ワスレ草、花一輪

こいちろう

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 その頃、おなつは新平の容態を案じて彼の部屋に声をかけた。だが、彼の姿はなかった。宿の女中に問うと、夕涼みに出かけると聞いてもう一刻近く経つという。病み上がりだというのになんて人なんだろう。そうおなつは思った。
「今日だってあんなに辛そうにして歩いていたのに・・・」
本当に困った人だと、半ばふくれっ面になって自分の部屋に退散した。
「もうこれっきりよね」
ふと、この五日ほどの道行が思い出される。
 碓氷峠の権現様の前で、苦しそうに腹を押さえてうずくまっていた。それを介抱したのが最初だった。とても歩けそうにないのに、「急ぐのだ。一刻も早く江戸に着かなければならないのだ」と、立ち上がってはまた座り込む。
 義兄からはほっておけ、と言われた。でも、ほっておける訳がない。持っていた気付け薬を飲ませてあげて、肩を貸してあげて、まるで負ぶってるみたいにして、やっとのことで峠下の坂本の宿まで下りた。それから丸一日、寝たっきりになって、おなつがが作った粥を少しずつ啜って、やっとしゃべれるようになったら、「仇が何たら、帰参がなんたら」そんなことばかり繰り返しては言っていた。やっと起きれるようになったら、「もうすぐ江戸だ」なんて今度はすぐに立とうとした。
「無理なのよ。今日だって度々座り込んだじゃないの」
 しかし、此処まで世話を焼いてきた新平だが、所詮は縁の無いお侍だ。お侍にはお侍のお役目がある。自分だって明日からは、このお江戸の町でただ一人奉公する身だ。
「どうせ、明日になれば別れ別れになるんだもの。あのお方とはもうこれっきりよね」
 そう思ったら、何やら虚しいものが胸にこみ上げてくる。
 五年前両親と別れてからは独りの寂しさには慣れている。なのに、今宵は無性に心細い。何か心の中に大きな空洞ができたような感じがして、自分自身が丸で頼りない。義兄は、一寸人に会うてくると言ったきり、まだ帰って来ない。
  おなつの部屋は新兵衛の部屋と中庭を隔てた別棟の中二階で、風も入らぬ小部屋である。背丈ほどの高さに小さな明かり取りの虫籠窓がある。障子を少し開けると満月が近いと見え、夜中というに明々と周りを照らしている。際限なく広がった夜の虚空を、その幾分赤みを帯びた明かりが和らげている。何処からか鐘楼の鐘の音が四ッを告げた。宿の中はもう静まり返っている。
  暫くして漸く常助が帰ってきた。後ろに見知らぬ男を一人連れている。男は部屋の外からおなつを一瞥すると、常助に目配せをして、再び二人で連れ立って外に出た。その男の射すくめるような冷たい視線を浴びて、おなつは背筋が寒くなった。
 
 おなつは元々、上田の反物屋の長女として生まれた。幼いころは何不自由のない生活をしていたが、彼女が十二歳の時分、商才のなかった父親の借金が元で、店が人手に渡ってしまい、気が抜けたような風になった父親はいつの間にか行方を眩ました。それ以来、おなつは母親の遠戚筋である今の養家に預けられた。妹二人もそれぞれ別の親戚に預けられた。母親は上田で働きながら時折娘達に逢いに来たが、元々身体が弱かった上に疲労が重なり、まもなくして病死した。
 初めは養家の暮らし向きもよく、義父は優しくしてくれた。ところが、昨年の冷害による酷い飢饉である。さらに、思いがけぬ義父の発病が追い打ちをかける。たちまち養家は生活に困窮するようになり、おなつが奉公に出されることになったのだ。
 一刻ほどして常助が戻ってきた。
「何だ、まだ起きていたのか」
相当酒を飲んできたようで上機嫌である。
「さっきのひとは?」
誰かと問うた。先ほどの射すくめるような視線が気になっていた。
 酔いの廻った常助は、胡座をかいて部屋の真ん中に座り込んだ。しばらく酔っ払った荒い息をしていたが、やがて意を決したようにおなつに向かってこういった。
「おなつ、すまねえな。お前がうちに来て五年になるが、一つも兄貴らしいことはできねえままだ。爺っさまからはいつも言われていたんだ。おめえのことは重々大切にしてやってくれとよ。オレもそう思うて、いつかはそれなりの嫁の行き先を探してやりたいと思うてた。でもよお、ここのところ何年も酷い飢饉の繰り返しだ。今年も日照り不足で稲の育ちが一つも良くなりそうにねえ。爺っさまは日に日に弱っていくばっかりだし、嫁は産後の具合が随分と良くねえ。働けるのは婆っさまとおめえとオレだけだ。よく働いてくれるおめえが抜けるのはうちとしても苦しいんだ。だがよお、米が出来なきゃ百姓はお終めえなんだ。以前はうちにも多少の蓄えがあった。でもな、もう今じゃそれもなんにもない」
常助は酒の勢いを買って、日頃よりは饒舌に義妹に詫びを言うた。
「おめえに奉公に出てもらうのはオレとしても心苦しいんだ。でもよ、今年は年貢を納めりゃ後はみんなで飢え死にだ。それで、近くの商家なんかで奉公口を探してみたが、小諸や岩村田あたりじゃどこにもそんな余裕なぞねえ。近在みんなが苦しい時なんだ。オレとしたって、変なところに奉公にやったと言われたんじゃ世間体が立たね。それでお前をこんな遠い江戸まで引っ張ってきちまった。オレの甲斐性が無いばっかりに本当にすまねえ。奉公先の先借金が頼りなんだ。年季前に少しでも早く先借金を戻して、それで里に帰れるようにしてやる。だから頼む、どうぞ堪忍しておくれ」
 里を出てから道々考えた理屈なのだろう。
「義兄さん、そんなに自分を責めることはないじゃない。お天道様のバチは何も私らだけじゃない。こんなご時世だもの、お百姓の家はみんなこうしたものなんだから。私はどこだって働けるよ。働く事は嫌じゃないから。それより、この五年ほど、身寄りの無い私を本当に大事にしてくださった。義兄さんたちにそのご恩返しができるのだから、私はそれで幸せよ」
 おなつは心からそう思っている。普段は無愛想で上手の一つも言えない義兄だが、根はそんなに悪くは無い人だ。
「それでなあ、おなつ。実はつい先ほどこの板橋宿で奉公先を決めてきたのだ。充分な先借りの年季奉公だ。年季が明けたら必ず迎えに来る。いや、金さえ出来たら一年でも二年でも早く迎えに来てやる。すまねえ、だから・・・」
そこまで言うと常助は、急にうつむいて涙をポトポト畳に落とした。そしてそっと懐から書き付けを取り出しておなつに突き出した。
 悪い予感に襲われた。おなつはそっと手にとって中を読んだ。
おおよそ次のような証文であった。
『われらが身上不如意につき、親類相談の上、ご当所へ連れ来、道中旅篭屋の飯売下女に差し出し申したくそうろう所、手筋もござ無く難儀致しそうろうに付き、貴殿おたのみ申し上げそうろう所、早速承知くだされ、お世話を以て、ご当所板橋仲宿わかな家喜八殿方にお抱えくだされ、忝なく存じ奉り候。先借金十五両、年期十年』
 おなつは暫く呆然としたまま黙り込んだ。これは女郎の年期書ではないか。
『年期十年、飯盛女郎』
さては、先程覗いた人相の悪い男が世に言う女衒であったのか。
 書面に「親類相談の上」とあるからは元々自分を女郎に売るつもりだったのか。確かに、世話になった養家は、年貢の上納は勿論、今日の糧さえ困っている状態だ。それが現実だと充分承知はしている。自分が働きに出されるのは致し方ない。少しでも条件が良ければ、江戸だろうがどんな遠い所だろうが我慢して働く。その気は充分ある。
 しかし、よもや女郎なんぞに売り飛ばされるとは、ついぞ思いもしなかった。そうか、そんな恥ずかしい評判を村の衆から立てられるのがいやで、こんな遠くまで娘を売りに来たに違いない。何時もは倹約している義兄のここ数日の金払いの良さからみても、端っからこんなことを考えていたに違いない。結局、己れは養家にとって、危急の際に金を調達するための単なる手立てでしかなかったということだ。
 悔しい、悔しい。思うにつけて悔しい。
  自然とあふれる涙を膝に落としながら、おなつは年期書を握りしめたままでじっとしている。ピクリとも動かぬその白い頬に、涙で濡れた後れ毛が一本。ただ、小さく肩をふるわせながら、押し殺した嗚咽が漏れている。やがて、大粒の涙が、ポタッポタッと畳に落ちる音がする。あぐら座で頭を低く下げたままの常助も一言も言葉がない。苦しそうに嗚咽を上げている。互いにもう何も言わない。
 
         
 部屋に引き上げてきた新平は、早々に床についたもののなかなか寝付けないでいた。
「俺は明日、藩邸に入る。人は俺を見て何と思うのだろうか」
『あれが田嶋の家の嫡男だそうな。一体今更どの面提げて帰ってきたのだ』                      などと陰口の一つも叩かれよう。たぶん喜んで自分を迎えてくれる者などありはすまい。
 いっそのこと、このまま逐電してしまおうか。
ついそんな風にまた弱気になって明日の江戸入りが億劫になる。一体どうして自分がこのように責められねばならぬのか。父親の仇を討ち留めた本懐成就の祝いの席に、嫡男の己れが同席して何の不都合があるものか。これまでの艱難辛苦を思い起こせば、それくらいの報いがあって然るべきではないか。そうも思うのだ。別に妹に情けを乞うて恩賞に預かろう等とさもしいことを考えている訳では無い。互いに労い合うて一切合切の辛苦を忘れ去りたい。それだけだ。誓って恩賞の分け前を請うような女々しい真似などするものか。
 さあ、明日は積年の鬱憤を吐き出せるのだ。とは思う。ところが、考えれば考える程その場に居合わせる己れの姿が如何にも相応するようには思えない。
「否々、明日は兎に角早めに発って、昼前には本所のお屋敷まで行かなくては」
もうそろそろ九つ時分であろうと、行燈の灯を消して布団の中に潜り込む。
 どうしても寝付けない。暫く同じようなことばかりを繰り返しては思案をしている。折角治まっていた胃痛もまた出て来てますます寝付けない。
 ふと気づくと、障子の外に人の気配がある。座ったままのその影はおなつのようだ。
「おなつか?」
ややあって、「はい・・・。新平様、お苦しいのではございませんか?」と返事をした。
 おなつは半刻ほどの間、廊下に座ったままであった。別段用のある訳ではなかった。しかし、声を掛けることさえ憚られた。昨日までの木賃宿では隣り合わせの雑魚寝であった。体を寄せて平気で寝ていた。ところが、部屋が別になると、入ることも気が引けた。
 今宵は逢わないでいる方が良いのかもしれない。部屋の前までは来た。新平の顔は見たい。しかし会って何を話すのだ。今は泣きはらした顔をしている。見られたくはない。
「否、さほど辛いこともない。今日は陽なかにゆっくり休めた。おかげで気分も良い」
「左様でございましたか・・・」
「明日はいよいよ江戸だ。少し気は重いが、此処までのあれやこれやを、懐かしう思い起こしておったところだ」
「・・・」おなつからは返事がない。いつもならば明るく受け答えて、今の鬱いだ気持ちをほぐしてくれるのだが。何時になく無口である。
「此処までお前達兄妹にも世話を掛けたな。お陰で明日は藩に帰参が叶う。感謝して居る」
「いえ・・・、私共こそ不案内な道中をお侍様とご一緒で心強うございました」
「おなつも明日は良い奉公先が見つかればよいな」
おなつは返事を返せない。新平には、肩を落とした寂しいおなつの姿が分からない。
「まあ、そなたのように明るい娘であれば、どのお店も喜んで使うてくれるであろう」
「奉公先は先程決まりました。この板橋のわかな屋というお店です」
おなつは泣き声になるのを必死に堪えて答えたのだが、新平はそれにも気づかない。
「それは良かった。お店に可愛がって頂けるようにしっかりと働くのだぞ」
 はい、とだけ答えておなつはもう流れ落ちる涙を止めることができなくなった。
「良かった、なんて・・・」
 暫くして、
「ええ精一杯勤めさせて頂きます。明朝私共は早くにお店の方に参りますのでお会いすることも出来ないかと存じます。呉々もお体を大切にご自愛くださいませ。では・・・」
そう言っておなつの影は力無く立ち上がる。明るくまだまだ子供じみた娘だと思っていたが、随分大人びた別れの言葉を残して、おなつは静かに去った。
 明日への思いで気を病んでいる新平には、娘の心底を思ん図る余裕など全くなかった。



 
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