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槇 慎一

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毎日が楽しくてたまらないテノールバカと仲間たち

5 餌付と躾

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 レストランの仕事が終わった。
 終電よりも何本か早く帰れた。
 今まではフレンチレストランだけだったけれど、その後同じホテル内のバーの方でも弾いている。土日の午前中は大学附属音楽教室の講師として、小さい子供のレッスンをしていた。今はかおりが講師となり、彼等を担当してもらっている。何もかも初心者の子供に教えるのは大変だが、僕がある程度手ほどきした生徒たちだ。僕を指名する保護者は例外なく熱心で、練習をしてこないなんてことはない。何よりレッスンを受ける態度がしっかりしている。

 僕の全てを与えたかおりが、仕事を引き継いでくれるのも、素晴らしいことだ。



 帰宅すると、電気がついている。かおりは電気をつけたまま寝ているのか?

 一応静かにドアを開けると、かおりは起きていた。

「おかえりなさい!」 

 パタパタと駆け寄ってくる。正面から抱きついてきて、おかえりなさいのキスをしてくれた。可愛いな。荷物を置きながら片手で抱きしめた。癒やされる。


「ただいま。起きていたのか」
「うん……。眠れなくて」

「相当疲れていた筈なのに。もしかして、物足りなかった?」
「えっ?」

 何のことかわからないといった顔だ。
 かおりはとぼけたりしないし、嘘もつかない。疲れさせると、必ずといってもいいくらい寝てしまう眠り姫なのに。


「かおり、練習してた?何をしていた?」
 かおりは、ちょっと困ったような顔をした。

「まだ、こたえられない、ということを、お話します」
 夜中のなぞなぞクイズは勘弁してほしいところだが……。それより、美味しそうな気配がする。


「かおり、何か作ったの?」
 僕がそう言うと、かおりはパアッと明るい表情になった。

「オニオングラタンスープをつくりました。慎一さん、髪を乾かさないままだったでしょ?風邪ひかないか、心配で。温かいものをつくったの」
 驚いた。

「ありがとう。あれからすぐに乾いたし、すっかり忘れてたよ」
 僕は両手でかおりの頬をつかまえて、キスをしてからキッチンへ行った。

「お土産がある。支配人から。どう見てもかおりへのお土産だ。一緒に食べよう」
「はい」


 この、かおりがにこっとして小さく言う「はい」という言葉は、堪らなく可愛い。ずっと変わらない。ベッドの中でのそれなんて、未だに腰にくる。ただそれだけの言葉なのに。


 リビングにある大きなテーブルは食べる時にはあまり使わない。向き合って食べると、かおりの声が聞こえないからだ。食べる時はソファが多い。かおりは食べるのに時間がかかるし、僕はそれを見ながらゆっくり過ごせる。サイドテーブルにオニオングラタンスープとカスタードプディングを置いた。僕は、スープを食べながら、かおりにプリンを食べさせることにした。


 スープは美味しかった。味付けは……いつもと同じく薄味だけど、具の量とか、温かさとか、今の僕にいろいろな意味でちょうどよかった。

「かおり、すごく美味しい。なくてもよかったし、寝ていてくれてもよかったけど、すごく嬉しい。愛を感じる」

 こんな時のかおりの表情も好きだ。なんともいえない。そう……両手で胸を撫でる時、かおりはこういう顔をする。


「かおり、練習していたの?」
「ううん」

 一口毎に質問して答えさせ、言葉が返ってきたらプリンを食べさせた。
 かおりには言わないが、強化の原理だ。僕にとって都合の良いことをした時、好ましい態度の時に飴を与える。罰を与えることはしない。


「何をしていた?」
「最初は、最初っていうのかな?慎一さんが、出かけてから、寝ていて……」

 プリンを差し出すと、ぱく……と口を開ける。
 やっぱり寝たのか。


「目が覚めたの?」
「ううん、寝られなくて……」

 ぱく……。

「寝ないで、何をしていた?」
「…………」

 僕はプリンを運ぶ手を止めて、自分のスープを減らした。

「美味しいよ。かおり、悩み事?」

 話すつもりはあるようだ。

「松本さんのことを考えていて……」

 かおりの言葉に、僕はスプーンを落としそうになった。

「松本のことを考えて眠れなかった?」

 僕は静かに復唱した。カッとしたのが伝わったか?

「えっ?松本さんのことじゃなくて、松本さんの言葉、でした」

 気づいていないようだ。僕は再びプリンを運んだ。

「同じだ」

 かおりは、僕の態度と声色から、何かまずい雰囲気を感じ取っただろう。


「松本に、何を言われた?」
「…………」


「かおりが眠れないと、僕も眠れない。困っているなら一緒に考えるよ」
「……まだ、こたえられないの」

 僕は2個めのプリンの蓋を開けてかおりに食べさせた。
 かおりはプリンが好きで、何個でも食べられるらしい。何となく、それは脂肪として全て胸に行くような気がして空恐ろしい。もう充分だ。それ以上育たなくていい。プリンは2個までだ。


「どんなこと?」

 僕の問いに、かおりがこちらを見てすまなそうな表情をしている。それから、目を逸した。恥ずかしがる以外で目を逸すなんて。

 僕は食べ終わったスープの器をテーブルの奥へやり、プリンをテーブルに置き、かおりを抱き寄せた。顎に手をかけてこちらを向かせる。逃さない。

 弱々しい、かおりの表情は泣きそうだった。

「どんなこと?」

 もう一度言った。

 かおりは、僕の方に顔を向けられたまま目を伏せた。

「……うまく、言えないの、ごめんなさい」
「うまく言わなくていい」


 かおりはゆっくり口を開いた。

「音や、声や、その人の音楽の好きと、人間性の好きは、一緒ですか?」
「僕は、かおりの音も、かおりの音楽も、かおり自身も好きだ。だが、皆が全て一致するわけではないだろう」


「私は、慎一さんのどこが好きか聞かれて、すぐに、こたえられなくて、大好きなのに、理由を言えないって、それって好きって言えるのかなって」
「少なくとも、僕には伝わっているよ。僕がかおりを愛しているのと同じように、かおりが僕を愛してくれていると思っている。それではだめか?」

 かおりは、いつの間にかこぼれていた涙ごと、ふるふると首を振った。


「じゃあ、何がそんなにかおりを悩ませている?」
「あの、松本さんが、自分の声が好きなら、自分のことも好きだろう?って。好きって、慎一さんのことが好きな気持ちと、同じじゃないけど、松本さんの、声や、歌や、音楽が好きっていう好きと同じように、松本さんのことは好きで、伴奏をさせて頂けるのは嬉しいです、っていうことを、うまく伝えられなくて……」


 かおりを抱きしめた。


「そんなに松本のことを考えて眠れなくなるなんて……僕のことにしてくれ」
「ごめんなさい」

「僕の、どこが好きか、考えて。僕の音は?」
「好きです」


 もう話せるな。僕は抱きしめていた体を少し離して、顎を持ってこちらに向けさせた。


「僕の目を見て答えて。僕のピアノは?」
「好きです」


「僕の音楽は?」
「好きです」


「他に何が好き?どこが好き?」
「手と……指と……声と……目と……」

 それでいい。恥ずかしそうに声を発する様が大変良い。いい気分だ。

 僕は2個めのプリンを最後の一口まで食べさせた。あ、ちょっと量が多かったか。かおりの口からカラメルが少しこぼれた。僕はそれを舐め取った。かおりの頬がさっと赤くなって身を捩る。まだ慣れないのか。


「かおり、そういう時に赤くなる。他の男の前で赤くならないでもらいたい。後はベッドで聞こう。ここを片付けたら行く」


 暗にベッドで待っていろ、という意味は伝わったらしい。少し焦らすようにわざと待たせると膝を擦り合わせて濡れているし、待たせすぎて本当に眠っていたこともある。

 さて、今日はどんな風に待っていてくれるか?

 ずっと松本のことを考えていたなんて気に入らない。
 僕が満足するまで寝かせるつもりはない。



















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