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毎日が楽しくてたまらないテノールバカと仲間たち
6 松本は意外にコメディが好きなのか
しおりを挟む数日後。
「槇ぃ!」
大学のカフェテリアに行くと、松本が僕を呼んでいる。平山もいる。彼等は仲がいい。
「あぁ、松本。この前は話の途中で悪かった」
松本のおかげでいい思いをさせてもらったから、礼だけは言おうと思ったら、松本がにやにやしている。僕は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
平山は、松本が話していなければ何のことかわからない筈だが、ここで気を利かせて席を外すような男でもない。悪戯が好きなのは長年の付き合いで知っている。話の腰を折らずに傍観するつもりらしい。
松本のにやにやは止まらない。男のこういう表情は気持ち悪いし、嫌な予感しかしない。
「あの週明け、奥方が俺を訪ねてきた。俺が出した課題を提出しに、な」
やはり……かおりのことか。僕は、自分のことではないので無表情で次の言葉を待った。
松本が、
「平山には、奥方のこと隠さなくていいんだよな」
と言うから、
「大人の良識の範疇で」
と答えた。
平山は子犬のように好奇心いっぱいでこちらを見ている。平山は僕と同じ年で同じ門下だったが、一年遅れて入学してきた。『皆の後輩』みたいな弟キャラなのは、実際に兄がいるらしいからか。僕は一人っ子なのに、かおりの世話をしていたからか、散々『お兄ちゃん』と言われてきた。松本は兄弟はいただろうか。知らないな。
「藤原の音楽を引き出すために、いや、俺達の音楽観を共有して高めるために、あることを考えてこいと伝えてあったんだ。特に期限も伝えなかったけど。そうしたらぁ、律儀にもあの翌日ぅ、わざわざ事務室で俺の時間割聞いてぇ、俺のこと探しにきてさぁ~」
うっとりとして言う。
オペラのセリフのように。
無駄に良い発声で。
「藤原はこう言ったんだ。松本さん、お返事が遅くなって大変申し訳ありませんでした。慎一さんが、『僕がかおりを愛しているのと同じように、かおりが僕を愛してくれていると思っている』って。だから私も、慎一さんが私を愛してくれているのと同じように、私も慎一さんを愛しています。これで伝わりますか?って。奥方、結構頑張ってしゃべっていたが、頑張ったところで声は小さいからさ、俺が復唱して確かめてやったら『仰る通りです』ってさ」
前にもあったな、こんなこと。確か、手紙だ。
僕はこの種の恥ずかしい場面に、あと何回遭遇するのだろうか。僕に落ち度があったのか?
平山は途中から顔を背けて笑っていた。
あることないことならともかく、それは全て事実だし、僕は、ある程度開き直っていた。
しかし、ちょっとまて。まだ終わらない予感がする。
「ところでそれ、どこで?」
松本は事も無げに言った。
「男声のぉ、1~4年生までの合同合唱練習の教室で。授業前のほんの1分2分、マイクテストの時」
平山がついに口を開いた。
「槇先輩、卒業後だからご存知ありませんよね。篠原先生の男声合唱を引き継いだ松本先輩のクラスなんです。男声の声楽科の人数が年々少なくなってるんで、ピアノ科男子も、管弦の男子も作曲科も教育科も、全ての男子全員で第九を歌う授業になってるんです。『松本先生』、1限だろうが公共機関の遅延だろうが、始業1分後に問答無用で出欠とるから、皆5分前には全員着席、沈黙してるんですよ」
大学中の男子全員!
「平山ぁ、バラすなよぉ」
松本が平山を殴る真似をしつつ、二人で腹を抱えて笑っている。こいつら……。
「頼む。妻で遊ばないでくれ……」
「遊んでいない。お互いに真剣だ。それにな」
まだあるのか。松本は僕に近づき、珍しく声のトーンを落として言った。
「藤原、顔色は頗るいいのに、明らかに気怠そうで、動作がいつもに増して遅いんだ。わざと、具合が悪いのか?大丈夫か?って心配そうに聞いてみたらさぁ」
平山は絶対に聞こえているだろうが、一応聞いていない素振りをしている。
「大丈夫です。慎一さんがあまり眠らせてくれなかっただけでって!赤くもならずにさらっと!お前、寝かさなかったのかよ!」
赤くならなかったのは、松本の意図に気づかず、深く考えていないのか、感情をコントロールしたのか、いや、後者ではないだろうな。
松本はこんな調子だが、根は真面目だ。
もともと、ナヨナヨして優柔不断なキャラだったのに、よくもここまで変われるものだ。音楽のおかげか、オペラの影響か、篠原先生の手腕か。
そうか、演技だ。
今、松本は喜劇を楽しんでいるのだ。
いっそすごいなと、僕は無理矢理そう思うことにした。
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