BL ~Black Love~ 1.0

蒼生よる

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2・魔界へ行ったら、なぜか魔王と大天使にはさまれています

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(どうして、こうなった?)
 頭からシワのついたシーツをかぶったアルは、ふかふかのソファーの上で、小さくなって座っていた。
 今、アルの目の前には、美味おいしそうな料理の数々が、ほかほかと湯気ゆげをたてて並んでいる。
 そして、アルの右側には大天使ミカエルが、左側には魔王ルシファーが座っていた。
 天界と魔界の最重要人物二人にはさまれて、アルは生きた心地がしない。
 一体これはなんの時間なのだろうか。
 いや、食事の時間なのは、わかっている。わかっているけれど。
(やっぱり、どうして、こうなった?)




 魔界へ向かう馬車の中で、アルはミカエルと色々な話をした。
 まずは、どうしてアルが魔界へ行くことになったのか。それは、天界と魔界の友好ゆうこうのためらしい。
 天界から友好の使者として、誰かを魔界へ送ることになった。それにアルが選ばれたのだという。
 本当のところは、たぶん誰も行きたがらず、困っていたときに、アルの存在を思い出したのだろうと思う。
 普通、天使が魔界へ行くことは、堕天だてんを意味する。ミカエルのように公務で魔界へ降りることもあるけれど、そんな外交をする天使は、きわめてまれだ。
 その点『暗黒の天使』などと呼ばれるアルならば、今さらどうなったところで、天界にとって痛くもかゆくもない。
 むしろ厄介払やっかいばらいができて、都合がいいくらいだろう。
 天界で唯一、黒い目と黒い髪、黒い翼をもってアルは生まれた。
 気味の悪い、のろいの子だと言われて、アルは母親と二人きりで屋敷の離れで育った。九才のときに母親が亡くなって、しばらくしてからは、鉄格子てつごうしだらけのとうの中で一人ですごした。
 アルの存在をもてあました天界が、これ幸いとアルを魔界へ送るのは、理解ができた。
 驚きなのは、ミカエルがアルを養子ようしにしたということだ。
 ミカエルと妻のガブリエルとの間に子供はおらず、今回、アルを使者にしようと話が決まったとき、ならば大天使の子供というほうが色々と都合がいいだろうと、ミカエルがアルを養子にしたようだ。
 そこまでしなくてもよさそうなものだが、少しでも外交を有利にすすめるためならば、アルのことを利用するだけ利用しようということなのだろう。
 顔も名前もおぼえていない父親が、今さらアルをどうしたところで驚きはしない。
 それよりも、名目だけとはいえ、天界で最高権力を持つ大天使ミカエルが養父ようふになるとか、世の中なにが起こるかわからないものだと思う。
 それから、今までのことや、普段どう過ごしているかなど、ミカエルにきかれるままつらつらと話した。
 そうこうしているうちに昼頃には魔界へつき、馬車を降りたアルはきょろきょろと辺りを見まわした。
 ミカエルがふふっと笑う。
「ここが、魔王ルシファーの城だよ」
 どこまで続いているのかわからないほど広い敷地しきちに、どっしりとした大きな門。高い城壁に囲まれた石造りの城は、天界の華美かびな建物とはちがい、質実剛健しつじつごうけんな感じがした。
 城に入り、すぐにアルとミカエルが通されたのは、なんと魔王ルシファーの御前ごぜんだった。
(これが魔王ルシファー様?)
 アルは驚いた。
 謁見えっけんの間とか大広間とか玉座ぎょくざとか、そんな仰々ぎょうぎょうしい場所ではなく、なぜか普通の応接間おうせつまのソファーの上に、その魔界の王はいた。
 普通の応接間といっても、さすがは魔王の城の中だ。過度な装飾品などはないけれど、天井が高く空間が広い。
 部屋の手前にはローテーブルとそれを囲うようにソファーが置いてあり、奥には十人以上が座れそうな、長机とイスがあった。
 その手前のソファーの上に、黒い衣に身を包み、立派な体つきをした魔王がいた。
 魔王の印象を一言で表すならば『綺麗きれい』だろうか。
 綺麗に整った顔に、流れるような金色の髪。そしてその背中には、驚くことに六枚もの金色の羽根がついていた。
「魔王様、魔王様、起きて下さい。大天使ミカエル様がおみえです」
 ゆったりとした造りの三人がけのソファーの上に、大きな体を横たえて眠っていたルシファーが、黒服の悪魔に起こされる。
「……ふゎあ、なんだ。遅いから昼寝をしていた」
 あくびをしながら、ルシファーが起き上がる。起きると、より体格がよく、威厳いげんのある雰囲気がした。
 いや、でも、魔王って魔界で一番えらい悪魔なのでは? そんな最高に身分の高いお方が、どうして応接間のソファーの上で寝ているのだろうか。
「君が仕事をさぼって寝ているのは、いつものことでしょ」
 ソファーにどかりと座ったルシファーに、ミカエルが片手をあげて歩みよる。
「やあ、魔王ルシファー。久しぶり」
「なんだ大天使ミカエル、貴様きさまも来たのか」
 にこやかなミカエルにたいして、ルシファーは冷ややかだった。
 けれどミカエルは、ルシファーの機嫌きげんなどまったく気にもせず、あっけらかんと明るく笑った。
「いやだなあ。僕の子供を預けるんだから、来るに決まっているじゃない」
「養子だろうが」
「養子でもだよ」
 ミカエルはニコニコしているが、ルシファーの表情はピクリともしない。美形の無表情というのは、それだけでも迫力があった。
「今さら養子をもらう、貴様の気がしれないな」
「子供どころか奥さんもいない、さびしい君にはわからないのかもしれないねえ」
「はっ、俺がさびしい? バカ言うな。毎晩どこへ行くか悩むくらいだ」
「それなのに、奥さんになってくれる相手がいないなんてねえ」
 可哀想かわいそうに、と言外で言うミカエルに、ルシファーはますますむっとしたように無表情になる。
「俺は一人にしぼれないだけだ。貴様とちがって、り取りみどりだからな」
「だからその優柔不断ゆうじゅうふだんさがダメなんじゃない? そんな君が魔王なんて、魔界は大丈夫なのかなあ。心配だなあ」
 にこやかに穏やかな口調できついことを言うミカエルと、不機嫌を隠そうともしないルシファーの応戦が続く。
 アルはハラハラした。
(え、これって大丈夫なの?)
 たぶん、今これ、会話の内容はともかくとして、天界と魔界のトップ会談とか、そういう状況なのではないのだろうか?
 けれど、ミカエルの後ろの白いローブの天使たちも、ルシファーの横に控える黒い服の悪魔たちも、微動びどうだにしない。
「貴様に心配されるようなことは、なにもない」
 魔王ルシファーが、じろりとミカエルの後ろのアルを見た。アルは、シーツの下でびくりとする。
「それが例の?」
「そう。僕の子供だよ」
「たしかに黒いな」
 魔王ルシファーにじろじろと見られて、アルは息をつめた。
 黒い天使がめずらしいのは、わかる。ここに来るまでにも、幾人いくにんかの悪魔たちにじろじろと見られた。
 しかし、魔王にこうも見られると、心臓がちぢむ思いがする。
「それはなんだ?」
 シーツのことを言われているのだろうか?
 にらみつけるようなルシファーの視線に、アルはさあっと青ざめた。
 アルが頭からすっぽりとかぶっているシーツは、ミカエルには許してもらったけれど、さすがに魔王の前ではぐべきだったかもしれない。
 今からでも脱いだほうがいいのだろうか。
(今度こそ、怒られるかもしれない)
 アルは震える手で、シーツのはしを、ぎゅっとにぎった。
「あー、人見知りなんだよね。別に問題ないでしょう?」
 小さく震えるアルに、ミカエルが助け船を出してくれる。
 それにルシファーはうなづいた。 
「問題はないな」
(問題ないんだ?)
 あっさりと言われて、アルはほうける。
 ミカエルといいルシファーといい、人の上に立つ人物は、こうも心が広いのだろうか。それともアルなんかがなにをかぶっていようと、そんな些細ささいなことは、どうでもいいのか。
 たぶん、後者な気がする。
「アール、挨拶あいさつは?」
 ツンツンと、シーツの上からミカエルに腕をつつかれる。
「あ、挨拶……?」
 とっさに、なんて言えばいいのか、わからなかった。
 アルは母親以外とはあまり会ったことがない。人前に出たことさえ数年ぶりだ。挨拶の仕方なんて、誰にも習っていなかった。
「はじめましてって言うんだよ」
 戸惑とまどうアルに、ミカエルが教えてくれる。
(あ、そうか)
 アルは、塔の中で読んだ本の知識を思い出し、ぺこりと頭を下げた。
「はじめまして、魔王ルシファー様。アルです」
「はい、アール、よくできました」
 ミカエルが、パチパチと拍手はくしゅをする。
「アルなのかアールなのか、どっちだ?」
 ルシファーが首をかしげた。
「僕は親愛をこめてアールって呼んでいるんだ。君も好きに呼んだらいいよ」
「なら、アルで」
 ルシファーが即答する。
「わあ、残念」
 アールのほうがかわいいのに、とミカエルが言うけれど、ルシファーは完全無視だ。
 アルは、そういえば、と思い出す。
「あの、ミカエル様も、はじめまして」
 アルはミカエルにも頭を下げた。
 アルはまだ、ミカエルに挨拶をしていなかったのだ。
 部屋の中が、一瞬しんとする。
(あれ、どうしたんだろう?)
 ミカエルが、一瞬表情をとめてから、笑った。
「アール、はじめましての挨拶は、最初に会ったときだけだからね」
「はい?」
「でも、魔界で会った人には、まず最初にはじめましてって言えばいいよ」
「はい、わかりました」
 ミカエルに丁寧ていねいに教えてもらって、アルは、こくこくとうなづく。挨拶は大事だと、塔の中で読んだ本にも書いてあった。
 そんなアルとミカエルを、ルシファーは面白そうにながめていた。
「あ、そうだ、アール。もう気分は大丈夫? お腹すいてない?」
「大丈夫です」
 ミカエルに問われて、アルは答えた。『なんだ?』という顔をするルシファーに、ミカエルが説明してくれる。
「アールは馬車になれていないから、少し気分が悪くなってしまってね。朝からなにも食べていないんだ」
 ミカエルとお付きの天使たちは、ここに来る途中で軽食をとっていたが、アルは断った。
 気分が悪くなったと言うよりも、とてもなにかを食べられる心理状態ではなかったからだが、あえてミカエルの誤解をとく必要もないだろう。
(それに、どっちみち、あの状況では食べられなかったし)
「もう大丈夫なら、なにか食事を出してもらおうか?」
「すみません、大丈夫です」
 心配してくれるミカエルに、アルは遠慮えんりょがちに断る。いや、断ったつもりだった。
 たぶん、それがいけなかったのだろう。
「なんだ、それなら今すぐ用意させる。おい、食事の用意だ」
 ルシファーが、横に控える悪魔に向かって命じた。
 アルはあわてる。
「あの、お気づかいなく」
「どうせ昼飯の時間だ。それより、いつまで立っている」
 さっさと座れと、ルシファーにうながされる。
 ミカエルがルシファーの向かい側に座ったので、アルもそれに習ってミカエルのとなりに座ろうとした。けれど、なぜか座る前に、ルシファーにとめられてしまう。
「おい、待て。アルはこっちだ」
 ルシファーは自分のとなりを指し示した。
「え?」
 アルとミカエルが、同時に驚く。
「いいから、さっさとこっちに来い」
「は、はい」
 ルシファーに命じられて、アルはあわててルシファーのそばへ行った。あごで座れと示されて、恐る恐るあいているルシファーの右どなりに腰かける。
 ルシファーは満足そうな顔をしたが、アルはピタリとひざを合わせて、深くシーツをかぶった。
 いえ、これ、初対面の魔王と同じソファーに座るとか、一体なにが起きているのですか。
「ちょっと魔王ルシファー?」
 ミカエルがとがめるような声を出す。
 すると、控えていた悪魔の一人が、うやうやしく声をあげた。
「大天使ミカエル様。ただ今魔王様は、このソファーが大変お気に入りなのです」
 その言葉で、ミカエルはすべてをさっしたようだ。納得したようにうなづいた。
「あー、またなの? その熱しやすく冷めやすい性格は」
「別にいいだろう。誰に迷惑をかけているわけでもない」
「君が気に入った物を周りにすすめなければね」
 ミカエルは、あきれたようにため息をついた。
 どうやらルシファーは、このソファーを大変気に入っていて、自分だけではなく誰かを座らせたいようだった。
 たしかに、このソファーはフカフカして座り心地がいい。けれど、それがアルなんかでいいのだろうか。
(どうせならミカエル様を座らせたほうがいいのでは?)
 そんなアルの心の声が聞こえたわけではなかろうが、ミカエルが立ち上がり、アルの右側にやってきた。
「アール、ちょっとそっちに詰めて。魔王ルシファーもね」
「え、あ、はい」
「なぜ、貴様までこっちに座る」
「三人がけのソファーなんだから、問題ないでしょ」
 にっこりとミカエルは笑った。
 なかば無理やりミカエルも座り、結果として、アルは右側を大天使ミカエルに、左側を魔王ルシファーにはさまれるという、まったくもってよくわからない事態におちいった。
 かなり大きな造りのソファーだけれど、なにせミカエルとルシファーが立派な体格をしている。三人で座ると、少し窮屈きゅうくつな感じがするのはいなめない。
「せまいぞ、大天使ミカエル」
「そう思うなら、君があっちに座ったら? 魔王ルシファー」
「なぜ俺が移動せねばならんのだ」
 自分の上を飛び越えるやり取りを、アルは小さくなってやり過ごすしかない。
 なんだろう、この状況は。
 広いと言えば広い応接間の中で、ほかにいくらでも座れるのに、なぜわざわざこんな窮屈な思いをしているのだろうか。
 けれどまだ、ここまでなら、よかった。 
「そう言えば、ネビロスはどうした?」
 ルシファーが、横に控える黒服の悪魔に問いかけた。
「ネビロス少将しょうしょう閣下かっかは、今朝から第二下層に行っております。もう間もなく、お戻りになるかと」
「うむ、そうか」
「なあに、ネビロス少将がどうかしたの?」
 ミカエルが、ルシファーにたずねる。
 知らない名前が出たことに、アルは首をかしげた。
「む、そうだった。貴様に言わねばならんことがあった。実は、アルを預ける先が、ネビロスに変更になった」
「あれ、たしかアスタロト中将ちゅうじょうのはずだったよね。なにかあったの?」
「別に問題があったわけではない。先日アスタロトの婚約が決まってな。近々結婚するそうだ」
「わあ、それはおめでとう」
「そこで、新婚家庭に天使を預けるのはどうかという話になってな。アスタロトの部下のネビロスに任せることになった」
 ルシファーの話をきいて、ミカエルは笑った。
「いいんじゃない? ネビロス少将なら文句はないよ」
「なら、決まりだな」
 ミカエルとルシファーはお互いに納得しているけれど、アルにはさっぱりだ。
 話が見えないアルに、ミカエルが説明してくれる。
「これからアールは、ネビロス少将って悪魔が面倒を見てくれるから」
「私の面倒を……?」
 少将ってことは、軍人だろうか。
「ネビロス少将はね、魔界の監察官かんさつかんだよ。優れた降霊術師こうれいじゅつしの家系でね、少将にして総監督官そうかんとくかんという大悪魔なんだよ」
 アルは、びっくりする。
 そんなにすごい悪魔が、アルの面倒を見てくれる話になっているのか。
「貴様、ネビロスにくわしいな」
「いやだなあ、これでも天界を治める立場だよ。要人ようじんの情報くらい頭に入っているよ」
 ミカエルは軽く笑って言った。けれど、それってかなりすごいことだなとアルは思う。
 見習えるものなら、見習いたい。
「アールは、とりあえずネビロス少将の言うことをきいていればいいからね」
「はい、わかりました」
 ミカエルの言葉に、アルはうなづいた。
 馬車の中でミカエルに、使者とはなにをすればいいのか聞いたとき、特になにをするとは決まっていないと言われた。
 魔界へ行ってからのことは、すべて魔界に任せてあるときいている。
 アルに政治のことはよくわからないけど、おそらく天界から天使を派遣はけんしたという事実さえあればいいのだろう。
 アルはこれから、そのネビロスという悪魔の指示にしたがっていけばいいらしい。
 ネビロス、ネビロスと、アルは心の中でその名前をくり返した。
「ネビロス少将なら優秀だし、独身だしね。まあ、あの容姿だから、いつまで独身かはわからないけど」
(あの容姿?)
 アルが疑問に思うとなりで、ルシファーが否定する。
「いや、今のところ本人にその気はないらしい」
「そうなの? もったいないなあ。どこかの誰かさんとちがって、生まれつきの悪魔なんだし、すごくモテるだろうに」
「おい、誰のことを言っている」
「……?」
 ルシファーが語気ごきを荒げるが、アルにはルシファーが怒る意味がわからない。
(生まれつきの悪魔?)
 アルの疑問を見てとって、ミカエルが逆に首をかしげた。
「あれ? もしかしてアールは、魔王ルシファーが堕天使だてんしだって知らなかった?」
「え、そうなのですか?」
 アルは、左側のルシファーを見上げた。
 堕天使とは、天使が魔界にちて悪魔になった者のことだ。
 堕天して悪魔になると、もう二度と天界には帰れない。
 しかし、もと天使なのだと言われれば、この綺麗な容姿も納得できた。
 驚くアルに、ミカエルはいたずらそうに笑った。
「それじゃあ、僕と魔王ルシファーが兄弟なのも知らなかった?」
(……えっ?)
「そうなのですか!?」
 アルは本当に驚いた。
 右と左の綺麗な顔を、交互に見上げる。
 いつも笑顔のミカエルと、基本仏頂面ぶっちょうづらのルシファーとでは、印象がまったくちがう。けれど言われてみれば、綺麗に整った顔だちとか、流れるような金色の髪とか、いくつか似ている要素があった。
「小さなころは、ミカちゃんルーちゃんと呼び合う仲でねえ」
うそをつくな。そんな呼び名で呼んだおぼえはない」
「なのに勝手に堕天して、魔界の王になるとかねえ」
「それは俺の好きにしていいだろう。それに堕天したと言っても、天使の輪がなくなった以外、たいして変わらん」
「いやいやいやいや。変わるからね。それ、すごく変わるからね」
 頭の上でミカエルとルシファーのやり取りが続くが、アルはそれでかと思っていた。
 きっとミカエルとルシファーは、いつもこうなのだろう。だから誰も二人のことをめようとしないにちがいない。
 ケンカするほど仲がいい、という言葉を、なにかの本で読んだことがあるけれど、それを実際に体現たいげんするとこんな感じなのかもしれない。
 アルが納得をしていると、コンコンコンと部屋のドアがノックされた。
「失礼します」
 お盆を持った数人の悪魔たちが、一列に並んで入って来る。
 部屋にいい匂いが広がって、アルはハッとした。
 そういえば、先ほどルシファーが食事の用意を命じていたことを思い出す。
「来たか」
「わあ、美味おいしそうだね」
 あれよあれよという間に、アルの目の前に次々と料理が並べられていく。
 スープ、サラダ、肉料理に魚料理、色とりどりの野菜を使ったものや、デザートとおぼしき果物が散りばめられた皿もある。
 アルが見たこともないような、手の込んだごちそうの数々。それらがあっと言う間にローテーブルいっぱいに並んだ。
 そのどれもが美味しそうで、そしてきっちり三人前ずつ用意されていた。
(……っ)
 アルは、のどの奥に物が詰まったような圧迫感を感じる。
「さあ、アール。いただこうか」
 ミカエルがにっこり笑いながら、いただきますと言う。
 アルは、シーツの端をにぎったまま、微動だにできなくなった。
 息が詰まって、胸が苦しい。
 どうしよう、どうしよう。気持ちがあせって、上手く頭が働かない。
 右に大天使ミカエル、左に魔王ルシファー、そして目の前には沢山たくさんの美味しそうな料理。
(どうして、こうなった?)
 こうなる前に、どこかで防げる機会はあったはずだ。
 わかっている。ちゃんと言わなかったアルが悪い。
 朝からなにも口にしていないから、アルだって本当は食べたい。食べたいけれど。
「どうしたの、アール? いただきますは?」
 うつむいたまま動かないアルに、ミカエルが声をかけてくる。けれど、アルには言葉を返せない。
 いただきますは、なにかを食べるときに言う言葉だ。それは言えない。言ったら食べることになる。
遠慮えんりょなく食え。美味うまいぞ」
 ルシファーが先に食べはじめてしまって、アルはますます追い詰められていく。
 どうしよう。こんなわがままを言ったら、怒られるかもしれない。心の広いミカエルとルシファーでも、これはさすがに怒るかもしれない。きっとすごく失礼なことだ。
 せっかく用意してもらった食事を、このままでは食べられないなんて。
 でも、言わなければ。先に言わなかったアルが悪い。たとえ怒られても、言わなければ。
「あのっ」
 意を決して、アルは声をあげた。その目の前に、スプーンが差し出される。
「美味いから、食ってみろ」
 魔王ルシファーが、スープをすくったスプーンを、アルの口元に差し出してくる。
 スプーンの上の琥珀色こはくいろの液体は、ほんわかと湯気を上げていて、美味しそうないい匂いがした。
 アルは、目の前が真っ暗になった気がした。
 どうしよう。これを食べなかったら、確実に怒られる。でも食べられない。食べたくても食べられない。
 アルには今、これを口に入れることはできない。
 謝っても、きっと怒られる。九年前も、それですごく怒られた。
「アール?」
 真っ青な顔をして小さく震えるアルの態度を不振ふしんに思ったのか、ミカエルが横からのぞき込んでくる。
「どうした?」
 ルシファーも不思議そうな顔でアルを見てくる。
 どんなに神様に祈っても、願っても、助けなどそうそう来ないことは知っている。
(たとえ九年前のようになったとしても)
 絶望的な気持ちになりながら、アルはのどに力を入れて、謝ろうと口を開いた。
 そのとき。
 高らかなノックの音が部屋に鳴り響いた。
 部屋の中の注目がドアに集まる。
 ルシファーが入室許可を出すと、ゆっくりとドアが開かれた。
「失礼します」
 よく響く低い声とともに、その男は現れた。
(……嘘でしょう!?)
 アルは、息が止まる思いがした。
 そこに現れた姿を目にしたとき、アルは自分のまわりから音が消え、まるで時間が止まったかのような、そんな錯覚さっかくをおぼえた。
 現れたのは、夢のように美しい男だった。
 光り輝く金色の髪に、意思の強そうな青い瞳。整いすぎるほどに整った顔は精悍せいかんで、はっとするほど美しい。
 すばらしく背が高く、姿勢がよく、軍服の上からでもわかるほど、きたえ上げられた立派な肉体をしていた。
 そしてなにより美しいのは、その背に生えた大きな翼だ。
 純白じゅんぱくにきらめく大きな翼は、一点のくもりもなく、まるで羽根自体が光を放っているかのように、キラキラと光り輝いていた。
 神々しい、という言葉の意味を、生まれてはじめて思い知る。
 ドアから現れたその姿に、目が引き寄せられて、離れない。
 胸がどきどきと高鳴って、アルは自分の体温が上がるのを感じた。
「なんだネビロス、遅かったな」
「やあ、ネビロス少将、久しぶり」
 ルシファーとミカエルが、それぞれ声をかける。
 それにその男は、歩く姿も美しくこちらへ向かってくると、腰を折って礼儀れいぎ正しくお辞儀じぎをした。
「お久し振りです、ミカエル様。遅くなり、申し訳ありません」
 アルは驚く。
(この美しすぎる男が、ネビロス様!?)
 先ほど話に出た、少将にして魔界の総監督官。そしてアルの面倒を見てくれるという、生まれつきの大悪魔。
(……どうして)
 アルは、心の中で神にうた。
 神様からの返事などないことは、百も承知しょうちの上で、それでもアルは神に問うた。
(神様。どうしてこの美しすぎる男が、悪魔なのですか)
 アルがまばたきも忘れて、シーツの下から見上げていると、ネビロスが軽く目を見開いた。
「それは?」
 ネビロスの声に、アルははじかれたように、ばさりとシーツを鳴らして立ち上がる。
「はじめまして、ネビロス様。アルです」
 先ほどミカエルに教えられた通りに挨拶をする。
 ネビロスを見習って、深々と頭を下げてから、アルは顔を上げた。
(……あ)
 見上げたネビロスの表情を見て、アルはギクリとする。
 涼しげな青い瞳が。凛々りりしいまゆが。少し薄めの形のいい唇が。
 怒っている。なぜかはわからないけれど、怒っている。
「アール、どうしたの? また気分が悪くなっちゃった?」
「え?」
 心配そうなミカエルの声に、アルはミカエルのほうを向く。
 すると、ほほれた感触かんしょくが伝い、ぽたぽたとシーツに小さなみを作った。
(……なんだろう?)
 視界がぼやける。自分の顔に手をやって、アルはなぜか自分が泣いていることを知った。
 アルは心底あわてた。
「す、すみませんっ」
 シーツでごしごしと目をこする。なぜ涙なんか出たのだろう。
 わからない。わからないけれど。
「すみません、お許しを」
 アルは、もう一度深く頭を下げた。声が震える。体も震えた。心臓が縮んで、胸が痛い。
(これはもうダメだ)
 泣いたら怒られる。
 それはよく知っていた。
「ミカエル様、ルシファー様、どうやら具合が悪そうなので、今日はもう部屋で休ませてやってもよろしいですか?」
 頭を上げられないアルの上から、ネビロスの声が降ってくる。
 え? と思って、アルは恐る恐る顔を上げた。
「そうだな。顔色もよくないし、今日は休んだほうがいいだろう」
「アール、大丈夫? なれない場所で疲れたのかもね。僕はもうすぐ帰るけど、そのうちまた様子を見に来るからね。よく休んでね」
 ルシファーとミカエルに、いたわりの言葉をかけられて、アルは驚きつつ恐縮きょうしゅくする。
「……すみません。ありがとうございます」
 それから、テーブルの上の料理を見て、もう一度謝る。
「せっかく用意してもらった食事を食べられなくて、すみませんでした」
「そんなことは、気にしなくてもよい」
「そうだよ、アールが悪いわけじゃないんだから。ネビロス少将、アールをよろしくね」
 ミカエルの言葉に、ネビロスは大きくうなづいた。
「はい、お任せ下さい」
 はっきりとそう言ったネビロスを、アルは不思議な気持ちで見上げる。
(怒っているのに?)
 先ほどのルシファーとミカエルの話では、アルの面倒をみる役目は、本当は別の悪魔だったらしい。ネビロスは、上司の都合で急にその役目を肩代わりさせられたようだ。
 アルみたいなお荷物を押しつけられたら、そんなの誰でも怒るに決まっていた。
 怒って当然だ。ネビロスが悪いわけじゃない。
 でもネビロスは、ミカエルやルシファーの前では、怒っているのをかくしているのかもしれなかった。
「では、失礼します」
 ネビロスがきっちりと頭を下げたので、アルも同じく頭を下げた。
「失礼します」
 そうしてネビロスの後について、アルは応接間を出た。
(あれだけの失態しったいをしたのに、一度も怒られなかったのは奇跡きせきかもしれない)
 それもこれも、ネビロスが現れて、そして連れ出してくれたおかげだ。
 先を歩くネビロスを追いかけるように歩きながら、アルは胸が締め付けられるような苦しさを感じた。
 ネビロスは、一度もアルのほうを見ようとはしないで、どんどん歩いていってしまう。けれど、じろじろと見られるよりはいい。
 あのりんと澄んだ青い瞳で、また怒りをふくんだ眼差まなざしを向けられたら、今度は倒れてしまうかもしれない。
(まさか、こんなに美しい悪魔がいるなんて)
 ネビロスの美しい背中の後につき、広い廊下ろうかを歩きながら、アルはその純白の翼を見つめ続けた。

 

           ~つづく~
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