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accompanist
4 もう何もしたくない
しおりを挟む私達は会話もなく帰宅した。
お昼ご飯も食べていなかった。
「サンドウィッチ食べる?」
仁はゆっくりと首をふった。ショックだろう……。こんな時、私は自分の練習をすることが出来なかった。自分の悲しみだけなら、気持ちをピアノの音に乗せることができただろうか。ううん、やっぱりどうかな……。音は出せないかもしれない。仁も、自分から練習をする様子はなかった。
「まだ明るいから、公園のブランコ乗りに行こうか」
私は仁に言った。仁は黙ってついてきた。
近くには、公園という程広くなく、ブランコが二つあるだけの場所があった。仁が赤ちゃんの頃から毎日のように散歩に来た。もう、今の仁が走るには物足りない広さだった。
私達は口を噤んだまま、暗くなるまでゆらゆらとブランコに座っていた。
夕方になった。時計をみると、そろそろ慎一さんが帰ってくる時間だった。私は黙って立ち上がり、仁を促した。仁は自分の足で家に向かった。
近くなのに、私達は歩くのが遅かったためか、慎一さんが先に帰宅していた。
「荷物があるのに二人ともいないからびっくりしたよ。今メールしようと思っていた。公園にいたの?」
「うん」
私が答えた。
仁は、慎一さんの前に立った。
「パパ、ごめんなさい」
「どうした?」
「アンサンブルで、走ってしまいました」
「そうか。それで?」
「ママと一緒に、小石川先生にごめんなさいと、さようならをしてきました」
「そうか。誰かとぶつかったか?」
「女の子と。楽器は女の子のママが持ってたから」
「誰もケガはなかったか?」
「はい」
「ケガがなかったら、よかった。いいよ。よく正直に報告したね。かおりは気持ちを切り替えて自分の練習をしなさい。基礎練習でもエチュードでもいい。淡々とやるべきことをしなさい。僕が夕食を作るよ」
慎一さんは、仁の頭をポンポンとして私の方を見た。いつもどおり穏やかな口調、優しい表情…………。
私はエチュードを練習した。
後で自分の部屋にいる仁を夕食に呼びに行くと、仁は洋服のまま寝てしまっていた。頬には涙の跡があった。
鞄の中の物を元あった場所に戻そうと、手に取った。渡されていたプログラムには、チャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』の演奏者に「藤原 仁」という名前が書かれていた。
私はしばらくそれを見つめていた。
いつの間にか、後ろに慎一さんが来ていた。
「大丈夫。こういうこともある。ケガもなく、楽器も無事でよかった。音楽を辞めさせる訳じゃない。また機会はある。あそこに集まる楽器は高額だ。何かあっても、とても弁償できない。これでいいんだ。かおりもお疲れ様。かおりに似ていたら、仁が心配だ。しばらくは心のケアをしてやって」
慎一さんは、私の心ごと優しく抱きしめてくれた。
私も仁を抱きしめたかった。
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