雪の匣庭

東崎 惟子@ 日曜西C24a

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深山安綺羽(七月二十七日)

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七月二十七日
 今日は記念すべき日である。無能記念日とでも名付けようか。なんと発生を確認してから一週間経っても寄生先を見つけられなかったのだ。無才もここまでくるとある種の才能めいくる。ともすると、発生したという時点から僕の不出来な脳には思い違いが生じているのかもしれない。この世界に存在しない物質で構成された幼胚は、発生のときを除いて決して割れることはないはずだが、ともすると心底間抜けなことに落雷のときに箱から転げ落ちた衝撃で割れてしまった、などという予測も、今の僕には唾棄できない。
 一週間。一週間である。
 マサチューセッツで奪った襤褸切れの走り書きには、羽化までの期間はおよそ十日程度とされている。きっと僕は、大いなるものの掌で踊り続け、成果を挙げぬままに識の羽ばたきにかき消されるのだろう。後には草の一本も生えない汚染された土壌と大気、そして崩れた焼き菓子のような廃墟が残るだけだ。
 自暴自棄になって昼間からブランデーをかっ食らった僕は、やがて熱に浮かされた頭と紅潮した顔に酒気を漂わせて町に繰り出す決意を固めた。今ならば、ギターの彼女の聞くに堪えない魔唱の野次馬になり果てるにやぶさかではなかった。
 その時はもう六時を過ぎていたのだが、外に出た途端、いまだ健在な灼熱に焙られる。湿り気を帯びた熱気がスカートや袖に籠って不快極まりない。いっそこんな服脱いでしまおうかと思うほどに。知覚できない魔性への備えなど、自慰に似た欺瞞でしかない。
 ギターの少女はいつものように見えない聴衆への献歌を続けていた。些か酩酊していたせいだろうか、夢心地の僕にとってそのこの世ならざる音色は聞き心地が良かった。トランスした心には、およそ現実にそぐわない歌唱のみに寄り添う資格が与えられる。高揚していた僕は、ギターの音色に合わせて踊り始めた。踊りといってもスーフィズムのセマーに限りなく似た、ただ回転を繰り返すものである。教団によれば、この回転舞踊は神への一体化を図るものらしいが――なるほど、今なら少しわかる。繰り返しの回転にやられた三半規管と、激しい運動で酸欠となった脳は、得も言われぬ浮遊感をもたらしてくる。もっと続けていれば、きっと僕は倒れるだろう。そのときに幻覚を見る可能性もある。太古の人間がこれを「神との一体化」と感じたとしてもなんらおかしなことではない。
 だが、結局僕は神と一体化するまでには至らなかった。
 演奏が止まったのだ。ふらつく足でどうにか地面に食らいつきながら、僕は奏者を見た。彼女は不思議な顔をして空を見上げていた。
 少女は、僕の眼に決して映らない忌まわしき幼生達を撫でるような仕草をした。
「なあ、君はもう十分に休んだだろう? 残念だけど、僕はただの止まり木だよ。本当のおうちにもうお帰り」
 僕は尋ねた。本当の家とは何のことかと。
「雪の他にうっすらと光るものが、誘蛾みたいにふらふらと飛んでいっているんです。あれは……月宮さんの家の方です」
 月宮……。
 月宮!
 そう、月宮!
 月宮恋衣だ!
 なぜ今の今まで彼女のことを失念していたのだろう。そこにはきっと大いなる力……自衛のために人間を遠ざけようとする意思の存在を見、あるいは魔性から遠ざかろうとする生存本能が妨げになっていたように思う。ああ、僕はなんと凡百な人間なのだろう。
 もし寄生先になるとしたら、最有力はギターの彼女だが、二番手は月宮恋衣だと思っていたのに。だからこそ、いじめや家庭内暴力のせいで行き場のない彼女の逃げ場として研究所を貸してやっていたのではないか。学会のためにヨーロッパへ渡る前は、毎日のように僕の研究所に遊びに来ていた彼女が、ここ一週間は姿を現さなかった。それだけでも、寄生されたと推測するに十分な状況証拠といえる。
 瞬時に様々な酔いが醒めた僕は、月宮邸に向かって駆け出した。場所はよく知っている。数年前、児童相談所の職員が訪問で一悶着あったことから、この町ではかなり有名な家なのだ。
 月宮邸が異様な雰囲気を纏って佇んでいるように思えたのは、僕の気のせいだけではあるまい。あと数日で終わる町のことだ。人間らしい気遣いは無用だろう。僕はドアに手をかける。空いていなければ窓ガラスをたたき割って侵入するつもりだ。荒事になった時に備え、バッグにはフリントロックも忍ばせてきた。装填数は無論一発だが、平和ボケした日本であれば一発あれば十分であるし、たとえケリがつかなくても、これの柄には殴りつければかなりの殺傷力を生む意匠が施されている。
 が、僕の覚悟とは裏腹に……ドアはあざ笑うかのような軽やかさとともに、その真っ暗な口を開いたのである。
 暗闇へと足を踏み入れる前に、僕は玄関先に不定形の何かが蠢いていることに気が付いた。うっすらと差す月明りが浮かび上がらせたのは、スライムかアメーバのような液状の生き物だった。全身の緩み切った筋肉をゆっくりと運動させて、蛞蝓のようにのろまに動いている。
 僕は、いや、僕でなくても、それが人間であることにはすぐに気付くだろう。なぜならばその水溜りの中に浮かぶ目玉が、まごうことなく人間の感情を以てこちらを見上げてくるからである。発声器官を持たないそれは、その目玉で必死に語りかけてくるのである。
「殺してくれ」と。
 だが、養分を吸われた抜け殻に僕は興味がない。このとき僕の背筋を……学者諸君ならばきっと理解してもらえると思うが、自身の理論が正しいと証明されたときや新たな法則の発見者となったときに特有の歓喜が駆け抜けていったのである。なぜならば、などと言うまでもない。
 ここにいるからである!
 外に這い出ようとするアメーバを僕はブーツで蹴り上げて、魔窟と化した家へと上がり込んだ。アメーバを蹴ったことに、高揚していた以上の大した理由はない。僕は土足のまま二階へ上がり、薄闇をかき分け、三つの扉から直感で一つ選び、開け放った。
 そして、僕は出逢った。
 月宮恋衣と、彼女が抱く人形に。
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