雪の匣庭

東崎 惟子@ 日曜西C24a

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月宮恋衣(七月三十日)

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七月三十日
 心地よいうたた寝から目覚める。日本の夏は蒸し暑いが、それでも朝日だけは爽やかに柔らかい。昨夜はゆりかごのような椅子の上で眠ってしまったようだ。
 腕の中のルナにはまた大きな変化があった。昨夜まで半液体状だった彼女が、人形型の器の中でしっかりとした生き物の形をとっていた。
 それは、どうやら蛾であった。
 どうやらというのは、その人形の型に納まった生き物は、細部の特徴が蛾……いや、昆虫と異なっていたからだ。
 例えば一対の大きな眼を持つのは一緒だが、それは人間の目玉を集めて構成された複眼であったし、胸部の前で折りたたまれている細い肢は合計八本ある。下腹はでっぷりと膨れ上がり、時々鼓動を刻むように脈打つのだ。もはや芋虫だったころの面影は残っていないように思えたが、唯一口吻だけはかつての頃と同じ形をしていた。
 そして、そして何より……一番に目を引くのは、その翅(はね)だろう。
 人形のドレス部分にたたまれて収納されているそれは、曇りガラスのような半透明の外皮からでもわかるほどに美しく鮮やかな色彩を誇っていた。それは夢のような非実在性を有して、この世のありとあらゆる色へとなめらかな流転を繰り返しているのである。昨晩、かぐや姫を連想した私には、その翅は十二単のように見えた。
 明朝にでも羽化することは間違いない。私にできることは最後の瞬間まで物語を聞かせるだけだ。どうかこの子が慈しみを持った優しい子に開花しますようにと。今日も、動物が主役の物語を語り続ける。

 夜更けが近づいてきた頃、乱暴な音が階下から聞こえてきた。続いて、上階からばたばたと駆け降りてくる足音。安綺羽さんだった。屋上に逃げるようにとのことだ。何が何だかわからなかったが、安綺羽さんの鬼気迫る勢いに圧され、ルナを抱いて屋上へ出る。
ほうとため息をついた。
 見渡す町は一面の銀世界であった。
 町一面を覆う純白。それはあらゆる汚(けが)れを寄せ付けぬ侵しがたさで人の営みを沈めて、静めていた。天から降る粉雪は粒を大きくし、まるで星の絨毯を広げたがごとく空を飾り立てている。そして、町全体から吸い上げられた橙の燐光、命の灯火が蛍のように幻想的なゆらめきを以て、我が愛し子の下へ向かってきているのだった。
 ただ一つ、それらの幻想風景に似つかわしくないことは、研究所に大勢の人間が群がってきていることだった。彼らはむき出しの本能と、野蛮な武器を手に、扉の前でがなり立てている。そこで私はやっと安綺羽さんの言っていた意味を理解した。我が子を抱く腕に力がこもる。彼らの狙いはこの子だ。本能で天敵の存在を察知した人間が、ルナを殺そうとしているのだ。
 バン、バンと断続的な破裂音がする。実際に聞いたことはないが、それは銃声に似ていたと思う。こちらはただでさえ非力な女子だというのに、銃を持っている人間が居たら手も足も出ない。
 どれくらい時間が経ったろうか。やがて銃声のようなものがやんだ。
 階段を駆け上がってくる音が聞こえる。屋上の扉が乱暴に開け放たれ、バットを持った青年が飛び込んできた。間髪を容れず続々と人が流れ込んでくる。私はあっという間に取り囲まれてしまった。包囲網の中には、私の知る顔もあった。私は次の瞬間には暴力の渦に飲み込まれていることだろう。抗う手段など何も持ち合わせていない。
 だから、せめて最期まで母親らしく凛(りん)とすることに決めた。
 私が怯えているようでは、この子に不安が伝わってしまう。だから、母性に背中を押され、目いっぱいに胸を張った。
 知った顔が、私に駆け寄るとつるはしを振り下ろした。我が子を守ろうと咄嗟に背中を向けて庇う。灼けるような痛みが背を走った。次の一撃が私の頭をしたたかに穿つ。それで、私は引き返せないほどの死の領域に踏み込んでしまったのを理解した。倒れ込みながらルナを自分の体の下に隠した。死に行く身体にもできることが残されているのならば、それは子どもを守る肉の盾となるだけである。様々な凶器が、私を種々(くさぐさ)な形に抉り、削り取っていった。

風を切る音が聞こえる。
ハンマーでも持ってきていたのだろうか。何かが腰にめり込んでいくのがわかった。脊髄下部と骨盤が砕かれていくのがわかった。苛烈な激痛に反射的に体が海老のようにのけ反った。脊髄反射で体が逃げようとする。続けて脳が人形から離れるように指示してくる。
 ――それを、『優しさ』で封殺した。

 包丁か、ナイフか、あるいは刀か。とにかく鋭いものがルナの柔肉を裂こうとした。手を伸ばしてそれを防いだ。私の中指と人差し指の間から前腕の途中までがぱっくり割れて、まるでふたつ指のエイリアンのようになってしまう。その防御行動を持ってる腕の数だけ繰り返した。二の腕から先を上げてみる。赤い血を噴き出しながら、ぷらぷらと揺れる腕は草花に似ていてあまりに頼りがない。それでも、ルナの上にかぶせてあげれば、あと一撃は盾の役割が担えるだろう。もっとも、断裂された神経、千切れた筋線維には、もはや私の指令がきける理屈がない。
――だから、『愛情』で動かした。

 鳥のくちばしのような形をした殺意がルナに迫る。つるはしだ。あんなもので叩かれたら、ひとたまりもない。ルナの外皮が砕けて、ぐちゃぐちゃに潰された中身が零(こぼ)れだしてきてしまうだろう。腰を砕かれ、両手を裂かれた私だが、まだ動かせる部位が残っていた。ウジ虫のように蠢いて、凶器の切っ先に頭を差し出した。古いゲームがバグった時に似ている。私が正常に思考できる部分が破壊されて、断絶され白く、、、もはや白く白く白くあっ飛び散りが見える。私が私だったあっものが私から飛んああっでいき私は終わる。掻きんんっ混ぜられ、きもちああいいい、ぐるぐるとまわ、しんけい、がまきとられ、がくがくとふる、よだれとかいか、ん、はじめての、みえるしろいひかりそれでいいいくくくおわりてのばしししししししたどりりりいおおおわわりりりりりりりりりりり。
――だから、『母性』に代替させた。

 『月宮恋衣』という十七歳の人間に似たヒトガタは、ものの数十秒で人間として不可欠なパーツをあまりに多く失い、飛び散らせた。
 残ったのは赤の襤褸切れであった。
 異形の人形にまとわりついているのは、もはやヒトガタすらしていない襤褸切れであった。
 呼吸などとっくに止まっている。心臓の鼓動も同じく。かち割られた頭蓋。そこから覗く赤黒い伽藍洞。桃色の脳はぐちゃぐちゃになって雪の中に沈んでいる。ついでに言えば、つるはしで後頭部を砕かれた衝撃で飛び出した両目も、好き勝手な場所で雪の白に埋没していた。

 だが、それだけだった。

 ただ呼吸が止まり、心臓が拍動を停止し、脳を失い、あらゆる身体を欠損している。
 ただそれだけのことだった。
 月宮恋衣は死滅していない。
 否。
 母親は、まだ生きている。
 心臓拍動停止、呼吸停止、瞳孔散大・対光反射停止。
 人間が定めた『死の定義』。 
 そのなんと詰めの甘いことか。
 そのすべてを満たした途端、細胞が動きを一斉に停止するわけがない。
 だから、まだ生きている。
 母の愛は、その細胞は、まだ子供を守るために動いている。

 だから、誰かが私をルナから引きはがしたとき、私はすぐに飛び掛かって再びルナをかばうことができた。

 私は幽体離脱でもしたみたいに、少し離れた場所から私の肉の奮戦を眺めている。
 その様は、光景は、風体は。
 ずるずると這いずる赤黒い雑巾のようなものは。
 囲む亡者よりも遥かに化け物と呼ぶに相応しい。
 人々は恐怖した。本能がむき出しになっているからこそ、ストレートな原始的恐怖が彼らに獣の叫声を上げさせた。
 身がすくんで動けなくなるもの、一刻も早く逃げたくて飛び降りてしまうもの、狂乱して駆け回るもの。
 亡者のうちの一人、――よく見れば碧海渚沙だ――は絶叫し終えた後、転がっていたつるはしの柄を掴んだ。
 出来る限り高い位置まで振り上げると、私に向けて力の限り振り下ろす。先日の電話の会話から、彼女が魔女なる魔性を恐れていることは知っていたが、いよいよそれがピークに到達し、ヒステリックになっているようであった。でたらめに力を込めて殴りつけたせいか、指が切れて緑色の体液が零れ、赤い肉を転々と汚していった。
 凶刃が空っぽの頭部へ入っていく。後頭部の頭蓋を砕かれ、脳も失った母体にはもう前頭部の骨しか防護壁がなかった。それはつるはしの先端に集約されたエネルギーを防ぐにはいささか脆い……。鎌のような先端部が骨を貫通した。
 亡者の少女がつるはしを引き上げると、かつて顔面だった場所に大穴を開け、尖った刃を生やした赤の塊の私がぶら下がっていた。
 亡者は汚れを払うようにつるはしを横に薙いだ。襤褸切れは赤を振りまきながら、不快な水音を立てて雪に埋没した。今度こそ、化け物は動きを完全に停止した。


 あとに残されたのはむき出しの人形だけである。さしもの母体も、もはや指の先――どこが指かは判然としない形にはなっていたものの――すら動かすことができなかった。
あわやと思ったが、すぐに杞憂だとわかった。なぜならば人形に縦一文字の亀裂が入っていたことに気が付いたからである。
 そこから、銀色の羽毛のようなものに覆われたナニカが外に出ようとしている。
 丸まった背中が割れ目を押し広げて、出てこようとしている。
 小刻みに震えた後、勢いよく上半身を飛び出させた。セミの羽化のように、のけぞらせた半身を。たかだが数十センチ程度のヒトガタに、どのようにしてこれほどまでの巨躯が収められていたのかは、人間の知りうる次元の知識で説明することは不可能だろう。ナニカは半身だけで十メートル近くあるようだった。
 その顔は確かに蛾に似ている。長い口吻と二対の触覚、ただ水晶のように滑らかな複眼はよくよく見れば人間の目玉の集積であった。
 この時点が、この町の人間が生き残ることができる最後のポイントだった。というのも、まだ『翅』が広がっていないからである。つるはしでも包丁でも、何なら素手でもいい。
 人間の世界は相性が悪いのか、飛翔を始めるまでは脅威となる生物ではない。羽化して間もない身体に暴力を間断なく振りかざせば、簡単に死滅させられたに違いない。……もっとも、自身の数倍の体躯を持つ異形相手に立ち向かう勇者がいればであるが。
背部に付着していたくしゃくしゃの何かが、徐々に外側に広がって伸びていく。それが翅である。アイロンでもかけるように皺がのばされていく。広がり切った時がこの町の寿命でもあった。
 翅が完全に開ききる。
 それは三対六枚の翼であった。
 不吉な輝きを纏っていた。
 宗教に造詣がない者にも熾天使を連想させた。
 言葉を失わせる美しさと、未来を奪う禍々しさと、命を塗り潰す純白さ。
 刻まれた模様は、人が目にしてはいけないものだった。
 即時に処理能力の限界を超えた脳が融解を始め、観衆の耳から流れ出した。
 虹色であり、無色であり、金色であり、銀色。まったく異次元の色彩が、翅から放たれて町に広がり、染み込み、浄化していった。
 屋上から人が消えた。決して汚されることのない輝きを前に、人間という生き物は汚穢が過ぎた。

 やがて、完全に翅を乾かした蛾は、八本の足で屋上に立った後、飛び立った。
その翅で、人知を超えた、人には理解できない識を以て、人々を照らしあげるのだろう。
 町を永遠の眠りに誘う、識への飛翔であった。
 私の肉塊もまた、永遠の安堵とともに光に包まれて消えていった。
 母親の特権として、他の者達より少しだけ長くここに居据わり、我が子の巣立ちを見送って、ついに幽霊のように残っていた私の意識もかき消えた。
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