雪の匣庭

東崎 惟子@ 日曜西C24a

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月宮恋衣(七月二十九日)

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七月二十九日
 ルナに大きな変化が現れた。朝、私が目覚めた時、ヒトガタの外皮の下で蠢いていた芋虫はどろどろの里芋のような強い粘性を有した液状に変わっていた。だがただの粘液ではない。それらはある意思……いや本能にしたがって対流を繰り返している。中央には命の核と思しきものが心臓に似た脈動を打っていて、それの位置だけは変わることはなかった。新たなステージに進むために重要なプロセスにあるようだ。
 彼女の母と認められたからだろうか。私にはこの世ならざるモノの知識が流れ込んでくる。識(し)が教えてくれる。
 私の身は、この子の開花とともに消滅する。
 夕刻頃、私の携帯に着信があった。最初のうちは無視していたのだが、しつこくコールが続くものだからつい電話に出てしまった。電話をかけてきたのは同級生の碧海渚沙だった。なにやら切迫したような様子で、電話口でヒステリックに喚くものだから、ニ、三言葉をかわして電話を切ってしまった。彼女の金切り声は、電話を耳から遠ざけても十分聞き取れるほどにうるさかったのだ。今が一番デリケートな時だ。この子を変に驚かせたくはない。
 脈打つ人形を見下ろして思う。もし私がその気になれば、今すぐにこの蛹を床に打ち捨てて傷をつけ、人知れず人類の救世主となることもできるだろうが、無論そんなことはしない。私は死んでかまわない。むしろこの身一つでルナが羽化できるのであれば安いものである。ただ私の身が滅んだ後の我が子の安否だけが、この身の唯一の心残りである。この気持ちはなんだろうか。本当に母性なのだろうか。母性というものはわずか数日で生まれるものなのだろうか。我が腕の中の魔性は、人の心を侵食し、自身を守るよう仕向けることができるらしい。私の心に施されたのはそういう類の魔障なのだろうか。そればかりは私にはわからない。この愛情が、作り出されたものである可能性は捨てきれない。だがいっそ作り物でも構わない。作られた感情であるとしても……私の頭から足の先までを貫いた筋の通った初めての感情である。たとえ生存競争に利用されているのだとしても、気
付かぬうちに私の頭蓋の中を脳ではなく蕩けた緑の溶液にすり替えられているのだとしても、胸の奥の温かさが心臓が溶けている熱だとしても。私は一向にかまわない。母親とはもとよりそういう生き物だ。たとえ腹を痛めて産んだ子が相手であろうと……それを愛する心が本能にインプットされたプログラムでないと誰がいい切れよう。であれば、私のこの無償の自己犠牲をいったい誰であれば否定できるというのか。どこが違うと石を投げられるのだろうか。少なくとも女にはできまい。子宮を持つ女には。

 研究所の二階、ゆりかごのような椅子の上。
 新たな体を構築している彼女を胸に抱き、私は優しく撫でて過ごす。採光窓(あかりとり)からは青白い月光と、それをきらきらと反射する雪の花びら。
 「ルナ」と名付けたのも、今となってはただの思い付きではないと思う。本能的に私は悟っていたのだ。これが別世界のものであると。美しい女性に成長したかぐや姫は、きっと月に向かって羽ばたいていくのだろう。だから、ルナ。もしこれが日本人形の形をしていたなら、月の和名を授けていただろう。
 手のひらに命の鼓動を感じながら、私達は揺れる。間もなく訪れる別れのとき、それまでの一分一秒を愛おしんで。
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