中二階の虫籠窓

こいちろう

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5.医は仁術也と

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 さてもう一人。森尾正道という男も平次郎馴染みの遊び人である。その父親は知る人ぞ知る小石川の名漢方医、四男坊の正道も半年ばかりは医学館で修行した。
 ところが元よりの医者嫌い、いや学問嫌いの放蕩息子だ。
「学医じゃ匙は廻らねえ!」
と、聞いた口をポンと叩き、修行の足は遠のいた。

 医学所の門前で、門下生仲間の一人の奴が喋ってたんだ。まるで聞こえよがしに、下僕を相手に大きな声でこう言っていた。
『名門の出だかなんだか知らないが、あいつより、お前の方がよほど勉強する値打ちがあるってもんだ』
そうか、こいつらには役立たずのオレなんかが、ここに通うのはお笑い種なんだろうな。
 よし、それならばと思った。どうせ医者なんて、どこぞの町医者に付いて修行すりゃあ、幾年かで門前に看板を出せるんだ。オレは生まれて今まで、親父と兄がやっていることを見てきたのだ。診立てなど見よう見まねで何とでもなる。修行なんかもう十分だ。
 ただこのままじゃ癪にさわる。こいつらの鼻を明かしてやるために、オレは独学で不老長寿の薬を開発してみせるのだ。昔から天狗が持っているという、その常備薬を作ってみせよう。天狗が持っているものなら手に入らぬわけがない。それを見真似て、もっと良い薬を大量に作ってみんなに売ってやる。
 金がほしい訳じゃないぞ。名を上げてアイツらを見返してやるんだ。オレはそういう大志を抱いて医学館をやめてやったのよ。
 そう仲間内ではうそぶいている。

 今は勘当同様、商売でも習えと遠戚にあたる平川町の蝋燭問屋、吉田屋の離れ間に身を寄せている。
 正道、分けても佐吉と仲が良く、二人揃っての色街巡りだ。平川門前、赤坂は勿論、新宿辺りや鮫が橋の私娼宿まで、知らぬ悪所は殆どない。ただ、此れまであちらこちらと散財尽くしてはみたものの、割に合わぬは正道ばかりで、何時も佐吉だけが良い役廻りになる。
 それもその筈、佐吉は糀町一を自認する色男だ。かの平中、保昌もかく有りなんと自惚れる程の男ぶり、素人女には警戒されるが、世辞上手で玄人受けする性質だ。
 それに引き替え正道は、生まれついての無骨者、女の前では気の利いた洒落の一つも言うことができない。それでも一人きりでは悪所通いなどとても出来ない小心者で、背に腹下は変えられぬと、何時も佐吉の後を付いて歩く。
 そんなある朝、正道一人が何時も通りの朝帰り。付いた女郎に愛想を尽かされ、今朝も今朝とてしょぼっくれて帰ってきた。漸く六つを過ぎた小雨の中で、人の往き来も余りない。町の木戸もようやっと開いたばかりである。
 大横町を左に折れて平川町に入ったところで、顔馴染みになった番太郎の爺さんに出くわした。いつも愛想の良い爺さんだ。お番所前の高張り提灯を消す所であった。
「おう、爺さん今朝は冷えるねえ」
 いつものように一声かけて近づいた。ところが爺さん、愛想笑いを返しながら、提灯に手を差し上げて背伸びしたその途端,足下がふらつきドッとその場に伏し倒れた。
「おいっ、どうした爺さん、大丈夫か。怪我はねえかい」
「へへぇ、大丈夫でえ・・・なに、これ程のこと」
貧血でも起こしたか。
「こうした寒い日だ。あんまり無理をするんじゃないよ」
手を差し出して助け起こそうとしたところ、血の気の引いた唇が小刻みに震えている。
 ようやっと立ち上がったものの、すぐにその場にへたり込んだ。
「こりゃあいかん。此れだけ冷えてはなあ。爺さん中に入ろう」
路地向こうの番人小屋まで、肩を抱えて連れて行った。
 ガラッと手荒く戸口を開けると、小柄な娘が一人居た。独り者の番太郎とばかり思っていた正道は、一寸ばかり躊躇った。しかし、
「朝っぱらからすまん。通りがかった者だが爺さんの様子が変なのだ」
そう言って、勝手に部屋の中まで担ぎ込んだ。 
 面食らったのは娘も同様だ。ぐったりと畳の上に転がった白髪頭の年寄りにすがりついた。
「爺さま!爺さま!」
突然のことに気が動転した様子で、何度も肩を揺すりぶりながら声をかける。
 爺さんは唇をわなわな小さく震わせて
「大丈夫でぇ、大丈夫、心配するなぁ」と娘を落ち着かせるように小さな声でつぶやいた。
「この寒気の中だ。きっと立ちくらんだんだろう。しばらくは体を温めて横にさせてあげなされ。此れ此れ、左様に爺さんの体を揺り動かさぬ方が宜しいぞ」
 早々に帰ろうと思っていた正道も、娘の驚き、慌てふためいた姿を前にして、直ぐには立ち去れずにいた。
「娘さん、先ず火を熾しなされ。それから、身体の上に掛けられる物を何枚か。できるだけ爺さんの身体を温めてやるんだ。慌てることはない。私には多少ながら医術の心得があるのだ。心配はいらぬぞ」
 聞こえているのかいないのか、娘は爺さんにしがみついたまま離れない。そっと肩に手を掛けてやれば、漸く正道に目を向けた。泣き出しそうな顔ではあるが、涙で滲んだ二重の瞳が美しい。寝起きの乱れ髪が数本、白い頬にくっきりと黒い筋を引いている。番太郎の娘とは思えぬ気品ある顔立ちだ。
「私は医者だ。診たててあげよう、心配ない」
顔を合わせて念押ししてやると、ようやく娘は立ち上がり、土間で火をおこしだした。
  さてこの正道、娘の手前格好を付けて、医術の心得有りと言ってはみたが、それからどうして良いのやら噸と分からぬ。
「学医じゃ匙は回らねえ、医は仁術だ」
そう言い捨てて医学館を去ったものの、
「医者の心得?」
そんなもの知るわけがない。
 爺さんの額は高い熱だ。唇は血の気が引いて小刻みに震えている。ただ、意識ははっきりしているようだ。正道が誰かも分かって、気を遣う風でもある。娘が出してきた綿入れの薄い寝衣を二枚重ねて被せてやった。
 手首の脈、良くわからぬが正常だ。薄っぺらい胸に少し動悸があるか。口を開いて覗いてみると、喉の奥が白くざらざらしている。『お染かぜ』も流行り始めた時節柄だ。よく判らぬが、見ての通り、これは風邪の引き始めだ。まず間違いはない。佐吉や平次郎相手なら、
「たかがお染かぜだ。そんなもの『久松るす』とでも戸口に書いて貼っておけ」
くらいの冗談で済ます程度のところだ。
 娘が土間で熾した炭火のおかげで、徐々に暖もとれてくる。やがて爺さんの頬にも赤みが差し始め、不安げな表情が消えて震えも収まってきた。正道の声かけにも笑顔で応えるようになった。
「爺さん、大丈夫だ。じきに良くなる。今朝の寒さはオレだって身に染みるぜ。ゆっくりと寝てなさい。娘さんが居て良かった。娘さん、寒い時だ。じいさんをあまり動かぬようにな。あとで熱い白湯でも飲ませてあげなされ」
正道が声をかけると、爺さんは頷いて目を閉じた。まずはこれで良かろう。娘に告げて座を立とうとすると、少し気も落ち着いたのか
「今少しでお湯も沸きましょう。どうぞお茶でもおあがりください」と引き留められた。
 十一月も中旬であるから寒さも応える筈である。おまけに、今朝は一段と風が冷たい。茶を待つ間、病人の枕元でその顔色を窺っていた。身体が温まってきたのだろう。爺さんの頬に赤みが増してきて、息遣いも落ち着いてきた。安心したのか、軽やかに寝息もかき始めている。
 正道は少し己れが誇らしくなった。初めての患者を診立て終わった訳だ。
 といっても特段診立ててなどいない。正道のやったことといえば、只火を熾させて、寝衣を重ねて被せただけだ。風邪引きに暖を取らせることぐらい誰もが思いつく。
 だがそれこそが仁術だ。治療など特段のことはない。学問などで病は治せるものか。手際よく、あれやこれやと指図して患者を落ち着かせただろ。弱った爺さんに寄り添って、温かい声もかけてやったじゃないか。患者には温かい言葉掛けが一番の薬だ。気の利いた励ましの言葉をかけ、患者や家族を落ち着かせることができるかどうか。それが仁術だ。オレだからそれが出来たのだ。だから爺さんも、オレの診立てを信じて気が落ち着いたのだ。矢張り医は仁術なのだ。思いやる誠意さえあれば病など治せる。名医は、言葉一つで患者に生きる力を与えられるのだ。オレの言葉は、天狗の薬よりもよく効くぞ。
 正道なりの理屈だ。
「医者という生業も満更ではない」
などと、まるで医学の道を極めた様な気になった。差し出された茶をすすりながら娘の方を窺うと、娘も漸う安心した様だ。白い頬に僅かな笑みを浮かべ、愛らしい顔を見せている。冬だというのに擦り切れかかった薄地の単衣を身にまとっただけだ。上に古い夜着を端折っていたのだろうが、先ほど爺さんに掛けてやった。もう十七にはなるだろうに、紅一つさす訳でもない。だが、透けるような白い素肌には年頃の艶やかさがある。
 昏々と眠り始めた爺さんを挟んで娘と対座している。正道はかける言葉に困っていた。対座した娘の方にも言葉がない。爺さんの寝素顔を、ただ安堵の表情を浮かべて見つめている。
「お爺さんはかなりのお年と見受けたが?」
ようやっと一言尋ねる言葉を思いついた。
「はい・・・。実は私も爺さまの正確な年は存じません」
少しためらいながら娘は言った。娘の方はこの正道の一言で充分だった。いくらでも話せる身の上があるのだ。
「実は私の幼い頃、お仕えしていた藩がお取り潰しになりましたため、父母と数年前からこの長屋に住むようになりました。五年ほど前になりますが、その父母が体調を崩し、立て続けに亡くなったのです。その時、孤児になった私を、この長屋の皆様や番太郎の爺さまが、可哀想に思って養ってくれたのです」
「そうだったのですか」
「ですから、この爺さまには大変なご恩があるのです。もっともっと長く生きていただいて、御恩の少しでもお返ししたい。父母同様の大切な方なのです」
静かな声だが、もう少し話し続けたいのだろう。娘は顔に笑みをみせて正道を見ている。ところが、正道の方はどうにも間が持たない。
「まあ診たところ只の風邪だろうが、少し疲れもあるようだ。よく動き回る番太郎さんだったからな。まず、今は休ませてお上げなさい。暫くじっと養生すれば大丈夫と思う。ただ高齢だ。流行り風邪もこじらせると後が怖い。私の家の方に葛根湯を置いてあるから、後で取りにおいでなさい。私は吉田屋の離れに住んでおります。このすぐ先の蝋燭屋だ」
 それだけ言って、とうとう立ち上がった。                         
「本当にご面倒をお掛け致しました。何のお礼も出来るものではございません。でも、お名前なりと窺わせて下さいまし」
娘は正座のまま両手をついて深々と頭を下げる。
「いや、これは失礼。名も言うておりませなんだ。私は、今は居候する身でありますが、医学館で学ぶ傍ら、町医者の手伝いのようなことをしておる森尾正道と申します」
「まあ、医学館の・・・」
面映ゆかった。娘の手前つい見栄を張った。
「爺さまとは以前からのお見知りで御座いましたか?」
「いや知己というわけでもないのだ。だが朝夕通り掛かりに顔はよく合わせていたから、顔見知りではある」
「まあ、そのようなお方に此処までのお気遣いを頂きまして、お礼の申しようもございません。それにしても随分と朝早いのに、お勤めがおありだったのですね」
「うん、なに今朝は特別に診てほしいという知己の者があってな。それが誠に幸いであった。礼などと堅苦しいことは御免被る。何せ、未だ修行中の身であります故」
完全に医者に化けた己れが恥ずかしい。しかし、まあ嘘も方便だ。色里帰りなどとは言えはすまい。
 土間に降りて正道の履き物を揃え、また深々とお辞儀をするこの娘、じつに折り目正しく物言いも清々しい。ここのところ気分の鬱いだ正道には、久々に心地の良い朝であった。
「してそなた。そなたの名は」
「はい、りよと申します。父は元、羽州中山藩に仕えておりました。江戸に参ってから、父と母は病いで臥しがちであったのですが、実はここのところ爺さまも、その時の父母と同じような咳こみがあって、随分と心配しておりました。つい先だっても、強く咳き込んで寝込むことがございました。ですから貴方様のようなお医者様に診立てて頂き、今日は本当に安心いたしました」
 はて、強く咳き込んだ?その言葉が気にはなったのだ。医者ならば、まず身内から患者の日頃の様子を聞いてみるのが、基本中の基本なのだが。それを先に聞くべきだったか。父も母も同様な咳き込みがあったと・・・。
 ひょっとすると労咳か?
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