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何処をどう通ったのかわからない。
兎に角江戸市中から離れたい。なりふり構わず走り続けた。薄暗くなり始めた辺りの家並みが、余計に新平の心を滅入らせる。
衝動的に刀を抜いていた。
何故抜いたのか・・・
空を切るつもりだったのだ。
何故、そのような気になったのか・・・
それが分からない。
よもや叔父を切りつけることになろうとは思いもしなかった。
何か途轍もない、道理に合わぬことをしでかした・・・、慚愧の念がある。
自分が何をしてきたかをはっきりとは思い出したくない。
あの時の行動を思い出したくはないのだ。
不義を犯せば猥談の種となる。生活に窮すれば娘までをも犠牲にして、己れの命を繋ごうとする。他人の過ちを興味本位で誹謗中傷する。誹謗中傷など酷いものだ。火のないところも煙を出す。それを強請に人を殺める者も出る。そんな悪弊に麻痺した世の中では、実直者ほど戸惑うて一瞬の狂気に大罪を犯す。
ふと気づけば、娼楼が数件並んだところに立っている。その一軒の看板に「わかな家」と書かれている。思わず往来から張見世を覗いた。中には二人の女郎が座っていた。
「おなつ!」
思わず叫んで中に飛び込んだ。そして一人の女郎の手を引っ張って連れ出した。
「何をしやがる!」強面の気色ばんだ若い衆が行く手を遮る。
新平はその若い衆の肩口からまっすぐに太刀を振り下ろし、血しぶきを浴びながら、女郎の手を強く掴んで一目散に走り去った。
どれほどの距離を走っただろうか。やがて人家もとだえ、周りが夕刻の闇に包まれた頃、苦しそうに息をつかせながら二人は畑の畦に倒れ込んだ。赤みを帯びた満月が東の空を照らしている。
「まあひどいお顔」
血を浴びた新平の顔を、自分の片袖を引っ張って丁寧にぬぐいながら、おなつは愛らしい笑顔を見せた。新平は思わずおなつの手を強く握り直した。
「さあ、行こう。」
おなつは黙ってうなずいた。おそらく今頃、わかな家は大騒ぎだろう。芦田藩も大騒動になっている筈だ。しかし、そんなことは最早関係ない。
おれはさっきあの縁切り榎木の下を走りながら、この世の憂さとはきっぱり縁を切ってきた。
「おなつ、どこに行くかは分からんが、俺と一緒に行きたいか?」
おなつは涙でもぬぐうたのか、袖を目に当ておし黙ったままもう一度大きくうなずいた。
土手の傍らに、一日を終えた一本の野萱草が小首を垂れて揺れている。ちょうど赤襦袢を着た女郎姿のおなつのようだ。
夏の野の 茂みに咲きし 忘憂草
この日をかぎりと 朱に染めにけり
小一老
兎に角江戸市中から離れたい。なりふり構わず走り続けた。薄暗くなり始めた辺りの家並みが、余計に新平の心を滅入らせる。
衝動的に刀を抜いていた。
何故抜いたのか・・・
空を切るつもりだったのだ。
何故、そのような気になったのか・・・
それが分からない。
よもや叔父を切りつけることになろうとは思いもしなかった。
何か途轍もない、道理に合わぬことをしでかした・・・、慚愧の念がある。
自分が何をしてきたかをはっきりとは思い出したくない。
あの時の行動を思い出したくはないのだ。
不義を犯せば猥談の種となる。生活に窮すれば娘までをも犠牲にして、己れの命を繋ごうとする。他人の過ちを興味本位で誹謗中傷する。誹謗中傷など酷いものだ。火のないところも煙を出す。それを強請に人を殺める者も出る。そんな悪弊に麻痺した世の中では、実直者ほど戸惑うて一瞬の狂気に大罪を犯す。
ふと気づけば、娼楼が数件並んだところに立っている。その一軒の看板に「わかな家」と書かれている。思わず往来から張見世を覗いた。中には二人の女郎が座っていた。
「おなつ!」
思わず叫んで中に飛び込んだ。そして一人の女郎の手を引っ張って連れ出した。
「何をしやがる!」強面の気色ばんだ若い衆が行く手を遮る。
新平はその若い衆の肩口からまっすぐに太刀を振り下ろし、血しぶきを浴びながら、女郎の手を強く掴んで一目散に走り去った。
どれほどの距離を走っただろうか。やがて人家もとだえ、周りが夕刻の闇に包まれた頃、苦しそうに息をつかせながら二人は畑の畦に倒れ込んだ。赤みを帯びた満月が東の空を照らしている。
「まあひどいお顔」
血を浴びた新平の顔を、自分の片袖を引っ張って丁寧にぬぐいながら、おなつは愛らしい笑顔を見せた。新平は思わずおなつの手を強く握り直した。
「さあ、行こう。」
おなつは黙ってうなずいた。おそらく今頃、わかな家は大騒ぎだろう。芦田藩も大騒動になっている筈だ。しかし、そんなことは最早関係ない。
おれはさっきあの縁切り榎木の下を走りながら、この世の憂さとはきっぱり縁を切ってきた。
「おなつ、どこに行くかは分からんが、俺と一緒に行きたいか?」
おなつは涙でもぬぐうたのか、袖を目に当ておし黙ったままもう一度大きくうなずいた。
土手の傍らに、一日を終えた一本の野萱草が小首を垂れて揺れている。ちょうど赤襦袢を着た女郎姿のおなつのようだ。
夏の野の 茂みに咲きし 忘憂草
この日をかぎりと 朱に染めにけり
小一老
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