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九
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才介の稽古は厳しい。
これまでの道場のあり様は、織姫道場などと、半分揶揄されて当然だったのだ。
甘さが完全に排除され、武ばった男臭い空気に一変した。
ついていけない者は脱落していき、門弟が減っていく原因の一つにもなっている。
強くなりたいのなら、才介の言う通り、稽古するしかない。
しかも、才介という、強い師範代のもとでだ。
小弥太は才介に心酔したらしく、熱心に通っている。
以前は、里絵とそれほど腕の差はなかったのだが、近頃はメキメキと腕を上げてきていて、もう追い越されてしまっている。
それも、里絵が面白くないことの一つだ。
おぶわれて戻った里絵に、織絵の大目玉が落ち、稽古が終わるまで道場に座っていることと、門弟たちが帰った後で、道場の掃除を一人ですることが命じられた。
「水野?」
小弥太がその名を聞いて、顔色を変えた。
「それはまずいな」
「何者?」
雑巾を絞り終えた里絵が、手をついて床を走り出す。
今日なぜこうなったのかを小弥太に話しながら、道場の床を拭いている。
戻ってきて桶に雑巾を放り込んだところで、小弥太が答えた。
「ご家老だよ。おそらくご子息の縫之助さまだ」
「・・・」
口をあんぐりと開けたまま、里絵の手が止まっている。
「だから、縫之助さまの一派に誰も逆らえない。・・・里、止まってるよ」
小弥太の言葉に、慌てて雑巾をゆすぐ。
口だけで、絶対に手伝ってくれようとはしない。
「どうしよう」
そんなのに目をつけられたら・・・。
いや、もうつけられている。
「こんな小さな道場に、来るわけないよね」
笑って誤魔化そうとする里絵の顔がひきつっている。
ことの重大さに、今頃になって気付いても遅い。
あのときは、カッとなって、後先のことなど考える余裕なんてなかった。
「来ると思う」
小弥太が怖いことをさらりと言った。
「来るって言ってたんだろ?」
「でもこんな汚いところ・・・」
「だからだろ? 虫ケラみたいに潰しにくる」
「ちょっと、小弥太! 言い過ぎでしょ!」
里絵がカッとなったが、
「わかってないのは、里の方だ!」
逆に怒鳴られた。
普段から穏やかな小弥太が、怖い顔で怒っている。
「・・・」
何も言い返せず、黙って雑巾を絞り、床を走った。
気まずい空気が流れるなか、床を拭き終えた里絵が桶を持って水場に行く。
小弥太は帰りもせずに、大人しくついてきた。
「怒鳴ったりしてごめん」
「いいよ。悪いのは私だから」
汚れた水を、畑にまいて、新しい水をくむ。
辺りはすっかり暗くなり、小弥太の顔の表情も読めないほどだ。
「どうしたの? 小弥太?」
でも、今の小弥太はおかしい。
何かを言おうとして、ためらっている。
「私たちの間で、隠し事はなしだよ」
男と女だけど、親友だと思っている。
少なくとも、里絵は。
「実はね・・・その連中に、兄が暴行を受けたことがあって、藩校に通えなくなったんだ。だから、おれも、道場は藩の道場じゃなくて、ここに来た」
「・・・そうだったんだ」
「だから、いつか、あいつらに負けない剣士になって、見返してやりたいんだ」
「わかった。小弥太。じゃあ、手伝ってよ。私、一人だとどうにもさぼってしまいそうだから、稽古に付き合って」
「何言ってんだよ。いつも一緒じゃんか」
「そうなんだけど、あらためて、お願いします」
「要するに、さぼらないように見張ってればいいんだな」
「別に、見張ってなくていいけど。照れるから」
小弥太を突き放すように押した。
「一緒に強くなろうってこと」
「そうだな。おれが里をビシビシ鍛えてやるよ」
「何それ、えらっそうに」
今度は強く押した。
「うわっ」
と小弥太がよろけて、笑った。
その笑い声に、里絵はほっとした。
これまでの道場のあり様は、織姫道場などと、半分揶揄されて当然だったのだ。
甘さが完全に排除され、武ばった男臭い空気に一変した。
ついていけない者は脱落していき、門弟が減っていく原因の一つにもなっている。
強くなりたいのなら、才介の言う通り、稽古するしかない。
しかも、才介という、強い師範代のもとでだ。
小弥太は才介に心酔したらしく、熱心に通っている。
以前は、里絵とそれほど腕の差はなかったのだが、近頃はメキメキと腕を上げてきていて、もう追い越されてしまっている。
それも、里絵が面白くないことの一つだ。
おぶわれて戻った里絵に、織絵の大目玉が落ち、稽古が終わるまで道場に座っていることと、門弟たちが帰った後で、道場の掃除を一人ですることが命じられた。
「水野?」
小弥太がその名を聞いて、顔色を変えた。
「それはまずいな」
「何者?」
雑巾を絞り終えた里絵が、手をついて床を走り出す。
今日なぜこうなったのかを小弥太に話しながら、道場の床を拭いている。
戻ってきて桶に雑巾を放り込んだところで、小弥太が答えた。
「ご家老だよ。おそらくご子息の縫之助さまだ」
「・・・」
口をあんぐりと開けたまま、里絵の手が止まっている。
「だから、縫之助さまの一派に誰も逆らえない。・・・里、止まってるよ」
小弥太の言葉に、慌てて雑巾をゆすぐ。
口だけで、絶対に手伝ってくれようとはしない。
「どうしよう」
そんなのに目をつけられたら・・・。
いや、もうつけられている。
「こんな小さな道場に、来るわけないよね」
笑って誤魔化そうとする里絵の顔がひきつっている。
ことの重大さに、今頃になって気付いても遅い。
あのときは、カッとなって、後先のことなど考える余裕なんてなかった。
「来ると思う」
小弥太が怖いことをさらりと言った。
「来るって言ってたんだろ?」
「でもこんな汚いところ・・・」
「だからだろ? 虫ケラみたいに潰しにくる」
「ちょっと、小弥太! 言い過ぎでしょ!」
里絵がカッとなったが、
「わかってないのは、里の方だ!」
逆に怒鳴られた。
普段から穏やかな小弥太が、怖い顔で怒っている。
「・・・」
何も言い返せず、黙って雑巾を絞り、床を走った。
気まずい空気が流れるなか、床を拭き終えた里絵が桶を持って水場に行く。
小弥太は帰りもせずに、大人しくついてきた。
「怒鳴ったりしてごめん」
「いいよ。悪いのは私だから」
汚れた水を、畑にまいて、新しい水をくむ。
辺りはすっかり暗くなり、小弥太の顔の表情も読めないほどだ。
「どうしたの? 小弥太?」
でも、今の小弥太はおかしい。
何かを言おうとして、ためらっている。
「私たちの間で、隠し事はなしだよ」
男と女だけど、親友だと思っている。
少なくとも、里絵は。
「実はね・・・その連中に、兄が暴行を受けたことがあって、藩校に通えなくなったんだ。だから、おれも、道場は藩の道場じゃなくて、ここに来た」
「・・・そうだったんだ」
「だから、いつか、あいつらに負けない剣士になって、見返してやりたいんだ」
「わかった。小弥太。じゃあ、手伝ってよ。私、一人だとどうにもさぼってしまいそうだから、稽古に付き合って」
「何言ってんだよ。いつも一緒じゃんか」
「そうなんだけど、あらためて、お願いします」
「要するに、さぼらないように見張ってればいいんだな」
「別に、見張ってなくていいけど。照れるから」
小弥太を突き放すように押した。
「一緒に強くなろうってこと」
「そうだな。おれが里をビシビシ鍛えてやるよ」
「何それ、えらっそうに」
今度は強く押した。
「うわっ」
と小弥太がよろけて、笑った。
その笑い声に、里絵はほっとした。
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