雪の匣庭

東崎 惟子@ 日曜西C24a

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月宮恋衣(七月二十日)

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七月二十日
 終業式。空は抜けるように青く綺麗だった。
 私はいつものように部屋の人形に「いってきます」の挨拶をした。そのうちの一つにはキスまでする。特にお気に入りの西洋人形である「ビスケ」は、父がまだ存命だったころに買ってくれた忘れ形見である。ところどころ痛んだり、服に染みがついていたりしていたものの、それでも他の人形達とは一線を画した美しさを有していた。なぜならば、これは父が愛娘のために特注した高級品だからである。私もその想いに応えるだけの愛情を注いでいるつもりだ。
 部屋を出る直前に人形達を一望する。私が帰宅した時に備えて、全員の方向を入り口に向けてある。こうすれば「おかえりなさい」を言われている気がして寂しくないのだ。
 満足して一階に向かうべく反転して、ようやく傍らに母が佇んでいたことに気が付いた。彼女は嫌悪感を隠そうともしない双眸で人形達を睨めつけていたものだから、私は慌てて扉を閉めて視界を遮ったのだった。

 終業式を終え、安藤美雪、西都姫子、碧海渚沙と今年の海の話をした。親同士の仲が良いため、毎年この四人で海に行くのが恒例となっている。私としては拒否したいのだが、母が人形を人質に取っているため断れない。もし反抗の意思を示せば、私の友達はゴミの日にまとめて出されてしまう。だが逆に言えば彼女の言うことに従ってさえいれば、友達の無事は約束されている。私が多少痛い目に遭うのなど、友の死に比べれば軽いものだ。

 放課後は四人でカラオケに向かった。私は西都姫子に下着を奪われ、安藤美雪の性器を舐めさせられた。そして帰り道、安藤美雪に犯された。こういういたずらに不快感を覚えることができれば、私の人生は平坦で安穏なものとなったに違いない。所詮人間が私に行う行為では、私の感情を動かすことはできないのだ。ただ下着を買う金をどう捻出するかだけは、少しだけ心を悩ませたかもしれない。

 夜になって、私はようやく帰宅できた。家に入っても帰宅の挨拶はしない。「ただいま」は、私の同族に向けて言う言葉だ。私のお友達は皆、ドアを一斉に注視して、私の帰りを今か今かと待ちわびているのだから。私はドアを開け、彼らに向かって言った。「ただいま」と。だが、その挨拶は、途中で力を失い、大気に溶けるように消えていってしまった。

 ない。
 ないのだ。
 私の友達が。部屋を所狭しと埋めていた人形が。
 一体残らずなくなっている。

 あるのはただ伽藍の洞になった空間。間取りと調度品が私の部屋と同じだけの別の部屋だった。
 茫然とする私の後ろに、挨拶をされなかった母親がやってきた。そして彼女はいかにも清々したという顔で、「人形はすべて今朝ゴミに出した」などと宣ったのだ。
 なぜ。どうして。私は約束を守って従順にしていたのに。そう責めると門限を破ったから捨てたと言い返してきたが、それが後付けの理由に過ぎないのは明らかだ。最初から今日捨てるつもりでなければ今朝のゴミ収集に間に合うはずがない。私の友達は母親の気まぐれの犠牲になったのだ。私は半狂乱になって彼女の胸を何度も殴りつけたが、一発の平手打ちの下に制されてしまう。それで一瞬にして冷静になった私は、今すべきことは人間の相手ではなく、友達の安全を確認することだと思い至った。胸の奥に見え隠れしている虚しさから目を背けて、私はゴミ捨て場に走った。
 無論、そこには何もない。半日近く前にゴミ収集車がその巨大な歯を以て友達を粉々に噛み砕き、かどわかしてしまった後である。骸亡き墓場で、私は澎湃と涙を流した。あと私にできることといえば、今朝、人形達が突如として自我に目醒め、ゴミ収集業者の魔の手を逃れ、そこの物陰で私の迎えを待っている、などという妄想くらいなものである。時の流れを忘れただただ立ち尽くしていた。
 地を揺らす振動と轟音が、私に意識を取り戻させる。私の髪と制服はびしょびしょに濡れそぼって肌に張り付いていた。激しい雨風に打ち据えられていることにすら気が付かなかった。
ふと視界の端に何かを捉えた。最初、それは撃ち落とされたカラスが羽を広げ力尽きているかのような、やや平べったい三角形のシルエットに見えた。距離にして十メートル近く先。遠目からは判然としなかったが、カラス大程度の生き物であることに疑いの余地はない。なぜなら蠢いている様子が見て取れたからだ。
 空虚であった私ににわかに好奇心が湧いてきて、足がそちらに進んだ。近づくにつれ、判然としない形が徐々に明らかになっていった。ああ、それは正確ではないかもしれない。私の思い違いに間違いないのだが……それは接近によって本来の形が見えるようになったのではなく、私の接近によって、私の望む形状へと変貌を遂げたような気がしたからだ。
 果たして、それは人形であった。
 私の部屋にあった、一番のお気に入りであった西洋人形である。
 髪の傷みも、洋服の染みも、寸分たがわない。間違いなく父の送ってくれた人形である。
だがどうしてここに残っているのか……。幸運が重なって収集者の魔の手を逃れたのだろうか。
まあ、逃げおおせた理由はこの際、重要ではない。人形が、それも一番のお気に入りが生き残ってくれていた。それ以上に何を望もうというのか。
 私は人形を濡れたブラウスの下に隠して家へ戻った。腹の部分がいびつな形に膨れたが、ゴミの廃棄を終えてご満悦の母がそれに気付くことはなかった。なので、洗うためにこっそり人形を忍ばせて風呂場に向かうことも大変容易なことであった。よほど機嫌が良いのか今晩は部屋に呼び出されて乱暴されることもなかった。
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