151
槇夫妻のエピソード
6 妻を信じること
しおりを挟む予定日は三月末と言われた。
るり子を家まで送ってから出社した。
会社に着いてから、藤原さんに会議室に呼ばれた。二人だけだった。俺はそのまま報告した。
「おめでとう。三月末か……。できるだけ配慮するけど。るり子さんには、産まれる前と産まれた後のどちらに多く休みが欲しいか聞いておいて。年度末には人員配置の関係で、急かしてすまないね。申し訳ない」
「いえ。ご面倒おかけします」
「いや、羨ましいよ……ここからはプライベートだけど、うちはまだだから。まだ男が怖いんだろうと思う。まだ絵が描けない。鉛筆を持って書こうとすると、もうダメなんだ。まぁ、少し前までは鉛筆を持てなかったくらいだし……。リビングの隣はアトリエにしてるんだけど、結婚してから、ちゃんと書いたものは一枚もないんだ。心を切られちゃってるみたいで、どうしたらいいのか……」
「そうだったんですか……」
「暗い話をしてしまって申し訳ない。るり子さんに赤ちゃんが出来たことで、こちらにも明るい話題ができるといいなと思ってしまってね。ありがとう、戻っていいよ」
「はい。失礼します」
藤原さんは、最後は笑顔だった。
俺は、藤原さんの配慮に感謝した。同僚はまだ誰も結婚していないし、身近な社員には奥さんが出産した人が見当たらなかったのだ。また一人増えればそれこそ手続きやらいろいろある。しかし、藤原さんの「まだ」は何の「まだ」だろうか。「まだ子供は出来ていない」よりも、もっと手前だろうか……。
俺は気持ちを切り替えて仕事をした。父親になるんだ。なるべくるり子の近くにいて、安心させてやりたい。俺自身がるり子の側にいたい。それに、稼げるようになりたい。
俺はどうも外見なのか態度なのか軽く見られる節がある。妊娠のことは藤原さんだけに話して他には伏せてあるが、早く結婚したこと、仕事の態度や付き合いなど、周りからの見る目が変わってきたようだった。しかしそれは、もともと真面目そうな人が真面目なのではなく、真面目じゃなさそうなのに意外に真面目……といった評価だ。業界全体も好調だったが、社内の業績も順調で個人的な仕事の成果もあり、それは夏のボーナスに反映された。俺は出産にいくらかかるのかも知らなかったが、これだけあれば当面は大丈夫だろうと思えた。
藤原さんから、出世の為に行かなければならない長期出張というノルマがあると聞かされた。それを出産より大分前の、今のうちに行くかどうか打診された。後でもいいとは言われたが。
もっと妊娠について勉強しておくべきだった。約9ヶ月の妊娠中、いつ頃どんな辛さ、大変さがあるのか。妻は夫にどんなサポートをしてほしいのか。今ほど母親に聞きたかったことはない。母親といっても俺には実母と、育ての母の二人がいる。時代が違うか……そんなことを思いつつ、目の前の仕事の忙しさに追われていた。
俺はるり子と子供の生命力を信じて、妊娠中に長期出張に行くことを切り出してみようと帰宅した。了解してくれるだろうか。いや、るり子がなんと言おうと仕事は仕事だ。
帰宅すると、リビングからピアノの音が聴こえた。届いたか。
藤原さんの話があったし、るり子がピアノを弾いていたことで、嬉しさと同時にほっとした。
「マキくん!このピアノすごく素敵なの!」
るり子は跳びはねるようにしてこちらに来た。最近、食べられないらしく、体調が良くなさそうだったが、具合が悪くなくて安心した。ピアノのおかげだろうか。
「るり子、跳ねたらダメだ」
「あっ、そうだった!ごめんなさい。嬉しくてつい!」
俺はるり子をソファに座らせて自分も横に座った。
「このピアノは、俺が子供の頃から実家にあったんだ。誰だったか……名前は忘れたけど海外のピアニストで、日本でリサイタルをする時に使うお気に入りのピアノを、実家が預かっていた。もう、だいぶ前に亡くなっている。亡くなる直前だったか後だったか連絡が来て、世話になったから譲るって……だから、すごく良いものなんじゃないかと思う。定期的に決まった調律師を呼ぶ必要があるけど」
「そんな素敵なピアノだったのね。私、こんなピアノ弾いたことがない。ありがとう。大切に使わせてもらいます。調律もお願いします」
俺はその言葉に、こんなに美しくて慎ましい女性と結婚できて本当によかったと思った。
そして、神に祈るように長期出張の話をした。
「るり子、俺は近いうちに長期出張に行かなければならない。出世と給料に関わることだ。希望が通るかどうかわからないが、子供が産まれる前と後と、選べるとしたらどちらがいい?」
るり子は何と言うだろうか。
「あなたの判断でいつでも行ってきてください。私はずっと健康だったし、過信しないで、赤ちゃんも自分も大切にします」
俺はるり子を抱きしめた。
翌日、俺は藤原さんに直ぐに行くと申告した。
1
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる